第三百七十五話【翼】
視界のすべてが真っ白に染められ、私は身体を震わせてしゃがみ込むしか出来なかった。
それの訪れからほんのわずか――極小の間を空けて、轟音が腹の底を痺れさせる。
雷魔術――いつかも、何度も、今だって目にした、ミラの誇る雷魔術。
その反応が、目の前に迫っている。
だが――それは――
「――っ! 今――のは――」
目を瞑ったままでも、瞼越しに雷光の収まる瞬間を見逃さなかった。
見逃せなかった……のかもしれない。
ずっと……魔術の発動から今に至るまでずっと、腕で顔を覆っても、その光は容赦無く私達を照らしていたから。
光は――雷は収まった。
けれど、それをこうして実感出来ている。
それが意味するところは、私が今の攻撃で殺されなかった……ということだ。
そう理解すれば、次に襲う不安は……
「――っ! ユーゴ! アギト! 無事ですか!」
私でなく、ほかのふたりが――魔女に届き得る唯一の楔として認識させた、アギトが狙われるか。
あるいは、私もアギトも諸共に狙った上で、それをユーゴが庇ってくれたか。
まだ目では何も見えない私の頭の中に、嫌な光景が浮かび上がった。
また――また、すべて失ってしまうのか――
必死になって目を開けようとしているのに、瞼は縫い付けられてしまったかのように動かなかった。
アギトもミラも、それにユーゴまでもが、あのゴートマンの手によって殺されてしまったなどと――
「――斬り断つ北風――っ!」
「――っ! ミラ――」
地面を手で探りながら進む私の耳に、ミラの声が――言霊が聞こえた。
彼女は生きている――そして、まだ戦闘の意志を残している。
なら――あの子が救援に奔走していないということは――
「――げほ――っ。フィリア、どこだ! アホ! デブ! 返事しろ!」
「――っ! ユーゴ!」
それからすぐに、ユーゴの声が遠くから……いや、先ほどの雷鳴で耳がまだおかしいだろうから、きっとそう遠くない場所から彼の声が聞こえた。
暴言交じりに私を呼ぶ――探している声が。
「っ! フィリア! こっち来い! 早く……っ! ああもう、まだ目が見えてないのか! このデブ!」
デ――い、今体型を揶揄する必要がどこにあるのですか……っ。と、憤慨する間も無く、私の身体は宙に浮かんだらしい。
目はまだ見えなかったが、足が地面から離れて、身体が真っ直ぐではなくなったから、きっとそうなのだろうと思った。
そして、そうしてくれたのが誰か……などは、目が見えずともすぐに分かった。
ユーゴだ。声も聞こえたし、以前に担がれた時と同じ感じがする。
それと、ミラではないが、ユーゴのニオイくらいはこれだけ近ければなんとなく分かるから。
「ユーゴ、いったいどうなっているのですか? 貴方は目が見えているのですか? アギトは、ミラは、皆はまだ無事で……」
「うるさい、静かにしてろ。俺だって何がどうなってるかなんて……」
担がれたままどこかへ運ばれて、私は疑問のひとつも解消されないうちに地面に降ろされた。
少しだけ乱暴に、けれど怪我などはしないくらいに。
「……ゴートマンだ。あのうざい喋り方のやつが出て来て……それで……」
そうしてから、ユーゴは私に説明を始めた。
ゴートマンが現れて、ミラと交戦状態に入った。と、そんな言葉から、あの男はこちらからも視認出来る距離には存在するのだ……とだけは理解出来た。
「…………っ。アイツ……チビ……ヤバいかもしれない……っ!」
「……ミラが……? ユーゴ、それはいったい……」
状況はほとんど理解出来ていない。
ユーゴがきちんと説明してくれないから、彼でも状況を把握出来ていないから……だけではない。
目が見えなくて、音もほとんど聞こえなくて、手掛かりらしい手掛かりのほとんどが失われたままにもかかわらず、何かを考えるだけの余裕が私に無かったからだ。
ゆっくりとだが、目を開けられるようになり始めた。
ちかちかとまだ眩んだままの景色だったが、それでも状況は――戦況は少しずつ明らかになり始める。
ひとまず、今は壊された馬車の陰に隠れているのだな……と……
「――――燃え盛る紫陽花――――ッ!」
「――――燃え盛る紫陽花――――っ!」
その陰から顔を覗かせようとして――それを咎めるように、言霊が聞こえてきた。
それは、ミラの言霊だった。ミラの声だった。ミラの魔術だった。
だが――ミラひとりのものではなかった――
「――な――これは――っ!」
「――アイツ――チビの魔術を――」
ぼんやりと見える景色の真ん中に、鮮やかなオレンジ色を見付けた。
ミラだ。ミラの髪の色が、まだ曖昧ながらも私の目に届いた。そして……
彼女が言霊を唱えたからには、そこからは魔術が放たれる。
今の言霊は、火炎の魔術だったようだ。
彼女がいる地点から、真っ赤な炎が噴き上がって――――それを押し返すように、視界の端からも同じものが流れ込んで来て――――
「――っ! 鬱陶しいわネ、この三流魔術使い。お前には誇りってものは無いのかしラ」
「いえいえいえいえ! とんでもございません! 誇り、プライド、矜持ならば持ち合わせております。はい」
「いえ、貴女のような高位な天術師から見ては、それもごくわずか、砂粒ほどの惨めなものに思われてしまうかもしれませんが。はい」
まっすぐに撃ち放たれた火炎は、ぶつかり合ってせめぎ合って、そのまま空に昇って消えてしまった。
相殺――魔術的な干渉によるものではなく、魔術によって引き起こされる事象同士がぶつかり合って打ち消し合っているようだ。
そう思ったのは――確信してしまったのは、私の魔術についての知識が、学があったからではない。
あの男が……ゴートマンが、ミラとまったく同じ言霊を唱え、まったく同じ魔術を行使したからだ。
「――おっしゃる通り、私は所詮三流の、未熟者の、取るに足らない天術師でございます。はい」
「ですので――私の掲げる矜持は、貴女のような上等な天術師を嘲笑うことだけでございます。はい」
やっと視界が鮮明になり始めた頃、私はゴートマンの姿を――ミラと対峙する男の姿を捉えた。
以前現れた時と同じように、ずいぶんと古い――古びたという意味ではなく、前時代的なという意味で――旧い装束に身を包んでいる。
そんな男が、ミラに向かってまるで挑発のような言葉を投げた。
いや……ような、ではないのだろう。明確に挑発の意図を以って、男はミラに宣言したのだ。
「――術とは、すなわち術師にとっての命――」
「最奥へ至る為に培った経験、研鑽、知識。積み上げた多くの努力、犠牲」
「最奥へは至らずとも、その足掛かりとなる――であろう、と。淡い期待を寄せた、自らの心血を注ぎこんで作り上げた結晶」
「それこそが――――術――――」
男は上機嫌そうな顔で、声色で、まるで演説でもするかのように、両腕を広げてそれを続ける。
ミラを、天の勇者を、ユーザントリアが誇る最優の魔術師である彼女を見下して、高らかに宣告する。
「――――私はそれを愚弄する――――」
「貴女のように数奇な才能に恵まれた天術師の努力を、研鑽を、願いを」
「――掠め取り、弄び、貶め、そして嘲笑う――」
「それこそが、私の誇りでございます、はい」
ゆえに――と、男は口角を上げて、その手のひらをミラへと向けた。
そんな姿に、ミラも右手を掲げて――――
「――――百頭の龍雷――――」
「――っ。九頭の龍雷――――ッ!」
また――私達の視界は真っ白に塗りつぶされた。
雷鳴が轟き、そして地面が――乾いた土が割れ、目眩と共に空気の焦げたニオイが鼻に届く。
「――また――――またまた、簡易な術で相殺されてしまいました、はい。流石、才能豊かな天術師は機転が利きますね。はい」
「威力の相殺ではなく、誘導。性質を理解し、逆用することで、出力の弱い術だけで防御し切って見せるとは」
「本当に、心より、敬服いたします。はい」
今度は事前に目を覆えたから、私はすぐに視線をミラへと戻せた。
少しチラつきがあったが、それでも彼女を捉える分には問題無い。
彼女を――彼女の睨む先を――――ミラの魔術を模倣した、あのゴートマンを――――
「――――敬服――してるんだったら、もうちょっと焦った方が良いんじゃないノ」
「お前は私の最大出力の魔術を使ってル。でも、私はそれの半分以下の魔力しか消費してなイ」
「このまま続けたら、お前が先に魔力切れを起こすか、それを恐れて私の最大魔術を真似出来ないか、そのどちらかしか無いんだケド」
――視界に捉えて、心の底から嫌悪感を抱いた――
嗤っていた。
男は、ミラを見下して嗤っていたのだ。
ミラの言葉を聞いて、ミラの忠告を聞いて、理解して――した上で、嘲笑って――
「――ご心配には及びません。はい」
「私は三流の、未熟者の、取るに足らない天術師です」
「ですが――――魔力のほどにつきましては、無限に等しいものを持っていますので。はい」
男は身体を、上体を丸めて、そして上着を脱ぐようなしぐさを見せた。
腕を袖の途中まで抜き出して、はだけさせるように襟を首から浮かせて、そして――――
「――私には――魔女の力が宿っておりますので――――はい——」
――――脱げた上着の隙間から、真っ黒な翼が――カラスのそれのような、黒く艶やかな――しかし人間には似つかわしくない、大きな翼が現れた。
それが意味するところを私は知らなかった――だが、男の言葉と、そして――ミラの表情にすべてを悟った。
男の言葉には偽りが無い。
この男は――ゴートマンは、無限に等しい魔力を本当に持ち合わせているのだ。




