第三百六十話【伝えなければならない】
誤解は晴れた。
その……誤解されていることをそもそも私が認識出来ていなかったのだが、とにかく誤解は晴れた。
慌てふためくポーラが落ち着いて、ヴェロウもどこか安心した表情になったから、私はそれをなんとなく悟った。そう、なんとなく。
「……こほん。その……では、ポーラは私に対して……アンスーリァ王政に対して、憎しみや不満があったわけではない……のでしょうか」
「国から切り捨てられた、守ることを諦められたということに対して、恨みがあるわけではない……と」
「は、はい。生まれるよりも前の出来事ですので」
「最終防衛線を定めたという事実には疑問こそありましたが、私個人が何か特別な思いを抱くということは一切ありません」
そうか。と、私はなんとなく……これもやはり、なんとも間抜けで情けない言葉が頭に付いてしまうのだが、なんとなくそれを理解した。
結局のところ、私は民の為と言いながらも、その民の考えや幸福――不幸について、さして知りもせずにいたのだ。
ポーラにとっての幸福は……そのうちのひとつは、ヴェロウと共にあること。彼の伴侶として寄り添うこと。
そして、彼女にとっての不幸のひとつは、ヴェロウに裏切られてしまうこと。
考えなどせずとも当然のことなのだが、こういった当たり前を私はきちんと考えられていなかったように思う。
民はつらい目に遭っている、不幸の真っ只中にいる。
だから、街を解放し、安全を確保して、安寧と平和を取り戻してあげなければならない、と。
ずっと、そうとばかり考えていた。
「……ほっ。それは少しだけ安心しました」
「もちろん、それで私達王家の背負うべき十字架が軽くなったなどとは考えませんが、少なくとも、この場において交渉や対話が不可能なほどの隔たりがあるわけではないと分かったのですから」
ポーラは私を、私達王家を、アンスーリァの政治を恨んではいない。
それは、生まれてから今に至るまでのすべての時間において……というわけではないだろう。
わずかにでも境遇を訝しんだことくらいはある筈だ。だが……
だが、現在の彼女はそれを抱いていない。それが分かって、私は胸を撫で下ろした。
理解からほんのわずかに遅れて、安心がやって来たのだった。
この国には……最終防衛線の内側にも、外側にも。それに、オクソフォンやカストル・アポリアのように自立した人々の中にも、アンスーリァへの恨みを抱いていない……その苦い思いに焼かれていない人も多くいるのだな。
「……フィリア女王。その……私個人の事情に巻き込み、話が進められていないこの事態を深くお詫び申し上げます」
「昨日の妻の言動や態度においても、無礼がまったく無かったとは思えません。重ねて深く謝罪を」
「いえ、そんな。ヴェロウにも、ポーラにも、謝られる理由などありません」
「私がいきなり押しかけて、ポーラはそんな不審人物を訝しみ、ヴェロウはただ仕事の為に留守にしていただけなのですから」
もしも誰かひとりを悪者にするとすれば、連絡も無しに押しかけ、素性もろくに明かさなかった私だろう。
うん……深く反省しよう。こういう形の問題もあるのだと、これで学ぶことも出来たのだし。
「それでは……すまない、ポーラ。席を外してくれ」
「貴女がここへいらしたということは、つまり女王として……アンスーリァの代表として、“カストル・アポリア”を訪ねた筈です」
「であれば、私は国を治める者として、そのただひとりとして向き合わなければならない」
「……気を遣わせてしまって申し訳ありません。おっしゃる通りです」
「私はここへ、フィリア=ネイ=アンスーリァとして、このカストル・アポリアを治める貴方に――貴方だけに伝えるべき話を持って参りました」
さて。と、誰かがそんな音頭を取ったわけではなかったが、空気はぴりっと引き締まって、先ほどまで温かな……家族に向ける柔和な笑顔を浮かべていたヴェロウも、以前ここを訪れた際に見た姿へと変わっていた。
そんな空気を、彼が伴侶に選んだ人物が感じ取れないわけも無い。
ポーラは私に深く一礼すると、そのまま静かに部屋を後にした。
「……警戒心や思慮深さ、それに配慮。宮にぜひとも迎え入れたいほどの人材に思えます。流石、貴方が妻に迎えた女性ですね」
「……もったいないお言葉ですと謙遜するべきかもしれませんが、しかし……自慢の妻ですとお答えさせていただきます」
「ほんのわずか、それもたった今解決した問題ではありますが、不信感を持たれてしまったばかりなので」
ヴェロウはやや苦い顔で笑いながらも、ポーラの出て行ったドアを愛おしむような目でちらりと見た。
なんと言うか……少しだけ羨ましくもある。
私はきっと……このまま女王として生きていくのであれば、自らが望んだ相手と結ばれる結末は迎えないだろうから。
「……それでは、本題に入らせていただきます」
「と、そのひとつ前に……ヴェロウ。貴方に……貴方と、そしてこの国に、深く謝罪せねばならないことがあります。まず、そのことから」
「謝罪……ですか。それも、私個人と、カストル・アポリアそのものの両方に対して……とは」
空気が引き締まったのならば、わざわざもう一度緩める必要も無い。
私は……いや、私達は、ポーラがこの部屋を出て、完全に離れたことを確認してから話を始めた。まだ彼女には聞かせられない話を。
「以前にここを訪問した際に、ゴートマンという魔術師が襲ったことを覚えているでしょうか。いえ、忘れる筈もありませんね」
「それと同時に、かのものの属する魔人の集いという組織について説明したかとも思います」
「ええ、忘れなどしません。奇妙な術を使っていた……のでしょう。何が起こったのかすらも私には理解出来ませんでしたから、魔術師という呼び名からそう予想するばかりですが」
ヴェロウはふむと深く考え込んだ様子で、私の表情を……胎を探り始めた。
探られ始めたと感じられたのは、彼がそれを隠そうとしないからだろう。
彼は私を対等な相手と認め、私の言葉の真意を――それがカストル・アポリアに何をもたらすかを、わずかな見逃しも無いようにしっかりと理解しようとしている。
「私達はダーンフールに生活拠点を構え、そして解放作戦の為に北へと遠征に出ました。これについては、以前にここへ遣いを送ったかと思いますが」
「それももちろん、忘れてなどいません。ジャンセン殿にマリアノ殿、両名とも素晴らしい人物だったことを覚えています」
「彼らが共にあるのならば、フィリア女王の理想はたしかに実現するだろうとも」
っ。そう……だ。あの時までは、私もそれを確信していた。
だが……現実はそうならなかった。その事実を、今日は伝えに来たのだ。
顔に出てしまっただろうか。苦しみが、悲しみが。
あの絶望が、私の表面から漏れ出てしまっただろうか。
ヴェロウはにこやかな顔から一転して、不穏さを感じ取った険しい表情を浮かべた。
「……っ。ダーンフールでの準備の後、私達は……ジャンセンさんにマリアノさん、それに特別隊の精鋭全員を含めた部隊は、北へと遠征に出発しました。そして……」
私とユーゴだけがランデルへと帰還し、特別隊という武装組織は実質的に消滅した。
敗北と喪失を私が伝えれば、ヴェロウは目を見開いて沈黙した。
口を開き、けれど何を発することもなく閉じ、目を伏せ、すぐに私の顔へと視線を戻して……やはり、黙っていた。
「……謝らなければならないこと。それは、手に余るだけの脅威を起こしてしまったということです」
「その時にまで解放作戦を成功させ続けてきた、勝ち続けてきた部隊のすべてを賭して、私達は惨敗を喫しました」
「このカストル・アポリアから遠くない場所で、私達ふたり以外に誰ひとり生還することも出来ないほどの理不尽と遭遇したのです」
その存在がこの場所に迫るかもしれなかったこと、その事実を伝えに行けなかったこと。
その二点について、私は深く頭を下げた。
まだまだ……まだまだこの後にも謝らなければならないことはある。
だが……まず、この不義理を謝らずして何が出来ようものか。
「……お、お待ちください、フィリア女王。ジャンセン殿とマリアノ殿が……アンスーリァの軍事力が、国内に存在する組織相手に……っ」
「あり得ません。それは……そんなものは、現実に起こり得る話ではない」
「少なくとも、貴女の率いた部隊であるならば、その士気は最高潮にあった筈」
「ならば――士気に大き過ぎる差があったわけでもないのならば、一方が完全に壊滅するほどの戦いなど――」
「――――っ」
ヴェロウの言葉に、私は首を横に振るしか出来なかった。咄嗟には言葉が出なかった。
それは違うのだ。と、意志だけを伝えて、それ以上の言葉を遮ることしか……
「……いいえ、私達は戦いに敗れたのではありません。あまりに異次元な存在と遭遇し、一方的に蹂躙されたのです」
「徹底的な消耗戦の末に敗北したのではなく、ほんのわずかな間に……っ。私達は……ジャンセンさんも、マリアノさんも、皆……」
私はヴェロウから視線を外さぬよう、顔を伏せてしまわぬよう、必死に歯を食い縛って話を続けた。
戦ったのではない。
両軍が無謀にも負けを認めず、その末に大きな被害をもたらしたのではないのだ、と。
魔女。と、そう呼ばれる理不尽がそこにはあった。
私はその話を、このカストル・アポリアに伝えなければならない。
安全と平和を目指して立ち上がったヴェロウに、それがいかに難しいものになってしまっているのかを報せる為に。




