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異世界天誓  作者: 赤井天狐
第三章【たとえすべてを失っても】

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第三百四十九話【ふたりの当たり前】



――怯えてはならない――

 目の前にいるのはアギトなのだ。

 優しくて、気弱で、けれど勇敢な。あの温かなアギトで間違いないのだ。


 なのに……っ。


 身体の奥底――本能がそれを拒絶する。

 びりびりと身体が痺れて、目の前の“何か”と向き合うことを拒んでしまう。


 これは――この事象は、人間とはかけ離れたものだ――と。


「……ま、そうなっちゃうわよネ。ごめんネ、フィリア。無理はしなくてもいいワ」


「っ。無理など……」


 驚いてはならない。

 怯えてはならない。

 無礼があってはならない。


 そこにいるのはアギトなのだ、私達を何度も救ってくれている優しい彼なのだ。

 感謝と賛辞こそあれ、その在り方に怯えて拒絶するなど――


 頭の中で何度も自分を怒鳴り付けて、それでも震えが止まらない身体に苛立ちさえ覚えた。


 アギトなのだ、これは。

 アギトが……私達にとっても大切な――ミラにとってはかけがえのない人が……


 私は立ち尽くしたまま言葉を失った。

 目の前のそれが見えなくなったから。

 ただ真っ暗なだけの闇の中に、揺らぎの存在を確認出来なくなったから。


 いいや……無意識がそれを否定してしまった……のだろう。


 そんな私を見て、ミラは寂しそうな顔をしてしまった。

 違う。違うのです。と、見苦しくとも言い訳をしたかった。

 アギトに怯えたわけでも、彼を拒んだわけでもないと、言い訳をしたかった……のに……


 身体はまったく動かなかった。

 ただ、ミラがどこかへ向かうのを……きっとアギトのそばへと近寄って行くのだろうことを見送るしか出来ない。


 そして、ミラがどこかへ腰を下ろしたのを見てから、そこにアギトが……揺らぎがあるのだと気付いた。

 ミラがいるのだからそこにいてくれるのだろう。と、そんな思い込みだけだったかもしれない。


 でも……私はもう一度、アギトのいるだろう場所に目を向けて……


「――――がるるるる! ふしゃーっっ!」


「――いたぁーい――っっ⁈ 痛い痛い痛い痛い! 噛むな!」


……突如、ミラが虚空に噛み付く姿を目に焼き付けた……

 あ、あれ……? 先ほどまでの寂しそうな顔はなんだったのだろうか……?


「――っ⁈ な――こ、これは……」


「ぐるるる……ぺっ。叩き起こしたんだもノ、もう揺らぎはどこにも無い筈ヨ」


 びくん! と、肩が跳ねた。

 その光景に……ミラがアギトに噛み付いていることではなく、目の前に砦の一室が……かつては自分が使っていた部屋があったことに、私は心底驚いていた。


 な、何が起こった……?

 目の前には私も良く知るベッドがあって、壁も床も天井もあって、振り返ればドアもきちんと存在する。

 それに……


「……ミラ……アギト……」


 もう寂しそうな、儚げな表情などを見せない、普段通りのミラの姿があって、そんな彼女が思い切り噛み付いているアギトの姿もあって……


「痛い痛い! ま、まだ噛むか!? 最近ちょっとお兄ちゃんに厳しいんだけど! もうちょっと優しい起こし方してって!」


「がるるる! いつまでもバカづらで寝てる方が悪いのヨ! ふしゃーっ!」


 起こし……ええと……?


 どうやらアギトは、自覚としては、今の今まで眠っていた……と、そう思っている……のかな。

 その……では、たった今の瞬間まで広がっていたあの空間を、彼は……


「安心しテ、フィリア。私がこうして噛んでる間は、普段通りのバカアギトでしかないかラ」

「さっきも言ったデショ、存在そのものが不安定……定義するものが曖昧なんだっテ。なら、はっきりさせてやればいいのヨ」


「いてて……いたいっ!? 何回も何回も噛むなって! ガムじゃないの! 骨でもないの!」


 定義を……はっきりさせる……?

 それは……それが、その……噛み付くという行為とどう繋がるのだろうか……?


 ミラの言葉と行動とがいちいち理解出来なくて、私は呆然と立ち尽くしていることしか出来なかった。


「アギトはネ、ひとりだと存在を証明出来ないのヨ」

「誰の記憶にも存在せず、どこにも記録が存在せず、血縁も無く、誕生の祝福も無かっタ。だけど――私と一緒なら、話は別ヨ」

「世界を救った勇者として――その半身として、私との縁はしっかり繋がってるんだもノ」


「……ミラとの縁……ですか。しかし……」


 それと噛み付くのは関係無いだろ! と、私の持っていた疑問と同じものを、アギトは悲鳴のように口にした。

 ううん……その……我ながらもっともな疑問だと思うし、アギトについても当然の反応だと思う……


「こうやって抱っこしてるだけでも良いだろ、まったく。こら、噛むな噛むな、手を噛もうとするな。なでなでしてやるから、いい子にして……痛いって!」


「ぐるるる……ぺっ。バカアギト、それじゃ足りないかもしれないからこうやって目を覚まさせてやってるんデショ。フィリアの前で無様なトコ見せるんじゃないわヨ」


 アギトはミラを大事に大事に抱きかかえ、そして愛おしそうに頭やお腹を撫でる……のだが、それもそれでやはりなんと言うか……犬や猫をあやしているようにも見えるな……


 そんな彼に、ミラはやや怒った顔を向けて、シャキッとしなさイ。だとか、だらしない顔してんじゃないわヨ。とか…………?


「……あの、アギト。もしや、その……貴方の身に何が起こっていたのか、自覚があるのですか……?」


「え……あ、はい。すみません、不気味でしたよね。それと……怖かった……ですよね。いきなりですみませんでした」

「でも……自分で言葉にして自覚しちゃうと、上手いこと行かなくなりそうだったもので。ほら、曖昧さが肝なわけですし」


 な、なんだかあっさりとしているのだな……


 しかし……アギトにはあの瞬間の――自らを災厄として完成させた瞬間の記憶がある……のか。それは……


「……怖くは……無いのですか……?」

「私は……私は、貴方が変わってしまったことや、その在り方よりも、そんなものと裏表な状態にあることこそを恐ろしいと思いました。貴方自身は……」


 自覚のある変貌……いいや、そんな言葉ですら収まらない、大き過ぎる変容に、彼はどうして耐えていられるのだろう。それが何よりも不思議だった。


 怖くてたまらない……と、きっと私ならば怯えるばかりだと思う。


 自己が定義されていない、存在が曖昧になっている。

 いつ……どこで、なんの拍子に、まったく抵抗すら出来ないままに、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。


 そんなものを抱えて、どうして彼はこんなにも優しげに笑えるのだ。


「……えっと……? 俺は……別に怖いとかは……? え……? その……フィリアさんは怖かった……あれ? 俺が怖いんじゃなくて……? ええと……?」


「……? な、何をそんなに悩んでいるのでしょうか……?」


 だって、めっちゃ不気味じゃなかったですか? と、アギトはなんとも間抜けな顔……こほん。子供のような、純粋な顔でそう言った。そう言ってしまった。

 そして……ミラにまた思い切り噛み付かれてしまった……


「いでででででっ!? だ、だってそうだろ! 俺は怖くないよ! 怖いわけないよ!」

「だって! 見えないもん! 俺は自分の顔見えないもん! だけどさ!」


「ぐるるる! ふしゃーっ! がじがじ……ぺっ」

「このバカアギト! フィリアが気を遣って優しい言葉を掛けてくれてるんだから、もうちょっと気の利いた返事が出来ないの! バカアギト! 大バカアギト!」


 いえ、その……そういうつもりで言ったのでは……

 しかし、ミラの言葉にアギトはハッとした顔になって……いえ、そんなつもりはやはりないので、そうだったのか! なんて顔をしないでください……


「……こほん。なんにせよ、貴方とこうして無事に再会出来たことが今は嬉しいです」

「あの異変もそうですが……何よりも、貴方があの無貌の魔女の前に立ったあの瞬間から、私は生きた心地がしなくて……」


「い、いえいえ! フィリアさんにそこまで心配して貰えてたことが、俺としてはもっともっと嬉しくて…………?」

「魔女……? ええっと…………? あっ! ん……? えーと……?」


 うん……? ええと……どうしてそこで首を傾げるのだろう。と、私が疑問に思うよりも前に、やはりミラがアギトに飛び掛かって……も、もう少し優しくしてあげられないのだろうか……


「ふーっ! ふしゃーっっ! どんだけ寝ぼけてんのヨ! この大バカアギト!」

「魔女と戦う為に――アイツを倒す為に無茶やるんだって自分で言い出したんデショ! ふしゃーーーっ!」


「い――――ででででででっっ⁈ 痛い痛い痛い痛い! 最近噛み付き方に容赦が無い!」

「前は噛んだ後ぺろぺろしてくれたのに! 間髪入れずに噛んでばっかいるのダメだって! 痛い痛い!」


 じゃなくて! と、アギトはミラに噛み付かれたまま、なんだか大慌てで……慌てて……何かをするでもなく、ただわたわたと慌て始めて…………慌てたまま痛がっていた。

 その……もしやとは思うのですが、痛みで落ち着いてものごとを考えられる状態に無いのでは……?


「……っ! そ、そうだった……そうでした……っ」

「すみません、フィリアさん。俺……あの魔女を倒せなかった……ですよね」

「ちょっと最後の方は記憶が曖昧だけど、とどめを刺しきれなさそうだなって感じたのは覚えてて……」


「むがむが……ぺっ。バカアギト、それをアンタが謝る必要なんて無いわヨ。ううん、違ウ。それについては、私がアンタに謝らなくちゃならないワ」


 ごめん、仕留め損ねタ。と、ミラはアギトに噛み付いたまま……あまり痛がっていないから、きっと甘噛みをしたままそう言って謝った。


「さっきも話をした通り、アギトの中にあるのは世界を亡ぼす災厄の具現ヨ。でも……このバカアギトは、結局のところ一度も世界の滅びを目の当たりにしてないノ」

「魔王にしてもそう、他の終焉にしてもそう。食い止めるか、その前にいなくなるか、どっちにせよ最後までは見届けてなイ」

「だから、最初から倒しきるところまでは無理だったのヨ」


「うぐっ……いやまあ、そうなんだけど。って……え? お前、その話したの……? フィリアさんとユーゴに……だけだよね?」

「その……ええっと……だ、大丈夫か? お前、頭おかしい子だと思われちゃうぞ? もとから頭おかしい子だけどさ……」


 ふしゃーっ! がるるる! と、もう何度目かも分からないミラのけたたましい唸り声が部屋に響いて、アギトはまた噛まれた痛みに悶絶し始める。

 その……申し訳ないのだが、まったくと言っていいほど話が入ってこないし、進んでもいない。


 ただ、ひとつだけ……大きな大きなひとつの安堵が私の胸の中を満たしていた。

 目の前には見慣れた光景が広がっている。

 アギトとミラがいつも通りにじゃれあっている。

 それだけでも、今は良しとしよう。

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