第三百五十五話【喜びと、涙】
武装した騎士達を関の見張りに加えさせて、私達は四人で……私とユーゴと、アギトとミラの四人で、エリーに案内されながら街を進んでいた。
カストル・アポリアの街並みには、なんの変化も見られなかった。
いいや、それではやや語弊があるだろう。
わずかでも季節が移り替わり、工事のさなかであった場所はその作業が進んでいて、逆に古びていたものは更に壊れて劣化が進んでしまっている。
そういった自然な変化については、数え始めればキリが無い。だが……
「……本当になんとも無さそうだな」
「そうですね……本当に……本当に……」
魔獣に襲われた、魔女に制圧された。
かつての逃亡の後にずっと考えていた最悪の光景は、この国のどこにも見当たらない。
この国のこの街並みには、なんの被害も出ていない。
私はそんな景色に安堵して、そんな私にユーゴもほっとした顔で声を掛けてくれた。
なんとも無いなんて言葉を自分で口にして、彼はむしろ自分で安心を強めたようにさえ見える。
「……それにしても……だな。なんとなく……まあ……似てるなとは思ってたけど」
「……ふふ。そうですね」
それにしても。と、ユーゴが急に話題を切り替えた原因は、私達の前を……先頭を歩くふたりの背中にあった。
ミラと、アギト……ではなく、エリーの背中。
ふたつの小さな背中が、ずいぶんと仲良く手を繋いで歩いているその姿に。
「人懐こくて、勇敢で、怖いもの知らずで……と、その在り方や周りに与える影響については、酷似した部分がありましたから」
「もちろん、エリーには無いものをミラは持っていますし、ミラに無いものをエリーも持っています」
「ですが、それも含めて、よく似ているな、と」
エリーには魔術の知識や戦闘技術は無い。
だが、ミラにも動物と心を通わせる素質や、馬車を速く静かに走らせる能力は無いだろう。
卓越したものを持っているという意味でも、ふたりは似ているのだ。それに……
「ああしていると、なんだか……ふふ。歳の近い姉妹のようですね」
ふたりとも愛嬌に溢れ、あどけないしぐさで周りを癒してくれる。
愛らしさについてもそっくりだ。と、そんなことを話していると、アギトがやや苦い顔で肩を落としてしまった。
「……女王陛下。その話は、決して本人には聞かれないようにお願いします……」
「あのちっこいの、あんなんでもユーゴより歳上ですし、あの子と比べたら倍くらいは生きてるので……」
そう言ったアギトの顔には、聞かれたら自分が噛まれる。と、そう書いてあった。
な、なるほど……これほど説得力のある言葉と表情もあるまい……と、つい感心してしまいそうだ。
「……まあ、ある意味ではあの子とそう変わらない歳頃だとも言えなくないのですが。ただ……本人はそういうの関係無しに、子供扱いを嫌うので……」
「ある意味では……ですか。事情は分かりませんが、ミラがそれを嫌がると言うのなら」
本人を前には言わないようにしよう。ミラを子供として扱わないようにしよう。と、そう心に決めても、前を歩く姿の愛らしさは変わらない。
本当にあの子は、戦っている時とそれ以外とで、まるで人が違ってしまっているようだ。
それからもう少しだけ歩くと、懐かしい家が見えて……
「おばあちゃん! フィリア! フィリア来たよ! おばあちゃーん!」
そして……畑の方から人影が現れると、エリーはミラの手を引っ張ってそちらへと走り出した。
おばあちゃん、フィリア。と、そんなぶつ切りの単語ばかりを繰り返しながら、嬉しいことがあったのだとだけ伝えるように。
「……っ。アルバさん……」
おばあちゃん! と、エリーはその人の前まで辿り着くと、ひときわ大きな声で呼び掛けた。
フィリアだよ! フィリア! と、何度も何度も繰り返して……
「……ん、なんだい。知らない子じゃないかい。見ない顔……いいや、見慣れない格好だね」
「移住者って意味なら、たしかにあの娘と同じようなものだけどね」
あっ、ち、違うのです。私もここにいるのです。
ジーっと目を細めてミラを観察するアルバさんの姿に、私も急いでエリーの後を追った。
アルバさんは目が悪いから、置いて行かれてしまっていた私の姿を見付けられていないのだ。
「アルバさん、こちらです。ここにいます、そちらの子はフィリアではありません」
「ああん? なんだいなんだい、なんだか大勢連れて来たね」
「エリー、ともだちを連れて来る時は、先に言っておかないといけないと言っただろう。ケーキなんて焼いてないよ」
アルバさんはこちらをちらりと一瞥すると、エリーの頭を撫でながらそう言った。
彼女の視力は相当に悪かった筈……ずいぶん近付いて睨み付けるように見なければ顔の判別も出来なかった筈だから、私が誰だかまだ分かっていないのだ。
いえ、名乗りはしたのですが……もしかして、忘れられて……
「……なんだい、そんなとこに突っ立って。早く入りな。こんなに大勢連れて来たんだから、アンタは私と一緒にもてなす手伝いをするんだよ」
「……っ! アルバさん……」
さっさとしな。と、アルバさんはよたよたとふらつきながら、しかしたしかな足取りで家の中へと入って行った。
ケーキを焼く手伝いをしろ、と。あの時と同じように、私に手伝いをしろと急かしながら。
「……ずいぶん、やつれたね。何があったか知らないけど、ちゃんとご飯は食べてるのかい。ユーゴにも、ちゃんと食べさせてやれてるのかい」
「っ。その……」
家に入って少し廊下を進んで、エリーとユーゴが付いて来ていないのを確認すると、アルバさんは振り返ることもなく私にそう尋ねた。
いや、問いかけではない……のかな。確認……それも違う。
ただ……心配をしてくれているだけ……なのかもしれない。
私は彼女の言葉に何も返せなかった。
覚えていてくれた、また私を迎え入れてくれた。そんな嬉しさを噛み締めつつも、後ろめたさが……約束を守れなかった事実が胸の奥に痛みをもたらしていたから。
「嫌なことがあったんだね。アンタだけじゃなくて、ユーゴにも。そういう顔をしていたよ、ふたり揃ってね」
「…………っ。その……私……は……」
大人の義務。
かつての滞在の折、アルバさんはそんな言葉を使って私に説いてくれた。
子供に不幸を感じさせてはいけない――不幸だけを覚えさせてはいけない。幸福を知らせてあげないといけない。
それが、彼の身を預かっている私の義務なのだ、と。
私はその言葉に、きちんと従えただろうか。
ユーゴに幸福を……人として当然の喜びをもたらしてあげられただろうか。
そして……不要な悲しみ、苦しみを味合わせたりはしていないだろうか。
答えは出ている。
私はひとつとしてそれらを達成出来ていない。
ユーゴには不便を強いているし、大変な思いをさせてばかりいる。
そして……彼には、生きていく上でまったく必要無い、過剰も過剰な苦痛を覚えさせてしまった。
だから……アルバさんに返す言葉を持っていなくて……
「……そうかい。苦しかったんだね。女王様ともなれば、まだ子供だとしても受け止めてくれる大人なんていないのかもしれないね。それは……寂しい話だね」
「……アルバさん……?」
寂しい、悲しい話だよ。と、アルバさんは何度かそう繰り返すと、ついに足を止めてこちらを振り返った。
そして……睨み付けるように私の顔をじっと見て、手で頬に触れて……くれて……っ。
「……っ……アルバ……さん……っ。私は……私は貴女との約束を…………っ」
「……重しにしちゃったね。申し訳ないことをしたよ」
その手の温かさに触れて、私の中の何かが……糸が切れたような気がした。
節くれ立ったその手の頼もしさに。細く小さなその指の儚さに。しわだらけの手のひらに。
アルバさんの優しさ……いいや。彼女という存在に、私の中の何かが――
「――無事で――無事でいてくださって本当に良かった――――っ」
「私は……私はアルバさんに……この国に、大変な不義理を働いてしまったと――取り返しの付かないことをしてしまったとずっと後悔して――――」
無事だった――
カストル・アポリアが、エリーが、大勢が。
アルバさんが、こうして無事だった。
そのことがずっと喜ばしかった。
そのことが……ずっと……ずっとずっと、抗えないくらいの後悔を感じさせていた。
「……ずいぶんと大きなものを背負ってここへ来たんだね。今のアンタは、嘘をついて潜り込んだフィリアじゃないんだね」
「アンスーリァ王として、大きな大きなものを背負ったまま……約束通り、女王様としてこの国へ来たんだね」
だけど、今は良いんだよ。と、アルバさんは私を抱き締めてくれて、その温かさが心地良くて、苦しくて……もう立ってもいられなくて、私は膝から崩れ落ちた。
「この家にいる間は、チビ達がいない間は、アンタはフィリアで良いんだよ。その荷物は一度降ろしな」
「アンタは、エリーの様子を見に来た、ただ遊びに来たフィリアでいても良いんだよ」
「――ぅ……ぁああ……っ」
涙が出た。
声を上げそうになるくらい悲しくて、つらくて。
もう苦しいことなんてどこにも無い筈なのに、悲しむ必要なんて無いと確認したのに、どんどん痛みが湧き上がって来て……
無事の確認と安心は、私の中にしまい込まれていた苦しみを……緊張で保っていた平静をあっけなく崩してしまった。
アルバさんに背中を撫でられている間、私はあの瞬間の絶望感ばかりを――この優しい人を失ってしまったかもしれない恐怖を、大切なものをすべて奪われてしまった後悔を感じていた。
涙は……止まらなかった。




