第三百四十八話【奇跡】
驚かないで。怯えないで。ミラは事前にそう言っていた。
そう言わなければならなかったのだと、私は思い知らされた。
この場所は砦ではない。
ダーンフールに建設した、特別隊が残した成果のひとつ。その一室ではない――ある筈が無い。
ここは――あると言うのならば、こここそが地獄と呼ばれるところなのだろうとさえ思った。
壁は無かった。
床も、天井も。部屋という概念そのものが存在しなかった。
ただ、切り取られた空間としてだけここにあった。
前方には真っ暗な空間が無限に続いている。
下も、上も、入って来たドアがある筈の後ろにも。
どこかゆらゆらと不安定な挙動を見せる、ただ黒いだけの空がそこには広がって……っ。
「……アギト……なのですか……?」
その真ん中に、見覚えの無いベッドがある。
この砦に備えたものとは違う、見たことの無い形の――けれどベッドではあると認識出来るものが。
金属性だろう光沢を持つ白い手すりや、宮ですら取り扱っていないくらい分厚いマット。
大きくて柔らかそうな枕があって、そのそばには何やら不気味に光る何かがいくつも付いていて……
「ユーゴは見覚えあるかもしれないわネ。アンタの世界の病院には、こういうのがたくさん並んでたデショ」
「……っ。それ……まじかよ……っ。入院とかしたこと無いからテレビで見ただけだけど……でも……」
病院のベッドだ。と、ユーゴはそう言った。
そして……ミラはそれを聞き届けると、がっかりした顔で俯いてしまった。
やっぱり……と、そう言いたげに見える。
「……アギトの……ユーゴの元いた世界の……っ。それが……どうしてここに……」
「ここがアンスーリァじゃないからヨ。この場所は――今この瞬間のこの場所は、私達の生まれた世界とは違う場所なノ」
アンスーリァではない……?
ここは私達の住む世界ではない……まさか、アギトの住む世界と繋がったとでも言うのか……?
私のそんな疑問に、ミラは首を横に振った。それでもない、と。
「この場所は、アギトそのものヨ」
「今はこうして横になってるから、その為に必要なベッドがあるだケ。起きれば床も壁も、それに家具も現れるでしょうネ」
「でも……その前にはバカアギトの目を覚まさせるつもりだケド」
アギト……そのもの……?
ミラの言葉はイマイチ理解し切れなかったが、なんとなく……勝手な解釈としては飲み込めた。
この場所はアギトの記憶と、そして現在の彼の意志によって作られているものだ……と。
それがあり得ることなのかは別としても、ミラの言葉を受け止めるには、そういう理不尽で理解不能な事象として置き換える他に無かった。
「……もうすぐ起きるでしょうケド、その前にひとつだけ説明しておくわネ」
「アギトがこうなった経緯――私達の世界には存在しない、もうひとつの物語についテ」
「っ。はい、お願いします」
正直、今何を言われたとしてもまったく理解など出来ないだろう。そんな余裕があるとはとても思えない。
それでも、私はミラの言葉に頷いた。
待ってくれと言うことを拒んだ。
それは……彼女に時間を与えたくなかったからだ。
こうして話すつもりになってくれた……話す勇気を振り絞ってくれたことに、最大限の感謝で応えたかったから。
「……ふう。さっき、話をしたわよネ。アギトは死んじゃって、私はそれで心が壊されたっテ」
「でも、マーリン様がアギトを蘇らせてくださって、こうしてまた一緒にいられるようにしてくれた……っテ。でも……」
でもネ。と、ミラは消え入るような声で間を置いた。
きゅうと目を瞑って、怖い思い出から逃げ出そうとしているようにも見えた。
それでも……彼女は私達の方を向き直して、怯えた表情のままに話を再開した。
「――誰の中にもアギトの記憶は残っていなかっタ――それは、私だって例外じゃなかったワ」
「アギトはひとり――たったひとり、誰にも覚えられていない世界に帰って来たノ」
「勇者でもない、誰の友人でも知人でもない、アギトという人間かどうかすら怪しい存在としてネ」
「――っ! な――そ、それでは……」
それでは話が違ってしまう――っ。
私はつい声を荒げてしまって、ミラはそんな私を嬉しそうに見ていた。
そう、それではとても……この現在には繋がりなどしないではないか……っ。
こんなにも互いを大切に想い合っているふたりには……
「……だから、マーリン様はアギトに使命を課したワ」
「それは、私の記憶を――アギトという存在についての記録、存在証明を取り戻すコト」
「その為の手段は――――終焉を迎える寸前の世界に召喚し、その滅びを食い止めること――――」
マーリン様はひとつの仮説を立てられタ。
召喚術式によって失われた情報は、果たしてどこへ消えてしまうのカ。
自然には摂理が存在すル。
完全なる消滅はあり得ない、何かしらに形を変えて保存されるのが鉄則であル。
であれば、情報は――知識、記憶、歴史――――過去、現在、未来というものは、術式によって消費された後に、また別の世界へと移動し、再構築され、そこでもやはり情報として消費されるのではないカ。
「端的に言えば、滅びを迎える世界そのものが、それを食い止めんと未知なる可能性を求めてそれを欲するノ」
「だから――情報によって、未知なる技術や可能性によってその滅びを回避するよりも前に――あるいは滅んでしまう前に、外部の誰かの手で終焉を食い止められたなラ……」
情報は需要を失い、消費されることも無く、また世界のはざまをさまようだけに戻るだろウ。
そして、そうなったならば、本来あるべき場所――アギトという存在と紐付けられた世界へ戻る筈ダ。と、ミラはそう言った。
それが、大魔導士マーリンの立てた仮説であった……結果としてはほとんど正しいと立証された、情報というものの摂理なのだ、と。
「そうと決まったから、アギトは多くの世界へと召喚されて、その滅びを食い止めようと戦い続けたワ」
「魔女と戦ってるときに見せた事象のすべては、アイツが見たすべて――世界を亡ぼす災厄の象徴だったってわけヨ」
「……世界を終わらせるもの……世界を救う奇跡とあの時口にしていたのは……」
アギトの振るう力は、別なる世界を亡ぼす筈の理不尽だった。
そして、彼だけは――その滅びを食い止めた過去を持つアギトだけが、それを制し、乗り越えることを可能として……
「…………? 待ってください……では……では、あの時のアギトは……アギト自身は……っ!」
「……そうヨ。あの時のアイツは、世界を亡ぼす存在そのものになっていたノ」
「あまりにも分かりやすい形、格好――私達の世界を終わらせる筈だった、魔王そのものとしてネ」
っ。魔王……アギトが倒したもの。アギトを殺したもの。
彼はあの瞬間に、それ自体に成り代わっていた……と言うのか……っ。
「皮肉な話でネ。魔王は……魔王の志したものは、人間ではないものの可能性だっタ」
「魔獣……魔の――つまりは変質されたものの可能性」
「人間よりもそちらの方がずっとずっと優れていると、より良い未来をもたらすのだと、そう主張していたワ。そして……」
アギトの中に芽生えた力も、それとまったく同じものだっタ。と、ミラは寂しそうな声でそう言った。
アギトなのだろう何かに向かって、優しく微笑みながら。
「……アギトはね、魔王との戦いの後にも死を経験してるノ。私が知る限りで、少なくとももう二度」
「その内の一回はネ……ユーゴ、アンタも知ってるあの優しい世界で起こってしまったのヨ」
「……優しい……っ。俺の元いた……アギトが今も暮らしてる、日本で……?」
そんな名前の国だったわネ。と、ミラは小さく頷いた。
ユーゴの生まれた世界、アギトが今も生きている世界で……死を経験した……?
なら……いや、では……けれど……
「アギトは……アギトはまだ、その世界での生活を送っていると……」
「うん、そうヨ。アギトは……アキトはその世界でも死んで……そして、自らの因果によって生き返っタ」
「死を超越したものとして在った、アギトとしての因果を以ってネ」
そうして蘇った瞬間に、アギトは終焉を招く災厄として完成してしまったワ。と、ミラは真剣な顔で、ちらりとベッドのある方を見てそう言った。
「詳しいことは、見てたわけじゃないから分からないケド。でも……アギトはその時、自分の弱さを――――ただの人間であることの無力さを悔いて死んでいったノ」
「その結果……アギトの中には、願いを種にした呪いが発生しタ」
もしも自分が強ければ――こんなにも弱い、人間という存在ではなかったならば――
「複数の世界を渡り歩き、その終焉を退けたという偉業……ううん、異常は、アギトという存在そのものの定義を書き換えてしまっていタ」
「アギトの中には、強過ぎる干渉力が――世界そのものを書き換えかねない因果が、積もりに積もってしまっていたノ」
その結果、アギト自身の因果によって、アギトの世界は異常をきたしてしまっタ。
アギトの記憶の中にある、魔獣を生み出すという結果だけを反映する力を呼び込んでしまったノ。
ミラは話を続けてくれる。
今にも泣きそうな顔になりながら、悔しさに目元を真っ赤に腫らしたまま。歯を食い縛って、拳を握り締めて。
始めに訪れたのは原初の世界。
人間の――人類の始まりの、その一端だった。
その世界はすべてを失うという形で終焉を迎えた。
大雨と、そして洪水。
わずかずつ成長する人類を、その歩みが遅いと淘汰する濁流によって、延々とやり直しを――――最良の種の誕生を目論み続ける世界だった。
二度目に訪れたのは融合の世界。
人類と獣とが溶け合い、そして人の歴史が獣の未来へと収束するという可能性だった。
誰も救えず、誰も守れず、ただ――人と獣の定義だけを思い知らされて、打ちのめされるばかりだった。
次に訪れた世界は、魔女に淘汰された世界だった。
魔術の、魔術師の、魔女の在る世界の、その具現だった。
けれど、それが意味するところは、魔術、魔術師、魔女の繁栄した世界……ではなかった。
それは既に……
「……アギトの干渉力は、とっくにおかしくなってしまってたノ」
「その世界は、アギトの来訪によって完成しタ――アギトの記憶と、記録と、想像によって形を作った世界だっタ」
「アギトはその瞬間に、世界をひとつ創造するという結果を残してしまったワ」
そして――――次に、神を見た。
信仰を、祈りを、願いを具現化した存在を――超常を、アギトは引き寄せた。
それは……アギト自身が超常の領域へと足を踏み入れた証拠であった。
「……そこで、私は記憶を取り戻したワ。今にして思えば、取り戻せて当然だったのヨ」
「その時のアギトには、自らの意思を、無意識下に成し遂げるだけの力が備わってしまっていタ」
「世界を創り、超常との対話を経て、アギトは自らの願いを具現化する力を手にしていタ。そして……」
次の世界で、アギトは災厄として完成すル。
ミラはそう言って、小さく息を吐いた。
力のこもっていた両手をだらんとぶら下げて、自らの無力さを嘆くように頭を掻きむしった。
「……目的は、フリード様の記憶を取り戻して差し上げることだっタ」
「でも……その場所で、アギトは完全なる未明と遭遇するノ」
「認知出来ず、理解出来ず、触れられもせず、未来永劫交わることも無イ」
「それが――その因果こそが、今のこの場所を作っている暗黒ヨ」
「……この壁も、床も、天井も存在しない空間そのものが……」
アギトはその世界で――未来永劫関わる筈の無かった世界において、奇跡そのものとなっタ。
可能性の具現――――望みの再現、つまりは……
「――――アギトはネ、滅ぼすという一点のみにおいて、あらゆる事象を可能にする存在へと、無自覚の内に変わってしまっタ」
「そして……そうなってしまったアギトが、あの優しくて平和な世界へと帰ったノ」
「そこで……理不尽な死を前にして……」
無自覚は自覚へと変わり、そして……災厄は完成しタ。
ミラは最後にそう言うと、その場にへたり込んでしまった。
その話をすることが、彼女にとってどれだけ大きな負担になっていたのだろう。
私には……それを考える余裕すらも無くて……
「……びっくりしないであげテ。怯えないであげテ。それと……名前を呼んであげテ。もうすぐ起きる筈だかラ」
ミラがそう言うと、ベッドの上に何かが揺らめいた。
それは……アギト……なのだろうか。
私の目に映っているのは、ただ黒いだけの――星の見えない夜空よりも暗い、無限に続くかのような闇だけだった。




