第三百六十五話【別れの朝に】
今朝は少しだけ早くに目が覚めた。
カーテンの隙間から見える景色には、まだ白んだ空が広がっている。
まだ……いいや、もう。普段ならユーゴが起こしに来ている時間をとうに過ぎている。
ここはカストル・アポリア。平和な国、街。アルバさんの家。
私達はここを、このあと出発する。ここを離れる……離れなければならない。
ユーゴとて寂しいのだろう。
その背景には、彼が私と変わらないくらいこの場所の――皆の無事を喜んでいるという事実がある。
私だけがこの場所に想いを馳せていたのではないのだから。
「……彼とて人の子。その脆さは私と変わらない」
いや、むしろ私よりも脆いかもしれない。
私よりもずっと責任感が強く、何ごとも背負い過ぎてしまう癖があるから。
そんなわけだから、今朝は起こしに来ない……あまり急かして、すぐにここを出発するようなことになって欲しくないのだろう。と、私は今朝のこの状況を勝手に解釈した。
「もしかしたら、貴女を……それに、私を慮ってのことかもしれませんね。あるいは、アルバさんにも……」
勝手な解釈は、所詮私の都合の良い妄想に過ぎない。
もしかしたら、彼は自身の寂しさではなく、私やエリー、アルバさんの心を案じて、少し時間を遅らせているのかもしれない。
そういう配慮も出来る子だから。
そこに正しい答えは存在しない。
ただ、どうであっても、彼は優しい理由で遅れているのだろう。それだけは間違いあるまい。
今この場所にいない大切な仲間の顔を思い浮かべて、勝手も勝手な想像にふける。
本人に知られでもしたら、また間抜けな顔をして……と、咎められてしまうかな。しかし……
それでも、今朝はそれだけのんびりと、平和に、のどかに。温かで安心する空気の中にいるような気分だったから。
もっとも、温かいのは気分だけの話でもないのだが。
「……ふふ」
私の腕の中には、昨晩目をキラキラさせながら話をしてくれていたエリーの姿があった。
その時とは打って変わって、目を瞑って静かにしている姿が。
自分の部屋に戻る前に、疲れて眠ってしまったのだ。
すう。すう。と、寝息と共に小さな身体が上下する。
そんな当たり前の様子に、私は勝手に嬉しくなったり、ほっとしたり……
「……すう……マリア……」
「……エリー。いつか……いつか、貴女にもきっと……」
胸が苦しくなったり、悲しくなってしまったり。
ともかく、複雑な感情が胸中に渦を巻いていた。
エリーはまだ知らない。
ジャンセンさんが、マリアノさんが、大勢の仲間が、もう会いたくても会えない相手になってしまったことを。
彼女が大好きだった、大切な家族が……もう……
涙は出なかった。
泣いてはならないとは思っていたから、それは都合が良かった。
涙は……憐みから来る涙などは、私の目からは流れないでいてくれた。
「……ふわぁ。ん……フィリア、はやおきだね。にわとりみたい」
「鶏……おはようございます、エリー。よく眠れましたか?」
うん。と、まだちょっとだけ寝ぼけた顔で小さく頷いたエリーの微妙な悪口には、いつかも言われたような覚えがある。
それはきっと、彼女にとっての身近な例え……いつも家畜動物と触れ合って生きていた彼女にとっては当たり前の例えなのだろうな。
「ふわーぁ……フィリア、もう行っちゃうの? 朝ごはん食べないの?」
「そう……ですね。今朝の内には出発するつもりでいます」
「ですが、朝ご飯はご馳走になって行こうかな、と。ユーゴも、アギトもミラも、みんな一緒に」
ほんと? と、エリーはさっきまでうとうとしていた顔をほころばせ、もう目を真ん丸に見開いて私の手を握った。
まだ横になってシーツを被っているのに、このままでも飛び跳ねだしそうだ。
「それに……その……ふふ。ミラは朝が苦手みたいで、なかなか起きて来ないものですから。彼女が起きるまでは、出発も難しいかと思います」
「そうなの? ミラはいっぱい寝るんだね」
おや。ミラは動物に例えないのだな。と、その理由もなんとなく察しが付いている。
彼女にとっての動物……つまるところの家畜というものは、朝になれば彼女や他の飼育係に餌を貰えるから、その時間には起きているだろう。
少なくとも、寝ていたとしてもそこで起きる筈だ。だから、例えるものが無い。
「……となると、今朝はミラのお手伝いは望めませんね」
「エリー、一緒にキッチンへ向かいましょう。私もアルバさんにお礼をしなければなりませんから、早くから準備を始めて、少しでもお手伝いをしないといけません」
エリーは私の頼みにこくんと頷いて、そしてシーツを吹き飛ばすくらい勢い良く起き上がった。
もう眠たさなんて残っていないのかな。相変わらず元気いっぱいで何よりだ。
それから私達は、まだ皆が眠っているといけないからと、出来るだけ静かにキッチンへと向かった。
こういう時に素直に言うことを聞いてくれるのも、エリーの良いところだろう。
人を大切に出来る、優しさに溢れた子なのだ。
しかし……
「……アルバさん、もう起きていらしたんですね」
「うん? なんだい、今朝はずいぶん早いね。まさか、ご飯も食べずに出発するなんて言い出さないだろうね?」
「ダメだよ、そんなことは私が許さない。ユーゴもミラも、アギトも、それにアンタも。まだ子供なんだから、ちゃんとご飯は食べな」
いえ、あの……私はもう大人で……と、アルバさんの前でそんなことを言っても、まだまだ未熟な娘だよと怒られてしまうのかな。
誰よりも先に準備を始めて、少しでもアルバさんを楽させてあげようという思惑は失敗に終わってしまった。
しかし、だからと言って手伝わないなんてわけもない。
私もエリーも、すぐに手を洗って彼女の指示通りに動き始める。
「エリー、いつものように皮剥きをしておいておくれ。アンタは鍋に水をためて、それからオーブンの薪を準備しておきな」
「はい、お任せくださ……あの、アルバさん。手が悪いと言ったのは嘘だったと、あの時にもバレてしまっている筈ですが……」
ど、どうしてそう手先を使わない作業ばかりを命じるのだろう。
それは……もしや、ケガが無いと分かっていても、それでもやはりどんくさいから、任せられる仕事が少ない……と。
以前もこういう扱いを受けた気がするが、やはりそういう……
「バカだね、アンタは。仮にも女王様に刃物なんて使わせられるかい。火だって、それでやけどなんてされたら大問題だろう」
「そ、そんなことをわざわざ問題になどしませんよ」
「私には、まだまだ貴方に返さねばならない恩が……それも、王としてではなく個人として受けたたくさんの恩が……」
そんなもの返してる暇があったら、さっさと水を汲みな。と、どうしてか怒られてしまった。
い、言われたことはすぐにやります。ですが……その後にも、私に手伝わせて欲しいのだけれど……
「まったく、アンタは変なところで頑固だね。恩を返したいんだったら、私じゃなくて他の誰かにしな」
「こんな老いぼれに、今更何を返されたって持て余すばかりだよ。あのチビ達に還元してやりな」
「で、ですが……しかし、受けた恩を返せないままというのは……」
だから、他の誰かに回してやりなって言ってるんだ。頭の固い娘だね。と、アルバさんはちょっとだけ怒鳴ったような強い口調でそう言った。
お、怒らせてしまった……だろうか……
「……アンタは王様だ。それはね、偉い人って意味じゃない。大勢の人に何かをしてあげられる人ってことだよ」
「私から恩を受けたと、それを返したいと言うのならね、私ひとりじゃなくて、もっともっと大勢に……国中に返すべきだよ」
「それが出来るんだから、やらないなんて許さないよ」
「……っ! アルバさん……そう……ですね。はい、その通りです」
そうだな。たしかに、私には大勢を――すべての国民を救い、守り、そして導く義務がある。
難しいことだと、とてもではないがそんな器ではないと理解してはいるが、しかし今この瞬間にはまだ女王という位に座っているのだから。
やらねばらならない。それは理解している。だが……
それでも、やはり受けた恩は直接返すべきだ。
その上で、私はアルバさんから学んだことを活かし、もっと大勢の人々の役に立ちたい。と、私がそう言えば、アルバさんはつい怒ってしまって、そんな欲張りが許されるほど器用じゃないだろう! と、私の頭を木べらで叩いた。
い、痛いです……そして…………耳も痛い……
「出来ることをやりな。前にも言っただろう、アンタはこんなとこでこんな老いぼれの手伝いをしていていい人間じゃないんだって」
「立場には責任があって、責任には結果を伴わせなくちゃならない」
「その結果ってのはね、これだけやったからよしってもんでもないんだよ」
いつだって一番良い結果を出さなくちゃならない。と、アルバさんは先ほど自分で叩いたところを……私の頭を撫でてそう言った。
「一番良い結果ってのはね、キリが無いんだ」
「たとえ考え得る最大の成果を挙げたとしても、余計なことをしている時間があったのだから、本来ならもっともっと高い成果を挙げられた筈だ。と、そう言われてしまうもんだよ」
「だから、アンタはこんなとこで手伝いなんてやってちゃいけないんだ」
「……ものごとの解決……及び、達成に対し、一直線に突き進み続けなければ納得して貰えない可能性がある……と、そうおっしゃるのですね」
文句はいつだって、どんなに良いことをしたって言われるもんだよ。と、アルバさんは何度も何度も頭を撫でながらそう言った。
もしや……とは思うが、こぶにでもなっているのだろうか。それは……後で痛むのは少しだけ困るな。
「……しかし、それでも恩を返さないというのは……」
「まだ言うのかい! このバカ娘は!」
しかし、それとこれとは話が別だ。
どのみち私がこうしてカストル・アポリアでアルバさんの手伝いをしていただなんて、どこの誰にも知られる由も無いのだ。と、手伝いをもっとしたいと訴えたところで、アルバさんは私の耳を引っ張って、ぺちんぺちんと手のひらで頭を叩き始めた。
い、痛いです痛いですっ。
「て、手伝いくらいさせてくださいっ。私を頑固と言いましたが、アルバさんも意地を張って拒んでいるように思えます」
「ここで返した恩の分を他から取り立てるような真似は誓ってしません。ですから、きちんとお礼をさせてください」
「意地を張ってるのはアンタだよ、頑固者もアンタだけだ! まったく、これでよく女王が務まるね!」
うぐっ。そ、それは……それは言わないでください……自覚もあるのです……
どういうわけか、お互いがお互いに譲り合えない頑固者同士の言い争いを、エリーは目を丸くして見ていた。
目を丸くして、私達を見ながら、それでも作業を黙々とこなして……ああっ。
こんな小さな子が、気を取られながらでもきちんと仕事をしているのに。私はいったい何をしているのだ。




