第三百八十話【夜も明けて】
眠ることは出来なかった。けれど、夜が明けるまでは会話も無かった。
休め。と、ミラはそう言った。
優しい言い方だったが、それは半ば命令じみた意味を持っていた。
私達はランデルへと帰る。それは、ひと仕事終えてのんびりと帰還するという意味ではない。
私達はこれから、魔女を倒す準備をする為に帰るのだ。
まだ――まだ、戦いは終わっていないのだ。
その途中にゴートマンに襲われた――背後を取られた、待ち伏せされた、奇襲を仕掛けられた、ともなれば、ランデルへ戻った後にも警戒を解くことはままならない。
つまり、このわずかな安息の時間を最大限に活用しなければならない……と、ミラはそう言いたかったのだろう。
横転した馬車の中で、声も発さず、瞼も開かず、私達は夜明けを待った。そして……
「……バカアギト、そろそろ起きなさイ。さっさと作業に取り掛かるわヨ」
「……おーう。人使い荒いけど、頼りにしてくれるならそれでもいいよ、この際」
瞼を閉じたままでは、まだ外の明るさは分からなかった。
けれど、ミラの言葉にゆっくりと目を開くと、真上に開いた覗き窓からはうっすらと青い空が見えた。
顔を横に向けて扉の外を見れば、朝日に照らされて真っ白になっている地面も見える。
「……倒された向きが逆で本当に良かったと思います。まどろんでいるところへ、扉から直接朝日が射し込んでいたら……」
「あんまり気持ちの良い目覚めにはならないでしょうネ。おはよう、フィリア。ちょっとは休めた?」
はい。と、私は返事をして、まだ膝の上で私を抱き締めているミラの背中を撫でた。
すると、彼女は目を細めてぐりぐりと頭を擦り付けて来る。
ふふ……こうしていると、本当に甘えん坊な子犬に見えてしまいますね。
「おい、バカミラ。人に指示したんだからお前も早く動け。フィリアさんも、あんまり甘やかしてばっかりいないでください。際限無いんですから、そいつは」
「す、すみません……つい……」
お、怒られてしまった……
しかし、アギトの言うことももっともだ。手早く作業を終わらせなければ、出発が遅れるばかりだ。
ここはもうハルからそう遠くない地点だから、朝のうちに到着出来れば、そのままマチュシーまで戻れるだろう。
そうなれば、昨晩の遅れも取り戻せる。
「それじゃ、フィリアとユーゴは外に出てテ。さっさと直しちゃうかラ」
「はい、ありがとうございます…………いえ、私達も手伝います。何か出来ることはあるでしょうか」
いけない。と、なんだか流されかけてしまった自分を諫め、私は手伝いを買って出た。
アルバさんのところでもロクに働かなかったのだから、ここで少しは挽回しないと。
それに、アギトとミラは重要な戦力だ。
特にミラは、ゴートマンとも魔女とも渡り合える可能性を秘めた唯一の存在なのだ。
そんな彼女ばかりに負担を強いては、いざという時に立ち行かなくなってしまいかねない。
「……ありがとウ、フィリア。でも……ううん……」
任せられる仕事が無いワ。と、ミラは笑顔でばっさりと私を斬り捨てた。
この子はたまに、一切容赦せずに人を叩き切る癖があるな……
しかし……その……頭の痛い話だが、彼女の言葉の通りではあるのだ……
馬車を直す……とは言うものの、そもそも私には大工仕事の経験など無い。
魔術錬金術を学んでいる時には多少の鍛冶の真似事をしたこともあるが、それもこれほど大きなものを造ったり直したりすることは無かった。
それでも出来る仕事が、雑用があるかもしれない……とは思うのだが、その役割はすでにアギトが任されている。
手先の器用なユーゴにも声が掛からなかったということは、本当にミラにしか出来ない……あるいは、ミラひとりで請け負った方が早い作業ばかりなのだろう。
「うう……すみません、無力で……」
「何言ってるのヨ。フィリアはフィリアにしか出来ないことがあるんだから、こんなことに体力使わなくていいノ。ケガなんてされても困るしネ」
いえ、貴女にしか出来ないことの方が多いのです……現状では……
それに……心配のされ方が子供のそれだ。
小柄で愛らしいと思っていたつもりが、私の方が幼稚な子供の扱いをされてしまっている……
「……では、私はユーゴと共に後方部隊に連絡をしてきます。馬車が直り次第出発することと、ハルに到着してからのこととを」
「任せるワ。もっとも、その場で指示しても付いて来てくれると思うケド」
みんな行き当たりばったりには慣れてるからネ。と、ミラは苦い顔でそう言った。
ユーザントリアでの彼らの指揮官……いや、騎士団そのものの方針を定める人物は、それほどまでに奔放な人物なのか。
私が言えた義理ではないが……部隊に無理をさせ過ぎるのもどうかと思う……
「では、ここは任せます。ユーゴ、行きま――」
「――それなら俺ひとりで良いだろ。このアホ。お前はここでじっとしてろ」
一緒に行きましょう。と、そう言いかけたところで、ユーゴに冷たい視線を向けられてしまった。
どうしてだろう……今朝はみんなして当たりがきつい気がする……
「チビ、フィリアから目を離すな。勝手にどっか行くし、勝手に巻き込まれるからな。使い物にならないにしても、近くに置いとけ」
「……? まあ……言われなくても、ここに残るなら守るつもりだケド……」
うぐ……どうしてもユーゴからは信頼されていない……いや、悪い意味での信用が強くなり過ぎてしまっているらしい。
たしかに、ここのところはずっと腑抜けた姿を見せてしまっていたが……
私が反論の言葉を探している間に、ユーゴはさっさと後方の馬車へ向かってしまった。
もしかして、彼も彼で負い目を……ゴートマンとの戦いに手出しできなかったと、役に立てなかったと感じているのだろうか。
それで、少しでも自分に出来ることを……と……
「珍しいですね。ユーゴがフィリアさんから離れようとするのって」
「……え? ええと……ううん……そう……でしょうか……?」
そんな私達のやり取りを見て、アギトは首を傾げてそう言った。
言われてみると……いや、それは少しだけ誤解があるな。
ユーゴが私のそばから離れないのは、近くに危険が潜んでいる可能性がある時だ。
安全ならば、むしろ私とはあまり関わらない……距離を置いて、より遠くの危険を探そうとしている……ような気がする。
それに、単独行動を取りたがるのは昔からずっとそうだ。
あまり褒められたことではないが、彼は自分の能力を前提として、先んじてものごとを解決したがる癖があった。
最近はそれも鳴りを潜めているが、その根っこにあるのはきっと……
「……彼はいつでも、私や他の皆が巻き込まれないように……と、それを重要視して行動しているのだと思います」
「なので……今回ならば、今の彼よりも周囲の危険を感知出来るミラのそばにいるべきだろう……と、そう考えたのでしょう」
……他人を思い遣る優しさ……なのだろう。
それ自体は素晴らしいものだが、彼の場合は…………今の、あの戦いで絆を失った彼の場合は、ネガティブな動機になってしまっている可能性も十分に考えられる。
まだ自信を取り戻せていないのだろう。それが、私の中に浮かんだ結論だった。
かつての彼ならば、自分のそばこそが最も安全な場所だと、そう考えたから、私を近くに置いていた。
しかし、今はそれが変わってしまっている。
「……アギト。ランデルに戻ったら、またユーゴの訓練に付き合ってあげてください」
「体調の不良は理解しています。貴方の回復が重要なことだとも分かっています。ですが……」
「分かってます、任せてください。俺の体力は最悪ハリボテでも平気ですから。それより、ユーゴが強くなる方が優先です」
私の頼みに、アギトは胸を張って答えてくれた。
そしてそんなアギトをミラが呼び付けて、馬車の復旧作業は始められた。
どうやら、車軸が破損してしまっているらしい。
簡単な補修では馬車の重みに耐えられないだろうが、果たしてどうするのだろう。
ミラのことだから、錬金術も用いてなんとかしてしまうのだろうか。
それから私は、修理を進めるふたりの手伝いを……しようとして、出来ることが無くて、その場でうろうろしながらふたりの頑張る姿を応援するのだった。
なんと……なんと無力なのだろう……
――――ユーゴ――――
少年の耳に――頭の中に、声が残っていた。
眠っていた間に――闇に飲まれていた間に見た、悪い夢の中の、最悪の瞬間の、あり得ない筈の声が。
「――っ」
少年ユーゴは夢を見た。
あの日の夢を――自らが死を迎える瞬間の、その夢を。
見慣れた街、見慣れた国、見慣れた世界の――もう二度と訪れることなど無いと思っていた、生まれ故郷の夢。
生まれ育った街、その街にあるひとつの大きな河川。
そこから眺めた最期の景色を、彼はずっと忘れない。
忘れないものを、もう一度見せ付けられて――そして、そこには――
――――ユーゴ――――
あり得ない。
そこにその人はいない。
いてはならない――
彼は声を聞いた。大切な人の声を。
あの世界を諦めてから出会った、大切にしたいと思った相手の声を。
その過去を――自らの弱さを知られたくない、大切な人の声を――――




