第三百七十七話【光景】
――冷たい――
身体が、頬が、何か冷たいものに触れている。
ああ、いや。違う。どうやら私は、冷たい床の上に寝転んでいるらしい。
「――ぅ――ん……」
意識はゆっくりと覚醒し始めて、それから…………?
事態は……把握出来なかった。
私は……いったい何をしていたのだったか……
「……ここ……は……?」
床が……地面が冷たくて、身体の芯から凍えてしまいそうだ。
それでも、すぐに起き上がろうとはしなかった。思えなかった。
何も……考えられないし、思い浮かばない。
私は……私……? 私……とは……
「……? 私は……私は、フィリア……」
フィリア=ネイ――そう、そうだ。私には名がある。
フィリア=ネイ。フィリア=ネイ=アンスーリァ。
国の長であり、人々を守る責務を負った者だ。
そんな名前を、義務を、責任を思い出せば、しんと冷めきった空気の中でも、気力が湧き上がって来た。
そうだ、やらなければならないことがあった筈だ。
私はたしか、まだ何かを途中のまま…………?
「……眠ってしまった……のでしょうか? しかし……」
思い出せない。昨日は何をしていただろうか。
いや、昨日だけではない。その前……いや、いいや、その前の前、前の前の前も。
ずっと……王として位を継いで以来、私はこれまで何をしていただろうか……
「……私が……フィリア……女王……なら……」
王として、民を導く為に奔走していた……だろうか。
きっとそうだ、そうであって欲しい。
とは思うものの……何も思い出せない。
私はどんな王だったのだろうか。
私は今まで、いったい何をしていただろうか……?
意識ははっきりしている……と思う。
けれど、私というものがあいまいになってしまっている気分だ。
記憶もおぼろだが、何よりも……
「……? 私は……」
私は――フィリア=ネイとは、どのような人間だっただろうか……? それがもう思い出せない。
私は……父に……先王に憧れて……憧れていた……のだったのだろうか……?
それとも、もっと他のものに……?
分からない。分からない。
何も思い出せないし、何も考えられない。
記憶のすべてがあいまいで、考えるという行為の根幹がまるで成立していない。
目を開けた。
ゆっくりと、恐る恐る。
冷たい地面に寝ころんだまま、身体が震えるのも気にせずに、瞼だけを開けた。
けれど……
目の前にあるのは、見たことの無い景色だった。
だが……見たことのある景色についても、これと言って記憶が無いから。
だから……もしかしたら、これは……案外私の生まれ育った場所……だったりするのだろうか……?
壁があった。壁……だろう。
コンクリートに思えるそれは、ずっとずっと空高くまで伸びていた。
ああ、そうだ。思い出した。
魔獣だ。魔獣がいるのだ。
街の外には魔獣がいて、入って来られないように壁を作ったのだ。
けれど……こんなにも大きなものだっただろうか。それに……
ごろんと寝返りを打って、私は仰向けになった。
そうすると、壁だと思っていたものの正体が違って見えた。
壁は、私の周りをぐるりと囲っているらしい。
右を向いても、左を向いても、上を向いても、どこにも壁はそびえ立っていた。
ただ……この場所が壁に隔離されているわけではないらしかった。
身体を起こして正面を向けば、そこには壁の切れ目が……道が続いていた。
「……? どこへ……」
この先に進めば、どこかへ出られるのだろうか。
壁に囲まれたこの場所がなんであるかも分からないままだったが、その先に好奇心をくすぐられてしまった。
だから、私はゆっくりと立ち上がって、服に付いた砂ぼこりも払わずに歩き出した。
壁の切れ目の道へと進むと、そこには……壁があった。
横に広く続く、高い高い壁。
けれど……今度は左右に切れ目が続いていて、ここは分かれ道の真っ只中のようになっている。
右へ進むか、左へ進むか。
あるいは、右へ戻るか、左へ戻るか。
その選択を迫られているようだ。
「……? 私は……」
私の名前は……フィリア……だ。そう……そうだ、フィリア=ネイ…………?
私は……なんだっただろうか……?
フィリアという名だけは覚えているが……はて。
道を進んだら、何かを忘れてしまった気がする。
戻れば……思い出すのだろうか……?
しかし、私は好奇心に負けてしまった。
後ろを一度だけ振り返ってから、私はまた壁の方を向いた。
右へ行くか、左へ行くか。
悩んだ末に、立ててあった矢印の看板に従うことにした。
これならば、初めから悩まずとも良かったかもしれない。
身体を右へ向けて、まっすぐに歩き始める。
すると……また、壁に……いや、いいや。これは……壁ではなさそうだ。
窓があった。
大きな大きなコンクリートの壁には、ガラスの窓……だと思う、透明な部分があった。
私の知るガラス窓とは形が随分違うけれど、目的は同じもの……なのかな? ならば……
「……? 私は……?」
ならばこれは、この壁は――このコンクリートの建造物には、部屋があるのだ。
そんな答えを思い付いた時、私は……また、何かを忘れた気がした。
なんだっただろう。少なくとも、名前は忘れていない。
と言うか、そもそもそれくらいしか覚えていないのだし。
私はフィリア。フィリア……そう、フィリアだ。フィリア……?
そんな名前だった筈だが……もしかしたら、何かを忘れてしまっているだろうか……?
後ろを振り返ってみた。
その先には、先ほど通って来た道が……壁に囲まれた場所が見えた。
戻れば何かを思い出せるような気がした。
けれど、私は好奇心に負けてしまった。
窓のある壁に沿って、私はまた更に道を奥へと進んだ。
この先には何があるのだろう。この先で、私は何を見るのだろう……?
壁はまた切れ目を迎えて、そして……私はそこで、壁ばかりの道から抜け出した。
抜け出してしまった。
そこには……川……だろうか。
コンクリートに周りを囲まれた、流れている水があった。
「……? わたし……は…………?」
それを見たら、私は何かを忘れてしまった気がした。
けれど、何を忘れてしまったのかが分からなくて、それが恐ろしくなった。
こんなことは初めてだ。
ただ道を歩いていただけなのに、何かを忘れてしまった錯覚を覚えるなんて。
けれど、目の前の光景には少しだけ心を落ち着けられた。
空が赤くて、水面にその色が反射している。
それが綺麗で、見ていると気持ちが良かったから。
川……だと思う、その流れの正体は、私にはまだ分からない。
この水の流れはどこへ続いているのだろう。
どこから来て、どこへ向かうのか。
それが気になったから、私は後ろを振り返ることもせずに、進む先をなんとなく決めた。
流れに沿って、川下へ。
少し進むと、道が川から逸れ始めてしまった。
それは困る。
私はこの川の景色を……鮮やかな赤色を楽しみたくて歩いているのだ。
だから、私は道から外れて…………道…………?
硬くて黒い地面から、土の地面へと移動して、私は水の流れを追った。
後ろから射している陽の光が、行く先に長い影を落としている。
そうだ、これを道しるべにしよう。
幸い、私が進みたい方を示してくれているし、どれだけ進んでも付いて来てくれる。
こんなにも頼もしい指標があるとは、なんて幸運なのだろう。
私は川を下った。
途中、道が無くなってしまったから、足首までを濡らしながら、川の中を歩いた。
けれど……
途中から、水のかさが上がってきてしまった。
濡れることも、冷たいことも平気だったが、足が重たくなるのは嫌だった。
もっと進みたい、もっともっと……先へ……?
「…………?」
私はそこで立ち尽くした。
何をしていただろうか。
これまで……ええと……?
どうして、私は水の中にいるのだろう。
足を濡らして……冷たくて……
立ち尽くしたまま、私は顔を上げた。
ずっと水面ばかりを映していた視界に、また新たな景色が映り込んでくる。
橋があった。
どうやら、川を横切る為のものらしい。
なるほど、当然だ。
だって、こうして渡っていては、足が濡れて冷たいもの。
きっと私は、川を渡ろうとしていたのだ。
ならば、この橋を進まない理由など無いだろう。
そう思って、私は水から上がった。
濡れた足で坂を上り、頑丈そうな橋を前にして、私はまた立ち尽くした。
そこに誰かがいるのだ。
誰か……人……が……? 誰……?
「…………ユー……ゴ……?」
言葉が口から出た。
思いがけず、口を衝いた。
けれど……それが何を意味するかは、すぐには分からなかった。
すぐには……でも……
「…………ユーゴ……ユーゴ……? ユーゴ――っ!」
少しずつ近付いて、その顔がはっきりと見えるところまで来れば、私の中に答えがあることに気が付いた。
ユーゴだ。
彼は……彼はきっと、私にとって大切な人物だ。
何か、大きな恩があるとか、深い絆があるとか。
詳しいことは分からないが、とてもとても大切な人だと思った。
私にとって――フィリアにとって――
「……っ! 私は――っ。ここは……っ! わ、私はいったい……」
ぎゅん! と、すごい勢いで風に吹かれたような衝撃があった。
その時、私の頭の中にはよく分からない記憶が――――本来あるべき私の記憶が蘇っていた。
私の名前はフィリア――フィリア=ネイ=アンスーリァ。
アンスーリァの王で、民を守らなければならないもの。そして……
目の前にいるのは……ユーゴ……なのだよな……?
襟の立った黒い服を着た、どことなくまだ幼げな……いや、もとから彼はこうだったかな。
とにかく、いつも見ていたあの横顔がそこにはあった。
けれど、その姿には見覚えが無かった。
まるで儀礼用の服のような装いに見えるが、果たしてどうなのだろう。
金色のボタンで前を止めているし、少なくとも農民が着る服ではないように……思えて……
「……ッ!? こ、ここは……いったい……」
彼の姿についてじっくり考えているうちに、自分の周りの景色にも気が行った。
ここは……どこだ……?
たしか、私はさっきまで壁に囲まれた場所にいて……切れ目が……道があったから、そこを進んで……?
足下には、コンクリートで舗装された道が……いや、私の知るコンクリートとは何かが違う、見慣れない道が伸びている。
目の前には橋が架かっているが、そのどこにも木材が使われている様子は無い。
それどころか、周囲に木造らしい建造物がひとつとして見当たらない。
少し遠くへ目をやると、頭がおかしくなりそうなほど背の高い塔が建っている。
けれど……それには窓があって――複数の窓があって、それが多くの部屋を持つ建物であることを見せ付けられた気分だった。
「ここは……この場所は、この国は――――この世界は――――」
ふと、頭に浮かんだものがあった。
それは、何度も耳にしたとある世界の話だ。
私の知る世界よりもずっと先の文明を生きる、とある少年の暮らしていた世界。
彼が――生前の彼が――――召喚される前のユーゴが暮らしていた――――
では――今、目の前にいるあのユーゴは――
すべてを理解した――つもりになった。
もちろん、それが途方も無い勘違いだとはすぐに分かった。
けれど、それでも良かった。
嬉しかったのだ。
思考を一度放棄してしまうほどに、その事実が嬉しかった。
ユーゴだ。
ユーゴがいる。
ユーゴが――死した筈のもうひとつの世界のユーゴが、まだこうして生きていたのだ。
私はずっと負い目を感じていた。
ユーゴの召喚を、彼の活躍を、称えれば称えるだけ、喜べば喜ぶだけ、彼の死という事実にも、同じ感情を抱いてしまっていたのではないか、と。
けれど、それは杞憂だったのだ。
ユーゴはまだ生きている。
こうして、私の目の前で生きて――――
「――――ユーゴ――――?」
ばちゃ――と、水の跳ねる音がした。
そして……気付けばユーゴはいなかった。
今の音は……ユーゴは……?
私が喜んだこの瞬間は……この光景は――――この事象が意味するものは――――
「――――っ! ユーゴ――っっ!」
私は大急ぎで彼がいた場所――先ほどまで佇んでいた場所へと向かった。
そして――そこから川底を覗き込んだ。
違う――違う――違う違う――そんなわけはない――――っ!
そう念じながら――現実から目を背けながら――川底を覗き込んで――――そこで――――
黒い影が見えた気がした。
真っ黒な服を着た、誰かの影を。
水は深いらしくて、その影はすぐに見えなくなった。
流されてしまったから、全然違う場所に打ち上げられてしまったから……ではないらしい。
「――――嘘だ――――っ。違う――そんな筈はありません――っ。だって――だって貴方は――――」
違う――っ。
気付けば私は叫び声を上げていた。
けれど――何も変わらなかった。
違うと、嘘だと、何度叫んでも、その答えは――――事実は消えてはくれなかった――――
少年ユーゴは――――いや――いいや、違う。
ユーゴとして私の前に現れてくれた彼は、自らの手でその命を――
私が目にしたのは――――その瞬間の――――
――――びく――――と、身体が跳ねた。
それからはまどろむ暇も無く、急激に意識が覚醒して行った。
ここは……砂っぽいこの地面は……
「……んむ、起きたわネ。なら、このバカもそのうち目覚めるのかしラ」
声が聞こえた。聞き覚えのある女の子の声だ。
私は急いで起き上がって、その声のした方を向いた。
そこには、ミラがいた。
ミラが……アギトの首を咥えて、こちらをじっと見ている姿が……じっと……咥え…………ええと…………うぅん……?




