第三百八十二話【乗り越えるべき山】
ハルの街を出発し、私達は無事にマチュシーへと辿り着いた。
そしてそこでひと晩を明かし、翌日の夕暮れの少し前に……
「……やっと戻って来られました。思えば、これほど長く不在にしたことは今までに無かったかもしれませんね」
ずいぶんと久しぶりなランデルへと、そして宮へと帰還した。
誰ひとり欠けることなく、全員が無事健康で。
今回の経緯を振り返ってみれば、そもそもは行方知れずになっていたアギトとミラを探す為にランデルを出発したのが発端だ。
そういう意味でも、こうして全員が無事であること……最大戦力であり、欠かせない仲間となったふたりがしっかり合流して帰還出来たことは、何よりも喜ぶべきだろう。
吉報はそれだけではない。
今まではただ不明な恐怖でしかなかった魔女について、そして魔人の集いについて。多くのことが解明され、そして解決された。
魔人ゴートマンの捕縛。
散々苦しめられた脅威を、この手でしっかりと確保した。
これは、友軍到着後の戦果としてはもっとも大きなものになるだろう。
これで私達は、固めた戦力を逆用される心配をしなくて済むのだから。
それに、魔女との戦いを経て、それでも無事に帰還したこと。これも大き過ぎる収穫だ。
私達には……私とユーゴには、あの存在と対峙して、何ひとつ守れずに、すべてを失った上で逃げ帰ることしか出来なかったという屈辱の記憶がある。
それをわずかでも払拭出来たのだ。
不可能と難しいとでは天と地ほどの差がある。
認知を上書き出来たこと、それはきっと後々に大きな意味を持つだろう。
そして何より、ヨロク以北の現状――ダーンフール、フーリス、それにカストル・アポリアの現状を把握……無事を確認出来た。
ヴェロウと情報を共有し、協力関係を結ぶことも叶ったのだ。
総括すれば、今回の遠征によって得られたものは、あの敗戦で失ったものすべてを――領地も、絆も、誇りも、すべてを取り戻せたという事実と、そして魔女との戦いが現実的に可能であるという証明だ。
不安と恐怖に駆られて出発したというのに、終わってみれば、この上無いほどの収穫を手にしている。
「これだけの良い報せを持ち帰れば、きっとパールもリリィも喜んでくれるでしょう……と、そう思っていたのですが……」
「……陛下、お言葉ですが……今はどのような好事にも喜んでいる時間はありません。お戻りになられたのでしたら、すぐに職務へ取り掛かってください」
「陛下不在の間に、問題は文字通りこれだけ積み上がっておりますので」
だから、きっと皆が喜んで迎えてくれるだろう……と、そう思って執務室へ戻った私を待ち受けていたのは、真っ青な顔で机に向かっているリリィと、顔色は変わらないものの、普段よりずっと忙しなくしているパールと、そして彼に指差された私の机……の上に、私の背丈と変わらないくらいまで積み上げられた紙の山だった。
「た、たしかに長く留守にしましたが、貴方達がいてこれほどまで仕事が滞るとは……いったい何があったのですか……?」
しかし……その光景にはどうにも違和感がある。
たしかに、私が女王で、私でなければ決められない問題も少なくないだろう。
だが、そうでない問題だって多い。
パールとリリィは本当に優秀だ。
私などが女王としてこれまでやって来られたのも、ふたりの協力があったからこそ、なのだから。
そんなふたりが、それに他の役人達が揃っていてなお、これだけの問題が文字通り山積みになるなど、いったいこのアンスーリァには何が起こって……
「…………陛下。ここに積み上げられているのは、貴女のこれまでの行為……いえ、治政による結果です」
「端的にお伝えするのならば、オクソフォン、並びにアンスーリァ南部の三都市について」
「陛下が自ら締結していらした約束事についてのものばかりです。お忘れとは言わせません」
「…………すみません、すぐに取り掛かります」
私が起こしたことだった……
そう……か。いや、当然だ。
この問題は、私が確認し、決定しなければ、絶対に進行しない問題ばかりなのだから。
積み上げられていたのは、オクソフォンにて交わした約束――つまり、国土の譲渡についての、それぞれの地区の資料と、あちら側からの申請と、議会からの意見書……苦情と……数え始めるとキリが無い……
しかしながら、これは紛れもなく私が撒いた種だ。
そして、私以外にはどうすることも出来ない問題だ。
その……これに関われば、後々に自分が責任を負わなければならなくなりかねないから、誰も手を付けたがらない問題だ……とも言い替えることが出来るかもしれないが……
「これは骨が折れそうです……こうなったら、ユーゴにも手伝いをお願いして……いや、そういうわけには……」
あの子をこんな問題にかかわらせるわけにはいかないだろう。と、流石の私にも自制心というものが働いた。
何かの問題が起こった時に、彼にまで責任が及ぶなんてことはあってはならない。
そうでなくても、彼には重たいものをいくつもいくつも背負わせてしまっているのだから。
それに、そもそもそんな時間も余裕も彼には無い。
彼には今、自分を見つめる時間が必要なのだ。
その能力を……この世界でもっとも強くなれるという能力を最大にまで伸ばす為に、アギトとミラに指導して貰う時間が。
ならば、やはりこの山は私ひとりで片付けなければならないだろう。
そうと分かったならば、腹を括り、気合を入れ、早速手を付け始め…………
「…………あの、パール。その……すみません、ひとつだけ報告をしても良いでしょうか……?」
「あの……ですね。此度の遠征にて、ダーンフールやカストル・アポリアの無事を確認した……とは、先ほど伝えたと思うのですが…………」
「……? はい、窺いました。大変喜ばしいことです」
「独立国家として認める……と、以前に陛下が発言してしまっていますから、そこを今度はアンスーリァ領として解放するなどと話を変えることは不可能かと思いますが、しかし協力関係を結べたとのことでした……から…………陛下?」
協力関係を結ぶに際し、ダーンフールとフーリスの統治権を譲渡する。そんな約束をしてきました。と、私がそれを伝えると、パールは真っ青な顔で…………いいや、違う。
青筋を浮き上がらせて、今にも怒声を発しそうなほど鋭い眼付きで、けれど至って冷静に、私をじっと見て……しばらく硬直してしまった……
「……その……違……いえ、違いません」
「私は、カストル・アポリアの協力無しにはこの先を解放することは不可能だ……と、そう判断しました」
「その上で、彼らにとって私達に手を貸すだけの見返りを準備することがどれだけ必要か、どの程度ならば釣り合うかと真剣に考えました。そして……」
ふたつの街の譲渡と、そしてこの先に解放される地区の、逃げ出した人々を受け入れる……つまり、移住を望む国民を自由に出国させる約束を取り付けた。
これは、間違いなく必要な……このアンスーリァという国に、この島国に住む人々にとって欠かせない条件だと、私は本気でそう思ったから。
だから、それを取り付けた。
私がそう説明すると、パールはまだしばらく動かなかった。声も出さなかった。
どれだけ呆れて、憤慨して、もしかしたら立ったまま気を失ってしまいそうになるほどのショックを受けているのかも分からない。だが……
間違っていない。私は決して間違えていない。
相談しなかったこと、連絡が遅れたこと、にもかかわらず王として決定してしまったことについては間違えた気もしなくもないが、しかしこの指針は決して間違ってなど……
「…………っ。であれば、陛下にはこれからしばらく外出を控えていただく必要があります」
「今あるものに加え、それを放置した状態でそのような約束を……いいえ。条約を取り付けていらしたのならば、当然議会からはこれまで以上に……かつてないほどに反発を受けるでしょう」
「どのような用件であれ、遊び歩く時間はありませんよ」
「……っ! はい、覚悟しています」
しばらくの沈黙の後、パールは険しい表情のままそう言った――自分で自分の決定に責任を持てと、咎めるではなく、自ら解決しろと託してくれた。
私がやるしかない、やらなければならない仕事だから。
もしかしたら、ただそれだけのことで背中を押してくれただけかもしれない。
だが、私はそんなパールの言葉に、態度に、たくさんのやる気を貰った気分だった。
私が幼い頃から見てくれていて、王としての未熟さを良く知っていて、何よりその立場に求められる振る舞いの過酷さを理解しているパールに、私はやっと仕事を託して貰えるだけの王になれたのだ。
と、勘違いだったとしても、そんな思いが気分を昂らせてくれる。
そうとなれば、やっと手にした信頼を裏切るわけにはいかない。
私はすぐに机に向かって、山積みになった紙束に目を通し始めた。
書き殴られた意見書からは議員の強い憤りも感じて、早速めげそうにもなったが……しかし、挫けるわけにはいかない。
パールの信頼の為にも。それに、こうして国を思って意見してくれている皆の為にも。




