第三百五十四話【無事であること、と……】
フィリア! と、私の名を嬉しそうに呼ぶ声がある。まだ幼い少女のあどけない声だ。
それが今は、何よりも幸せに思えた。
「……? 知らないひと。フィリア、だれ? ます」
そんな声の主が……エリーが、不思議そうな顔で私と私の背後とをちらちら見比べている。
首を傾げて、私にそれがなんであるかと尋ねるのだ。
「こちらのふたりは、私達の新しい仲間……友人、ともだちです。こちらの男の人がアギト。こちらの女の人がミラと言います」
挨拶をしてあげてください。と、私がそっと背中を撫でると、エリーは首を傾げたまま、不思議なものを見る顔のままふたりの前に歩み出た。
まあ、無理も無いかな。
エリーから見れば、ふたりはまったく見たことの無い人間……いや、存在なのだ。
特別隊の人と、そしてこのカストル・アポリアの人しか見たことが無いから……というだけではない。
それは彼らが――アギトとミラが、このアンスーリァの人間ではないから。
「アギトだよ、よろしくね。こっちのちっちゃいのが……痛い!」
「誰が小さいのヨ、このバカアギト。私はミラ、ここからずっと遠い場所から……ユーザントリアって国から来たノ」
エリーはミラの言葉に――喋り方に、なおのこと不思議そうな顔をしてしまった。
そう、ユーザントリアから――外国からやって来たから。
だから、エリーには彼らが不思議なものに見える。
早い話が、人種や文化、それに言語。
大きな差があるというわけでもないが、しかしその差が小さいとは言い難い。
エリーから見れば、ミラの髪色は不思議で不思議で仕方が無いだろう。
それに、彼女には外国の言葉の訛りがある。
着ている衣服についても、その文化――様式は、アンスーリァのものとはずいぶんと変わってしまう。
となれば、違和感を覚えて当然なのだ。
だからだろう、エリーはふたりをじっと見つめたまま、挨拶も出来ないまま、それがなんであるかをじっくりじっくり見定めようとしているようだ。
恐る恐る近付いて、アギトの顔を見上げて、それからミラの顔をじっと見て……
「……? くんくん……」
「え? な、何……? すんすん……」
……何故だか、ミラに近付くと、鼻をヒクつかせてニオイを嗅ぎ始めた。
あ、あの……それはミラの……と、そう思うよりも前に、ミラもミラでエリーのニオイを嗅ぎ始めて、お互いがお互いの背中を追い掛けるようにくるくる回って…………まるで犬が互いを確認し合っているように見えてしまうな…………
「……あはは! おねえちゃんこげくさい!」
「すん……んむ。こげ……まあ、そうでしょうネ。そう言うエリーは馬のニオイがするわネ。他の動物のニオイと、それに土のニオイも」
ええっ! わかるの! と、エリーは目をキラキラさせて、なんだかおもしろいものを見付けた! と、そう言わんばかりにはしゃぎ始めた。
そんな彼女を前に、ミラはふふんと胸を張って、大人ぶるでも子供をあやすでもなく、まるで対等な相手と接するかのようにしている。
「フィリア! ミラ! おもしろいね! ます! マルマルのニオイがわかるんだって!」
「ふふ、そうですね。ミラはすごくすごく鼻が良くて、目も耳も良くて、遠くからでもエリーのことを見付けられるのですよ」
そうなの⁉ と、エリーは興奮し切って跳び上がり、ミラの周りをぴょこぴょこ跳ね始める。
そんなエリーを、ミラはにこにこ笑って抱き上げた。
こうしていると、そう歳の変わらない姉妹にも見えるな。
「……あっ。そうです、エリー。貴女は何かをしている最中だったのではないですか?」
「そのかごを持って、アルバさんの代わりにどこかへ向かう途中だった……とか」
「え? あっ! そうだった! これ! ハミルトンにごはん! バーテルも!」
ごはん。と、エリーは何度もそう繰り返しながら、かごの中から大きなパンを取り出した。
なるほど、関の番をしているふたりへ差し入れに来ていたのか。
そこへちょうど良く到着するなんて、なんとも間の良い偶然があったものだ。
「……フィリア? ダメだよ? ハミルトンのだもん、食べちゃダメだよ?」
「っ⁈ ち、違います、ご飯が欲しくて見ていたのではなくて……」
ダメだよ? と、エリーはパンを自分の背中に隠すようにして、私のことをじっと見ていた。
違うのです、誤解しないでください。
私はただ、こうして元気な姿のエリーを見られて、それで喜んでいるのであって……
「おなか空いてるなら、フィリアもいっしょに帰ろ! おばあちゃんがごはん作ってくれてるよ!」
「っ! アルバさんも無事……いえ、当然ですよね。この国がこうして無事であった以上は……」
いくら魔獣を恐れないとは言え、何か大ごとがあればエリーとて気付く。
そういうところを察知する能力は高い子だったのだし。
それがこうしてにこにこ笑ってくれているのだ、この国には本当になんの災厄も迫らなかったと考えて良いのだろう。
そんな思いを胸に抱いて、私は安堵から頬をほころばせていたのかな。
エリーは私の顔を覗き込んでは、そんなにおなか空いてたの? と、けらけら笑いながらそう言った。
違う……わけでもない。お腹は空いていないが、胸には大きな穴が開いてしまっていた気分だったから。
「それでは、アルバさんに挨拶へ……っと。そうでした、その前に」
「ハミルトンさん、バーテルさん。私達はこの度、アンスーリァ王国からの使者としてここを訪れました。通していただけるでしょうか」
おっといけない。と、思い出したのは、まだ呆然とした顔で私達を……いや、私を見ていた、この関の見張り達だった。
あの時は嘘をついて通して貰ったが、今度は違う。
正面から、本当の目的と名前を口にして。その上で、正式に通行の許可を貰おう。
「……はっ。し、少々お待ちください、アンスーリァ国王陛下。ただいま確認を取って参ります」
「なにぶん、貴女のような方が訪問するとは思ってもみませんでしたので……」
「うっ……そうですね、急に訪ねていきなり入れてくれと言う方が無礼でした。可否の確認と、それから必要ならば荷物の検査もお願いします」
「武装を持ち込めないということでしたら、後方の馬車はこのまま関の外で待機させますから」
私がそう言うと、バーテルは走って街へと向かった。きっとヴェロウに伝えに行くのだろう。
そして、ハミルトンは……
「……アンスーリァ国王陛下。以前には……とんだご迷惑をお掛けしました……」
「……ハミルトンさん……いいえ、貴方が謝罪しなければならない謂れはどこにもありません。迷惑を掛けたのだとすれば、それは私達の方です。それに……」
ハミルトンは私の前で俯いて、ぼそぼそと懺悔を口にした。
かつて、ゴートマンに精神を支配されてしまった男。
そして、私とユーゴに刃を向けそうになった人物。
彼はそのことを悔い、謝罪しようとしているようだ。
けれど、私の中にあるハミルトンという人物についての記憶はそうではない。
流れ者だった私達を受け入れてくれて、アルバさんを紹介してくれて、あまつさえ嘘の探し物を本気で手伝ってくれた、心優しい人物だ。それに……
「……ケール=ハミルトン……いえ、ケルビン=ジャーツ=ハミルトン……でしたか」
「貴方は……貴方の家系は、かつてアンスーリァにおいて、爵位を受け継いでいたのですよね。そして……」
しかしながら、現在のアンスーリァには、その名を冠する貴族は存在しない。
あの時のゴートマンの言葉を鵜呑みにするわけではないが……しかしながら、あの魔術は事実を――実際に会った過去、悪夢を糧に人の精神を食らうわけだから。
事実は事実として、決して覆りはしないのだろう。
このハミルトンは、私達が――王政が排除した、追放してしまった侯爵の、その子孫なのだ。
「……私はハミルトン家と過去の王政との間に何があったかを知りません。なので、貴方に対してどう謝罪をすべきなのか、すべきでないのかも分からない」
「なので……その無知についてを貴方に詫びます。未熟な王であることを許してください」
「……っ。いえ、そんな……アンスーリァ王に謝罪していただくようなことは何も……」
それに、まだまだ謝らねばならないことがある。
出発の時、声を掛けていけなかった。
そもそも、この謝罪を以前の滞在の折に済ませていなかったことも問題なのだ。
嘘をついたこと。巻き込んだこと。過去を知らずにいたこと。
そして、それらを謝罪もせずにこの国を出たこと。
それについて謝りたいと私が頭を下げれば、ハミルトンは大慌てで私よりも更に低いところまで下った。膝を突いて、頭を垂れて。
「……ハミルトンさん。私から……フィリア=ネイ=アンスーリァから出来る謝罪は、これですべてです。これ以上のことは、私では背負いきれない」
「まだ何か貴方の中に大きなわだかまりがあるのならば、どんな形でも良い、宮へと伝えてください」
「この場で私に……王ではない私に口頭で伝えてくれても構いませんし、誰かを介しても、文を綴っても構いませんから」
そんな姿を見たから……私では――王である私では、もうこれ以上彼の心には寄り添えないのだと、半ばあきらめじみた結論を出した。
けれど、それですべてを見て見ぬフリなどしてはならないから。
どんな形でも良いから、いつになっても良いからと、私はハミルトンにそれを伝えた。
謝罪し足りないものがあるのなら、いくらでも請求して欲しい、と。
ハミルトンはそんな私の言葉に、滅相も無い。とだけ答えて、あとはずっと黙ってしまっていた。
何をするでもなく、ただ膝を突いたまま。
それからしばらくすると、バーテルが通行の許可を貰って走って戻って来た。
それを見て、もうここで立ち話をしている必要は無いのだと、なんとなく察したのだろう。
エリーは私の手を引いてぐんぐんと街中へと進み始める。
ずいぶん懐かしく感じるのに、まだしっかりと覚えている道を。アルバさんの家へと続く道を。




