第三百五十三話【いつか絆を繋いだ場所】
魔女と戦い、アギトの異様な姿も眼にして、その上でまだ脅威のすべてが取り除かれていないのだと思い知らされた。
たった一日――昨日の間に起こった出来事は、私の頭の中をぐちゃぐちゃにかき回して混乱させるには十分……いや、十二分だっただろう。
だが、それから一夜明けて今日、私達はのんびりと…………アギトが噛まれたり、私が怒鳴られたりしながらも、平和な話をしながら道を進んでいた。
それもひとえに、生還が叶ったという事実のおかげだろう。
まだ脅威はある。
だが、あの時は皆を失うしかなかった魔女から、半ば引き分けのような形で生存を勝ち取った。
そうだ、勝ち取ったのだ。
私達は、こうして生きているだけで、実質的な勝利を手にしたと言ってもいい。それだけの相手だったのだから。
そんなことだから、私もユーゴも、それにミラも、一番危険な目に遭ったアギトでさえも、馬車の中では笑顔でいられた。そう、馬車の中では。
「――戻ったわヨ。やっぱり、結界の効果はこの辺まで届いてないみたいネ」
馬車の外から声が聞こえて、それからすぐにミラが中へと入って来た。
覗き窓からするんと転がり込んでくる姿は、なんだか木のうろに潜るネズミのようだな……
外には魔獣がいる。ここにはどうも、結界の効力が行き渡っていないようだ。
これもなんとなく予想していたことだったが、私達の進行方向には――カストル・アポリアを目指す進路には、それなりの数の魔獣が出現していた。
「でも、前に来た時はもっと数いたからな。まったく効いてないってわけじゃないんだろ」
「ま、無関係とはいかないでしょうネ。個体については私じゃ分かんないケド、そう大した魔獣は見かけてないワ」
これならすぐにせん滅作戦なんて立てる必要は無さそうネ。と、ミラはそんな少しだけおっかないことを言ってすぐ、にこにこ笑って私の隣にやってきて、そのままぎゅうと抱き締めてくれた。
安心して良いのだ。と、そう言ってくれているのかな? ふふ。
「ミラのおかげで不安要素はほとんど取り除かれています。本当に頼りになりますね、貴女は」
「ふふん、もっともっと頼って良いわヨ。なんたって、世界を救った天の勇者なんだもノ」
そうですね。と、私が頷くよりも前に、あんまり付け上がるなよ。なんてアギトが言うから……ミラは私から離れて、すぐさま彼に飛び掛かって噛み付いてしまった。
せ、狭いのだからあまり暴れないでいただければ……
「……地図の上ではもうそろそろでしょうか。カストル・アポリアには背の高い建物もいくつかありましたから、すぐに目でも捉えられるようになると思うのですが……」
「ぐるる……んむ。煙突の生えた屋根ならずっと見えてたわヨ。馬車が進んでる方角的に、そこが目的地なんだと思ってたケド」
ずっと見えていたのですか。と、今更驚くこともあるまい。
魔術や他の要因による探知以前に、ミラはその目で遠く広くを見渡し、目標を発見出来るのだ。
もっとも……ずっと、という言葉の範囲が、ダーンフールを出発してから……だとするのならば、それには流石に驚かなければならないが。
いくら背の高い建物だとは言え、林に囲まれたものをそんなにも遠くから探せるなどとは……
「壊されてる形跡も無い……ケド、それで侵攻が無かったと断ずるのはいくらなんでも早まり過ぎだもノ。私が場所を特定したって事実だけに留めて、報告はしてなかったワ」
「はい、それで構いません。ミラは以前のその建物の様子を見ているわけではありませんから、差があったとしても気付けないでしょう」
「建物がある……以外の異変や異常が見当たらないのであれば、貴女の判断で報告の有無を決めてください」
ミラは私の言葉にこくんと頷き、そしてまた私の隣へ座った。
アギトに噛み付いているか、私を抱き締めているか。そのどちらかをしていないと気が済まないのだろうか。
なんとも……ふふ、人懐こくて愛らしいな。
「……エリーも無事でいてくれるでしょうか」
しかし……ミラが報告をしなかった――あえて言葉にしなかった事実として、カストル・アポリアにある背の高い建物が壊された形跡は無かった、と。
それが私の胸の中に、ほんのりと暖かさを取り込んでくれた。
もちろん、彼女の言う通り、それがあの国の無事を意味するわけではない。
だから、こうしてほんのりとでも安堵してしまうことを――勝手な期待を抱いてしまうことを危惧して、ミラはわざわざ報告をしないでいたのだから。
それでも、大きな建物が無事であるならば、あの超大な魔獣は――山よりも大きな魔獣は、あれから移動して暴れ回ったりはしていないのだろう、と。
アレによる攻撃はカストル・アポリアに向かなかったのだろうと、それだけは確信出来る。
「……? んふふ、どうしたノ?」
「……いえ。ミラは本当に頼もしく、それに優しいのだな……と」
なら……ならば、エリーが何も分からないままに踏み潰されてしまった……などという最悪の結末は、ひとまずあり得ないのだな……なんて。
そんなことを考えながら、私はミラの頭を撫でた。
この子によく似た、愛嬌があって、人懐こくて、それに勇敢で、正しい優しさを貫き通す強さを持った子。
捨て子としてマリアノさん達に拾われ、育てられ、そして自らの意思でアルバさんを支えるのだと決めた気高い人物。
特別隊の中でも特に誇らしいひとり。そんなエリーが……
「……あっ。ミラ、あれか? あの……なんか……鉄っぽい屋根か? 見えてたやつって」
きっと無事でいる。無事でいて欲しい。無事でいなければ――あんなにも健気な子が理不尽を受ける運命などあり得てはならないと、祈りなのか恐れなのかも分からないことを念じていると、アギトが覗き窓から外を指差しながら声を上げた。
「……アレだな。前にエリーと来た時に見付けたやつだ。確かに、どこも壊れてなさそうだけど……」
「壊れてなさそうじゃなくて、壊れてないわヨ。少なくとも、屋根はネ。その下が無いなんてことがあったら流石に分かんないケド」
お、恐ろしい話を……
しかし、そうだ。そういう可能性があると――むしろ、あの国のすべてが破壊し尽くされているのだと、そう考えておくべきだ。
そう考えて、覚悟を決めておくべきなのだ。
それから馬車はしばらくまっすぐ進み、魔獣とは遭遇することなく、いつかも通った関へと到着した。
どくん――と、胸が大きな音を立てた気がした。
もちろん、それは錯覚に過ぎない。
ただ、自分の心臓の音が大きく聞こえた――緊張と恐怖とが、意識を自分の中にある苦しい記憶へと無理矢理に向けさせたのだ。
きっと大丈夫――とは思わない。
けれど、何もかもが奪われてしまったなどとも諦めない。
冷静に、現実だけを受け止める。
そんな覚悟を胸に抱いて、馬車の外へと目を向ける。そして、その先には――
「――止まれ。見ない馬車だな、どこから来た。どこから…………どこでも見たことない形だな、こりゃ。外国から来たのか?」
――肩から長銃を提げた見張りの男が――以前にここを訪れた時と変わらない顔が、そこには立っていた。
「――っ。バーテルさん――っ! 良かった、無事だったのですね!」
「え――あ……なっ、はっ!? あ――貴女は、アンスーリァ国王陛下――っ!」
いつか私達を、ヨロクに住んでいられなくなった流れ者として受け入れてくれた、ふたりの見張りのうちのひとり、バーテルだ。
彼が――あの時この場所を守っていたものと同じものが、今もまだここに――ならば――――
「――ハミルトンさんは――あの方は――あの方も無事なのですか――っ!?」
「いえ、あの方だけではありません。ヴェロウも、アルバさんも、皆――このカストル・アポリアのすべてが――――」
興奮で少しだけ声が大きくなってしまっただろうか。騒がしくしてしまっただろうか。
何か問題が起こっていると、そんな風にもうひとりの見張りに思われてしまっただろうか。
私がバーテルに駆け寄って問い詰めている姿を見て、少し離れたところにいたもうひとりの見張りがこちらへと駆けて来るのが見えた。
もうひとり――見覚えのある男の姿が――
「――っ! ふ――フィリア=ネイ……現アンスーリァ国王陛下……っ」
「――っ。ハミルトンさん……っ。良かった……この国は……カストル・アポリアは……っ」
ケルビン=ジャーツ=ハミルトン……いいや。ケール=ハミルトン。
かつて、私達とゴートマンとの戦いに巻き込んでしまった、恩を返さなければならない人物。
そして――彼の背中の後ろには……
「――――あっ! あーっ! フィリア! フィリアだ! ます!」
関があって、その向こうには人々の暮らす街並みがあって、そして――――懐かしい、人懐こい声が聞こえて――――
「――エリー……エリーっ! 良かった……無事で……っ。いえ……約束通り、元気いっぱいで過ごしていたようですね」
「うん! あっ、ます! あれ?」
髪が少し伸びて、背も少し高くなって、それでもまだ言葉足らずなところは変わっていない、いつも見せてくれていた溌剌な笑顔を浮かべたエリーが、大きなかごを両手で持ってこちらへ走って来た。
「ひさしぶり! ます! あっ! ユーゴ! ユーゴもいる! ユーゴ! ユーゴ! フィリア! ユーゴ!」
「……っ。ふふ。はい、お久しぶりです」
何しに来たの? と、相変わらずちょっとだけ突き放したようなことを悪気も悪意も無く口にしながら、エリーはかごを持ったまま私のそばでぱたぱたとはしゃぎ始めた。
ユーゴも普段よりずっとずっと和やかな……そして、安堵した表情を浮かべて、そんなエリーのそばまでやって来る。
アギトとミラも、自分のことのように喜んでくれているみたいに笑っていて……
「――わっ。フィリア、どうしたの? こわいの?」
「……いえ、いいえ。何も怖くなんてありませんよ。こうしてまた会えて、とってもとっても嬉しいのです」
私は気付けば涙を流していて、エリーの小さな身体を思いきり抱き締めていた。
この場所は――この国は、ここにいる皆は、こうして無事でいてくれた。魔女には襲われなかった。
ただそれだけで、私の中にあった不安や懸念はすべて洗い流された気分だった。




