第三百五十六話【のんびりし過ぎている】
あの日、あの場所で、私達は敗北した。そして、すべてを失った。
特別隊の仲間達も、解放した街も、もともと繋がっていた街も、すべて。
絆を失い、希望を失い、そして唯一の可能性であったユーゴすらも戦う力を失った。そう思っていた。
だが……だが、今の私の腕の中には、まだ多くのものが残されている。
ユーザントリアから来てくれた頼もしい騎士がいて、アギトとミラという特別な仲間が出来て、失ったと思っていた街を取り戻して。
そして、ユーゴがもう一度立って前を向いてくれた。
私の中にあったのは安堵だ。安心と喜びがあったのだ。
目の前で笑ってくれている、私を慰めてくれているアルバさんの姿に、私は何よりも嬉しいと感じていた。
だから……
緊張は緩み、不安や恐怖は一時的に拭い去られ、そして……根源的な絶望があったことを強く思い出した。
だから、私の身体は震え、涙がとめどなくあふれ出てしまった。ただそれだけだった。
それだけだった……から……
「……あ、あの……アルバさん。その……申し訳ありません、取り乱してしまって……」
涙を流して、膝を突いて、抱き締めてくれたその人の腕に縋り付いていた自分が、なんだかとても恥ずかしいものに思えて来て……いいや、思えるだけではない、紛れもなく恥ずかしい、情けない姿だろう。
早い話が、怖い思い出を振り返って泣き出してしまったというだけなのだ。
その大きさなどは関係無く、私は幼い子供のように泣いてしまった。
怖い夢を見て、それが夢だと分かって、それに安堵した上で、隣で眠る母親に怖かったのだと泣きながら抱き着く子供と何も変わらない。
何も……変わらないではないか……
「す、すみません、アルバさん。もう大丈夫ですから、離してください。その……あの……わ、私はもう大人ですから、いつまでもこうしているのは……」
安心して、怖いことを思い出して泣いて、そしてアルバさんに慰めて貰って正気を取り戻した。
ああ……な、なんて情けない、だらしない、幼いことをしているのだろう……私は……
アルバさんはそんな私をまだ抱き締めてくれていて、ぽんぽんと背中を撫でてくれている。
それがどうにも心地良くて……なおのこと羞恥心が湧き上がってしまって……
「あ、アルバさん。その……嬉しい……のです。貴女とこうしてまた触れ合えることは、とてもとても嬉しいのです……ですが……」
「それはそれとしても、私は大人で、場所によっては王として振る舞わねばならないもので、その……ですから、いつまでもこうしているのは……は、恥ずかしいと申しますか……」
なんだい。そうかい。と、アルバさんはちょっとだけ呆れたような口調でそう言いながらも、私を離してはくれなかった。
子供をあやすような手つきで……アギトがミラを撫でている時のような手つきで、優しく優しく頭を撫でてくれていて……
「泣くのが恥ずかしいなら、まだしばらくは目一杯お泣き。それはまだ子供の証なんだよ」
「子供はね、泣けば良いんだよ。人前で泣くのが恥ずかしくなくなったら、その時は泣くのを我慢するようにしな」
「恥ずかしくなくなったなら、もう立派な大人なんだからね」
「……? アルバさん……え、ええと……」
いえ、ですので……と、私はもう一度アルバさんを説得しようと試みる……が、その必要はすぐに無くなった。
アルバさんは最後にぎゅうと強く私を抱き締めて、それからゆっくりと手を離した。
「アンタはまだ若い……いいや、幼いんだ。小難しいこと考えてないで、つらかったら誰かに甘えな」
「もっとも、女王様ともなるとそれも難しいのかもしれないけどね」
「いえ、その……私はもう大人で……」
どこが大人なもんかい。と、ため息交じりにそう言われてしまえば…………私はもう黙って落ち込むしかなかった。
分かってはいる。アルバさんから見れば、私は彼女の子供よりも更に歳が下なのだろうから。
それに、頼りにならないところも見せているし、子供にしか見えなくてもおかしくはない。
分かってはいる……つもりだが……
「泣き止んだならさっさと手伝いな。今度は手の悪いフリなんていらないからね」
「アンタも子供だけど、外のチビ達はもっと小さいんだ。大人には甘えて良いけど、もっと小さい子の前では少しくらい背伸びするもんだよ」
「は、はいっ」
ですから、私は子供ではないのです。と、そんな言い訳をする暇も与えて貰えず、アルバさんはよたよたとまた廊下を進み始めた。
気の所為……だろうか。彼女の足取りは、先ほどまでよりも少し軽やかなものに思えた。
それから私は、ケーキを焼くアルバさんの手伝いをした。
以前にも振る舞っていただいた、シナモンの香りが強い、甘いケーキだ。
この国の……カストル・アポリアの特色を――いろんなものが簡単に手に入るという特色を出した、優しくて贅沢な味。
私達を心からもてなしてくれているのが痛いほど伝わって来る、この家のごちそうのひとつだ。
「ユーゴ、ケーキが焼けましたよ。エリーを呼んで来てください」
そんな大変なものが出来上がったのだから、焼き立てのうちに皆でいただかなければ。
そう思って私は小走りで廊下を抜け、まだ外にいる……きっと畑にいるだろう皆を呼びに戻った。すると……
「……? あの……ユーゴ……どうしてそんな顔をするのでしょうか……」
「お前が本当の本当に間抜けだからだ……このアホ……」
肩をがっくりと落としてうなだれるユーゴに出迎えられてしまった。
そ、そんな顔を向けないでください。たしかに、少々はしゃぎ過ぎていたようにも思えますが……
「ケーキ! ミラ! ケーキだって! フィリア! ケーキ!」
「ケーキ! フィリア! ケーキ!」
はしゃぎ過ぎていたかもしれない……と、少し反省しようとしたところへ、これまた私などよりもずっとずっとはしゃいだ様子のエリーとミラが…………その、反応が同じ過ぎやしないだろうか、ふたりとも。
ミラはエリーよりも倍近く歳が上なのではなかったのか……
ケーキケーキと嬉しそうにはしゃいでいるふたりと、それを呆れた顔で見ているユーゴと、微笑まし気なアギトを連れて、私はまた家の中へと戻る。
いつかも食事をいただいた食卓へ向かえば、そこにはもうお皿を並べてケーキを切り分け始めているアルバさんの姿があった。
「ケーキ! おばあちゃんのケーキ!」
「ケーキ! ケーキ!」
あの……ですから、ミラはエリーに引っ張られ過ぎではないでしょうか……? と、そんな私の疑問は、どうやらまったく見当違いのものらしい。
アギトはちょっとだけ困った顔で、しかし見慣れたものを見る目でミラのはしゃぎぶりを見守っていた。
この子は普段からこうなのですか……
「なんだか小さいのが増えたね。ユーゴ、アンタはお兄さんなんだから手伝いな。小さい子にやらせるんじゃないよ」
「うげ……相変わらずだな、ばあさん」
いいから食器を運びな。と、アルバさんはユーゴに指示を出して、ユーゴはそれにしぶしぶ従っていた。
ユーゴは頼めば大体のことはやってくれる。嫌な顔はするが、しかし本当に嫌なわけではない。
アルバさんもそれが分かっているのだろう。
「食べたらそっちのふたりをちゃんと紹介しておくれ。それと、顔も名前も知らない子供に振る舞うんだ、この後には手伝いをして貰うよ。エリー、こき使っておやり」
「使う! ミラ! いっしょに畑行こうね!」
アルバさんの言葉の意味を、果たしてエリーはどの程度理解しているのだろうか……
ミラと一緒に遊ぶ……畑仕事をするのだとくらいは把握していそうだが。
そうしてみんなでケーキを食べれば、また懐かしさに涙が出そうになった。
けれど……アルバさんの言葉を引用するのならば、大人である以上は涙を我慢しなければならない。
いいや、逆か。涙を我慢出来てこそ大人になれた証だとするのなら、こんなことで泣くわけにもいくまい。
少しだけ緊張した様子のあったアギトも、ずっとにこにこしていたミラも。
めずらしくリラックスした様子のユーゴも、すっかりこの場に慣れているエリーも。
そして、大勢の食卓が嬉しそうなアルバさんも。
みんな笑顔でケーキを食べて、私が主導して互いの紹介をした。
遠いユーザントリアから来てくれた、私達の新しい仲間。天の勇者とも呼ばれる頼もしい存在。
いつか調査に訪れた私達を迎え入れてもてなしてくれた、今も変わらない優しいひと。
多くの恩があり、多くを報いなければならない相手。
それと、エリーについても紹介し直さなければならないかな……なんて思ったのだが、彼女とミラはもうすっかり打ち解けて…………私といた時よりも懐いた様子だから、これは今更必要無いだろうか。
それはそれで……やや寂しくもあるのですが……
温かな食事の時間が終われば、皆はそのまま畑仕事の手伝いを始めた。
私も食器の片付けをしてからすぐに向かえば、またユーゴに睨まれてしまって……
「す、すみません、遅くなりました。ですが、ごちそうしていただいた上に皿洗いも手伝わないというのは……」
「……いや、そうじゃなくて。お前、いつまでここで遊んでるつもりだよ」
え……? と、ユーゴの言葉に思い出したのは……まだ、ヴェロウになんの報告もしていない、訪問すらもしていないという事実だった。
わ――忘れていました――っ!




