無題
「――アギト――なのですか――?」
これはなんだ。
私は――私達は今、何を見ている――
胸に穴が開いた。
血が噴き出した。
けれど、胸には穴など無くて、血などは一滴も出ていない。
その背中には見覚えが、馴染みがある。
優しくて気弱な、ユーゴとも私とも親しくしてくれている、ユーザントリアからやって来た少年。
紛れもなくアギトの背中だ。
なのに――
「――――ミラ――ミラ――――ミラ――――ッ!」
「アギトは――アギトはいったい何をして――――何が起こっているのですか――っ!」
腕が千切れた。けれど、腕は繋がったままだった。
足が千切れた、そのまま転んだ。けれど、足は繋がったまま、立ったままだった。
血が噴き出した。けれど、地面に血痕は残らなかった。
頭が――首が――肩が、胸が、腹が、切り取られて消えた。
けれど――――
「――もう諦めろよ、魔女――」
「それは知ってるんだ。転移、転送。そんな名前の魔法。理屈も何も知らないけど、そういうものがあるって聞いてる。そんなものがあるって何回も見てる」
「だから――」
だから――と、アギトはそう言って、そしてまた身体を半分切り取られて――切り取られなかった。
魔女の攻撃を無効化している……?
いいや、違う。そんなわけはない。間違いなく彼は殺されている。
何度も――何度も何度も、命を失うだなんて話ではなく、肉体そのものを、その大半を削り取られてしまっている。
なのに……っ。
「――諦めろって言ってるのに、聞かん坊だな。それはもう知ってるって。だから――――だからもう、それでは死なないことにした――――」
「だから――もう諦めろ――」
「――――不思議な、ことが、起こっていますね」
「人間の、個体に、肉体の、損傷を、あるいは、損耗を、回帰させる、能力は、無かった筈です」
「人間の、肉体は、不可逆な、分裂によって、のみ、回復を――――」
――だから――と、アギトはまた魔女の前に大きな一歩を踏み出した。
そんな彼に、魔女はその顔を――何も無い貌を向けたまま、じりじりと後退りしている。
動揺している。
うろたえて、あからさまにたじろいでいる。
ユーゴの進化を目の当たりにしてもなお平然としていた魔女が、目の前の存在に――どう見てもただの人間にしか見えないアギトに、恐れを抱いている。
「――っ。不思議な、ことが、あれど、私の、目的には、差し支え――――」
恐れ、怯え、そして魔女は今までに見せなかった行動に出た。
顔を――目も鼻も口も無い無貌を、アギトではなく私達へ――ユーゴへと向けたのだ。
そして――それの意味することはすぐに分かった。
攻撃の手を――標的を、目の前の異物から別の人間へと――――
「――――っ? 不思議な、ことが、起こりましたか? 不思議な、不可解な、不自然な――」
――向けた……ように思えた。
けれど……何も起こらなかった。
ユーゴもまだ混乱状態にあって、魔女に顔を向けられたその瞬間には反応出来ていなかった。
だが……彼の身には何も起こらなかった。
「だから、諦めろって言ったのに」
「それは知ってる、それで大勢殺されたことも聞いてる」
「だから――――それでは誰も殺せないことにした――――」
「――理解が、難しい」
「貴方の、言葉は、人間の、それと、同じ、ように、思えます。ですが、貴方の、言葉は、理解が、難しい」
「意図が、意味が、理解し得ない、ものの、ように、思えます」
殺せないように……した……?
彼は……アギトは何を言っている……?
魔女は魔法を操る。
転移、転送。と、ミラはそんな名前でその力を呼んでいた。
物体をマナの流れへと乗せて、ある地点からある地点へと一瞬で移動させる、魔術を超越した技術。それが、魔法。
そんなものに対抗する手段は無い。
マナというものに――自然の中に存在する流れに逆らう手段など、この世界には存在しない。
しない……筈だ。なのに……
それでは殺せないように、殺されないように。それでは何も出来ないようにした。
アギトはそう言った。そんなことを言った。
まるで世迷言――子供のわがままのようなことを、勝手なルールを決めてしまうようなことを――――
「理解が、とても、難し――」
「――しなくていいよ。僕もきちんとは分かってないから」
「だから――そのまま黙っててくれ。これ以上は――もう――――」
突如、それは発生した。
魔女の頭上から、巨大な蛇が――大木をなぎ倒してしまえそうなほどの大きな蛇が落ちてきたのだ。
魔獣だ――魔女がまた魔獣を呼び出して、それで攻撃しようとしているのだ――と、私はそう思った。
それが普通だと――自然だと、当然だと思った。
そういう能力があったのだから――今までにも何度も苦しめられてきたのだから。
けれど……
「――ごめん――アイリーン――」
「――――っ! この、生物は、蛇でも、魔獣でも――――」
蛇はアギトではなく、魔女を襲った。
大口を開けて、地面諸共に魔女を飲み込もうと襲い掛かった。
何が起こっている。
この蛇はアギトが……アギトにも、魔女と同じように何かを呼び出す力が備わって……?
しかし……しかし――だ。
「っ――生物では、ありません――これは、この生物は――――生物では――――」
「――殺せないよ、それは。お前には殺せない。だって――それは世界を終わらせるものだ――」
「勇者でもないお前に――悪いことをするばかりのお前に、世界を救う奇跡が起こせる筈が無い――」
魔女は蛇の攻撃を避け続けていた。
魔法の力によってどこか遠くへ消えてしまうのではなく、ゆらりゆらりと身を翻しながら躱し続けていた。
けれど……ついにはその巨体に撥ね飛ばされて……
「――ミラ――っ。ミラ――ッ!」
「アギトは――アギトにはなんの力も付与しなかったと――っ。彼には特別な力など無かったと、そう言っていたではありませんか――っ」
「では――ならば、これはいったい――――」
魔女はたった一撃で動かなくなった。
撥ね飛ばされて、大きく宙を舞って、地面に叩き付けられて。
それで……それだけで動かなくなってしまった。
これはなんだ。
何を見ている。
何が起こっている。
この蛇は――この力は――――アギトという少年は、いったい何者なのだ――――
「……フィリア。アレはネ……アギトはネ、もうひとりの勇者なノ」
「この世界に名を刻まなかった――刻めなかった、魔王を倒した本当の勇者――」
「――世界を救った、最強の勇者の――――その、成れの果てヨ――――」
「――もうひとりの――――」
――――勇者――――?
世界に名を刻まなかった、魔王を倒した本当の――
何を言っている。
それは――世界を救った天の勇者は、ミラではなかったのか。
たった今話をしてくれた彼女こそが、魔王を討ちし伝説の――――
「――理解が、難しい。生物として、考え得る、形を、超越して……」
「……そりゃそうだよ。だって、この世界には存在しないものだ。する筈の無いものだ」
「どんな世界にも、いちゃいけないものだったんだ。だから――――」
ぴた……と、頬に冷たいものが触れた。
指で拭ってみれば、それは透明な液体……水だった。
そしてそれは、何度も何度も私の頬を――全身を濡らして――
「――雨……? どうして……先ほどまではあんなに晴れて……」
雨だ。雨が降って来た。
けれど……ただの雨には思えなかった。
山が近いとは言え、それでこれほどまでにすぐ天気が崩れるなんてことはあり得ない。
雨が降る前には雨雲が発生する、その予兆は必ず見えるものだ。
けれど……そんなものはどこにもなかった。
見落とした、見逃した――のではない。予兆が無かったのではないのだ。
雨雲が――今この瞬間に雨が降っている原因であろうものが、私達の頭上に存在しないのだ。
「……理解が、難しい。不自然な、降雨が、ではなく、この、現象を、引き起こすに、至る、マナの、乱れが、観測されません」
「これは、マナによる、変異ではなく――」
「――だから――だからこそ――――僕は――――」
――ゴウ――と、嫌な音が――大きな水の流れの音が聞こえた。
それはまるで、いつか私達の行く手を阻んだ濁流の音のようだった。
しかし……
水は渦を巻いて――地面にくぼみも無いのに、穴も開いていないのに、まるでそこがため池であるかのように、降り注いだ雨水は一か所に集まり始めた。
ただ一か所に――――魔女の足下に――――
「――それを乗り越えるのには、数えきれないだけの世界からの犠牲者を要した。そして――多分、まだそれは続いてる」
「お前は辿り着けるかな。僕は……僕達には無理だったけど」
「――――っ――不自然な――奇妙な、理不尽な――――っ」
「この、水量は、およそ、自然発生した、降雨による、ものでは、ありません。しかしながら、マナに、変化は――」
水は渦を巻き、波を立て、まるで大海原のように荒れ狂いながら――魔女だけを飲み込んだ。
釣った魚を入れておく為の生け簀のような、小さな小さな海がそこにはあった。
小屋よりも更に狭い、人間ひとりだけを沈める為の海が――
「――不可解な、ことが、起こっています。何度も、何度も、マナに、影響を、もたらさず、不自然な、現象が――」
「……あっ。そっか、貌が無いから溺れないんだな。そんな生き延び方があったとは思わなかった」
魔女は海に沈んだ。
けれど、その声が止むことは無かった。
なるほど、無貌だけあって、声も呼吸もその身体とは無関係だったのだろう。
だが……
「……それじゃあ、お願いします」
アギトはそんな魔女の姿を見て、ぺこりと頭を下げた。
どこへ、誰へ向けてのものかは分からなかった。
何も無い、誰もいないところへ向かって頭を下げた――ように見えていた。
しかし……
「――――灰色――――? 理解、不可能」
「灰色と、マナの、揺らぎを、同じく、するもので、ありながら、しかし、銀の――――」
「――やっぱり、お前もそんな風に呼ぶんだな」
アギトが顔を上げると、そこにはひとりの少女が――銀の髪の、瑠璃色の瞳の、そして銀色の大きな翼を持った少女がひとり、そこには立っていた。
魔女はそれを――灰色――と、まるで既知のようにそう呼んでいた。
「――――この人は灰色じゃない」
「あらゆる世界で最強の魔女――――世界そのものとして成立した、究極の大魔導士」
「紅蓮の魔女――――マーリンさんだ――――」
「――――ぁ――――」
紅蓮の魔女――と、アギトは少女をそう呼んだ。
そして、少女はそれに応えるように、小さな口を目一杯に開いた。
そこからは声も言霊も発せられなかったが――しかし――――
恐ろしいとは思わなかった。
考えることも出来なかった。
魔女が――魔女の沈んでいた海が、瞬きをする間に干上がったのだ。
海だけを飲み込んで燃やし尽くした、少女が起こした魔法によって。
「人間を、魔女を、あらゆるものを焼き滅ぼした最強の魔術だ。そして……これは、そういう風に在れと願われて在ったものだ」
「だから……お前でも相殺は出来ない。僕達は、最後の時まで逃げるしか出来なかった――」
「――不可侵の――――領域に――――っ」
「マナの――魔力の――影響を、受けずに、これほどの、熱量を――――」
紅蓮の炎は空高く昇り、そして風に吹かれて消えて無くなった。
その時には、もう少女の姿もどこにも無かった。
私の目の前に残されたものは……
「……まだ……生きてるんだな。まだ、死んでくれてなかったんだな」
「――――マナの――起源の――理に――背く――存在が――――」
……黒焦げになって、わずかに身をよじるしか出来なくなった魔女の姿だった。
それでもまだ、魔女は生きている……ようだった。
言葉が聞こえて、身体が動いているのだから。
「……起源の理……か。それは……よく分からないけどさ。でも……」
でも――と、アギトは誰かに語り掛けた。
でも、それに近いものは見たことがある。そうですよね。と、そこにいない誰かに――まだ存在しない、現れていないであろう何かに――――
「――そうだな、客人よ。いいや……今は、私が客だろうか」
「なるほど、君達はこのような世界に暮らしていたのだね。ずいぶんとまた、立派に発展したものだ」
「……はい。きっと……いえ、絶対に。貴方が愛した人々も、同じようなところまで来ると思いますよ」
アギトの言葉に、それは小さく頷いた。
真っ白な……少年だろうか。
髪も白く、肌も白く、目も、口の中も、あらゆるものが純白に染まった、少年か少女か、それも分からぬような幼い子供の姿があった。
そしてそれを――アギトは神と呼んだ――
「――理解――不能――この、現象に、当てはまる、前例は――」
「ふむ。面白いものがあるのだね、君達の世界は」
「けれど……どうやら、これは人類の道には関わらない筈のもののようだ。取り除いてしまおう。これまで通りに」
取り除く。と、それはそう言った。
そして――真っ白な子供は、真っ白な光へと――――ミラの放った魔術よりもずっとずっと大きな――――理不尽な――――雷へと姿を変えて――――
「……貴方こそが……」
「――――神也――――」
音は無かった。
落雷の瞬間にも、音も衝撃も存在しなかった。
あるいは……私達ではそれを感知出来なかったのかもしれない。
真っ白な光は地面に突き刺さり、焼け焦げた魔女の肉体を無残に砕いてしまった。
四肢は消し飛び、頭部もまるで枯れた花のように萎れ、そこに命が残っているなどとは到底思えなかった。
それでも――そんな光景を目の当たりにしているのに、アギトはまだ……何かに――誰かに声を――
「――よもや、もう一度君の隣に立つ日が来るとはな――」
「――お願いします。きっとこれで最後ですから、力を貸してください。フリードさん」
金の髪。金の双眸。鍛え上げられた肉体に、そして――フリードという名前――
「勇者よ――いいや、親友よ――」
「己の力のすべてをここに――奇跡をここに代行しよう」
「――――不可解――――っ⁈」
黄金騎士――フリードリッヒ。
その名が頭に浮かんだ瞬間、その人物は魔女の肉体を――千切れ飛んで、干乾びて、もはや生物として形を保ってすらいない魔女の肉体を掴み上げた。
「――これでは死すことも叶うまい。それでは困る、親友の願いが果たされぬ」
「己の力が、彼の奇跡が、よもや傷を癒す為に用いられるとはな」
「――理解が、難しい。理解、不可能な、ことが――ことを――」
掴み上げられた魔女の肉体は、明るい光に包み込まれた。
雷の鋭い輝きとは違う、月明かりに照らされた黄金のような光だった。
それが見る見るうちに魔女の全身を覆うと、光は更に大きく――人ひとり分の大きさまで膨れ上がって……そして、中からは無傷となった魔女の姿が現れ――
「――――俺が化け物に見えるか――――魔女――――」
「――――っ。不可思議――理解不能――――不自然な、ことが――――ひっ――――」
魔女は両足で地面に立ち、そしてアギトの方を向いた。
無貌を、目も無い顔を彼へと向けて――そして――――怯えた。
「――ひ――――はっ――――理解不能――理解不能――理解不――――」
そこには――アギトがいた場所には、巨大な竜がいた。
先ほど現れた蛇よりもずっとずっと大きく、真っ黒な鱗を持ち、狼のような顔をしていて、太く鋭い爪を持ち――けれど、それがアギトだとどうしてか分かってしまう存在が、そこにはあって――――
魔女は逃げ出した。
魔法の力でどこかへ消えてしまうこともなく、走って逃げ出した。
竜から――アギトから逃げ出して、遠くへ遠くへと走って――
「――――ッ! 死――嫌悪――――生存を――生存を――――」
走って逃げる魔女の足下が割れて、そこから大きな何かが飛び出した。
それは――龍だった。
真っ白で、まるでツタのように長く伸びるそれは、地面の中から生えていて……
一本目の――一頭目の龍が魔女を襲った。
魔女はその一撃で地面に叩き伏せられた。
二頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は右腕を食い千切られた。
三頭目と四頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は両の脚を引き千切られた。
五頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は胴を食い破られた。
六頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は悲鳴を上げながら宙に打ち上げられた。
七頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は命乞いをする喉を掻き切られた。
八頭目の龍が魔女を襲った。
魔女は――残った左腕を毟り取られて、ついにはその首だけが残って――――
「――――不届き――――」
「――――っ! バカアギト――――ッ!」
九頭目の龍が――――魔女を襲う瞬間に、ミラの声が聞こえた。
そして、龍はこの世界から消えて無くなった。
べちゃりと鈍い音を立てて、魔女の頭部は地面に叩き付けられた。
あるいは……もう死んでいるのかもしれない。
けれど……そんなことはどうでも良かった。
私の視界の真ん中で、その人は倒れていた。
真っ白なその人は――真っ白な花弁に包まれていたアギトは、龍の消滅と同時に――――




