第三百四十二話【そうじゃなかった筈だ】
この場所には怖い思い出しか存在しない。
林の切れ目に突入したと思えば、その先には数を数えることも困難なほどの魔獣の群れが――それも、巨大な魔獣の群れが待ち構えていた。
その時点で大勢が死んだ。
踏み潰されて、まるで生き物ではないかのような、机の上に積もった塵を掃除されるかのような殺され方をした。
そこへユーゴがやって来て、間に合ってくれて、もう大丈夫だと思った矢先に、あの貌の無い魔女が現れたのだ。
ひとりずつとすら言わない。
何人かを纏めて、片手間に、魔女は大勢を殺した。
ユーゴと戦いながら、マリアノさんやジャンセンさんが張り巡らせた策を無視しながら、大勢を殺し続けた。
私だけを残して、すべてを殺し続けた。
もう逃げるしかなかった。
これ以上はどうにもならない。だから、今いるものだけでも全力で逃げるしかないと思った。
けれど、それも甘い考えだった。
全員が殺された。
あんなにも頼もしかった皆が、呆気なく殺されてしまった。
そして……ユーゴは力を失った。
すべてを失った。
この場所に来てから、私はすべてを――手にしていた筈の希望のすべてを踏みにじられてしまった。
だから……もう、自分には何も出来ないのではないか……と、諦めて折れてしまいそうにもなった。
だが――――
「――――百頭の龍雷――――ッ!」
もう何度目だろうその言霊は、どれだけ繰り返されても私達の本能を――生存本能を、逆らってはならないという直感を押さえ付け続けた。
目は一向に慣れない。
魔術が発動する度に、目を瞑って顔を背ける以外に出来ることは無い。
まるで太陽を数多に増やしたかのような光量のそれは、紛れもなく雷だ――と、私にはそうとしか感じられなかった。
「――っ。う……」
「っ! フィリア!」
それを魔術だと、人間に再現可能な、矮小化された自然現象なのだとミラは言った。
けれど……私の細い神経はそんな風には捉えていない。
何度も何度も繰り返されるうちに、どんどん恐ろしくなって、身体の末端が麻痺し始めて、ついには立っていることもままならなくなってしまった。
「……ユーゴ、貴方には見えていますか……?」
「これが……これほどの力が無ければ、魔王を倒すという偉業は成し遂げられない……のですね。国を、世界を救うには、よもやこれほどまでの……」
ミラは手を緩めない。
私には……いや、私達には、彼女の前に何があって、どうして、あとどのくらい“これ”を繰り返すのかが分からない。
もはや生きている次元が違うと、そんな風にすら思ってしまう。
けれど、それでもひとつだけはっきりしていることがある。
ミラはまだ攻撃の手を緩めるべきではないと……緩められる状況に無いと判断しているのだ。
だから……この真っ白な光の壁の向こうでは、今もまだ魔獣が現れ続け……そして、焼き滅ぼされ続けているのだろう。
「……っ。ユーゴ。私よりも、ミラの背中を見ていてください」
「たとえこの先が目視出来ないものだとしても、この異常な光景を強さに変えることが、貴方にだけは可能な筈です」
「……分かってる」
この強さが――異常さが、理不尽さが、強大さが、ユーゴにも必要なのだ。
魔女を倒す為――だけではない。
このアンスーリァを救い、国民すべてに希望をもたらす為に。
彼には魔術なんて使えないけれど、それでもきっと何かを感じ取って、身に付けて、進化の糧に出来る筈だ。
その為にミラもこうして力を振るってくれている筈なのだ。
私はもう立っても座ってもいられなくなって、両手を地面に突いてなんとか顔だけを前に向けていた。
後ろの方でも誰かが倒れる音がしたから、私だけがこうなのではない。
鍛え抜かれた騎士にすら許容出来ない恐怖を――強さを、ミラ=ハークスは振るい続けている。
「――――っ。やっと……終わったのか……?」
そして、しばらくの時間が経過した。
いいや、案外一瞬の出来事だったのかもしれない。
息が詰まって、苦しくて、もう泣き出してしまいそうなくらい恐ろしい時間だったから、ずっと終わらないものにすら感じられたけれど、それでも光が収まる瞬間はやって来た。
まだちかちかと明滅する視界の真ん中に、こちらを振り返ったミラの姿があった。
先ほどまであれだけの脅威として存在した彼女が、誇らしげに――とても人間らしい表情で笑ってこちらを見ている。
その向こうには、何も存在しなかった。
何も――塵も、ごみも、戦ったという形跡も、何も。
何もかもが焼けて、蒸発して、無かったことになっている。
きっと無数に存在したのだろう魔獣と、その死骸が。どこにも残らず消し去られていた。
「申し訳ございませン、女王陛下。少々荒っぽい手段を取ってしまいましタ。ですが、それはすべて被害を未然に防ぐ為でス。お許しくださイ」
「……そう……ですね。事前にもう少しだけ覚悟を決める時間をいただきたかった……ですが、貴女の奮闘を称えぬわけにもいきません」
「何があったかも理解出来ていませんが、よくぞここまで戦ってくださいました」
ミラはぺこりと頭を下げると、今の暴挙についての謝辞を述べた。
とても少々では済まされない荒ごとだったが、しかしそのおかげで被害はまったく出ていない。
ひとまず、魔女による攻撃を――魔獣を差し向けてのせん滅を防ぎ切ったのだ。
「しかし、まだ油断はせぬようお願いいたしまス。本命はここから――この後に控えていますかラ」
ミラはそう言うと、もう一度前を――向こうを向いてしまった。
そこにはまだ何もいない。だが、あの時だってそうだった。
あの魔女にとって、場所だの時間だのは制約にならない。
いつどこからでも、どんなところにでも現れる。
あの時はいきなり私の背後に――防御陣形の内側に現れ、周りの隊員を攻撃し始めたのだ。
今回だって、ミラの索敵範囲外から、いきなりこちらの急所へと飛び込んで来ないとも――
「――雷雲の揺り籠――っ!」
――限らない――と、気を引き締め直そうとした瞬間のことだった。
パツンと何かが爆ぜる小さな音が聞こえたと思えば、私の左正面……三歩ほど離れた場所で、何かが激しく光を上げた。
それがミラの魔術であることは疑う余地も無かった。
言霊も聞こえたし、彼女以外にそんな不可思議な現象を操れるものはいないから。
だが……分からないのは、それで何をしようとしたのか……だったのだが……
「――――面白い、個体が、ありますね」
「以前に、どこかで、見かけた、人間の、幼体も、あるようです。面白い、ことが、起こって、いますね――」
「――――っっ」
声が聞こえて、それからすぐに、私の身体は鉛に漬け込まれて固められてしまったかのように動かなくなった。
魔女だ。
あの魔女だ。
私達に絶望と終焉をもたらした、貌の無い最悪の厄災が現れてしまった――
頭の中にはそんな恐怖心ばかりが浮かんで来て、身動きはおろか視線をどこかへ向けることも――その存在を探すことも出来なかった。
しかし……
「――ぁ……ユー……ゴ……」
いる。
そこにいる。
紛れもなく“それ”が――無貌の魔女がそこに存在してしまう。
その事実だけが確かで、偽りようもなくて、逃げ出すことも出来ず顔を背けることも出来ず――――なのに――――向き合うことも――――
「――ミラ――っ! そいつ……だよな。誰がどう見たって、そいつが親玉……魔女……なんだよな」
声が聞こえた。
震えた――恐怖におびえた声色だった。
それはアギトの声だった。
ミラに事実確認をしているようだった。
目の前の“それ”が、間違いなく無謀の魔女であると――探していた災厄であると、もっとも危険な存在であると、それを確かめている言葉に聞こえた。
だが、それの意味が分からなかった。
魔女であることを今更確かめることが……ではない。
それを、どうしてアギトが――――今この場において、私と並んでまったく戦う力を持たない彼が、どうして真っ先にそれを確認する必要が――――
「――? 不思議な、個体が、ありますね」
「人間の、成体、いえ、まだ、未熟な、幼体、でしょうか」
「恐れて、いるのは、私を、知って、いるから、でしょうか。しかし、私の、前に、立つ。不思議な、個体が、ありますね」
言葉が――聞いてはならない言葉が聞こえた気がした。
魔女の――前に――っ。
ミラではなく、ユーゴでもなく、他の屈強な騎士でもなく、アギトが――一番力の無い、体力を消費し切って、体調も最悪に近しいアギトが、魔女の前に立っている――だって――っ⁉
そんな緊急の報せを耳にすれば、嫌でも顔はそちらを向いた。
そして……その光景を確かめてしまった
まだ痺れて息もうまく吸えないのに、苦しくて息を多く吐いてしまう。
そんな、違う。
そうではない筈だ。
そんなのは予定に無い筈だ。と、何かを必死に否定しようと思考ばかりが巡って……でも……声は、出なくて……
「――ア――ギト――? おい、お前……何やって……」
困惑は私だけのものではなかった。
それを言葉にしたのはユーゴだった。
それを言葉にも出来なかったのは、私だけではなかった。
ヘインスを始めとした騎士も――アギトを知る男達も、誰も彼もが――――ミラ以外の全員が、彼のその行動に目を疑ったのだろう。
――――佇む魔女の目の前に立っていたのは、まだ真っ直ぐにも立てない、弱り切ったアギトだった――――
「不思議な、個体が、ありますね」
「特別な、性質や、能力が、あるようには、感じられません。しかし、不思議な、行動を、します」
「心拍は、早まり、強い、緊張状態に、あるように、見えますが、私の、前に、立つ」
「不思議な、行動を、する、特別でない、個体が、ありますね」
「……っ。ふ……不思議で悪かった……な。それと……特別じゃないっての、出来ればはっきりと言われたくなかったよ」
何を――何をやっている、何が起こっている、何を考えている。
魔女の前に立って話をしているのは、声も身体も震えたままのアギトだった。
ミラは――ミラは何をやっている。
魔女に唯一抵抗できる可能性があるとすれば彼女だ。
彼女の規格外の魔術ならば、魔王をも倒した経験を持つ天の勇者ならば――と、そんな希望に縋ってこうして無謀な遠征に出てきたと言うのに――彼女は何を――――
「――ユーゴ。よく……よーく、見てろ。それで……出来れば、反面教師にして欲しい」
「世界を救う意味を――その本当の意味を、価値を、結果を」
「よく見て、ちゃんと考えて、それから……悩んで欲しいんだ」
「……アギト……? お前……何言ってんだ……? 何して……それ……魔獣じゃなくて……」
ミラは――勇者は――と、私は混乱したまま彼女を探した。
身体は動かない。
目はアギトから焦点を外せない。
だから、きっと彼のそばにいるだろうあの小さな勇者の姿を見付けられないで、なおのこと混乱を強めてしまっていた。
ユーゴは声を掛けていた。
呆れた顔をしているだろうか。
それとも、私と同じように混乱しているだろうか。
でも……見えないし、聞こえた声からも顔色を想像出来ない。
している余裕も、考える余裕も無くて……
私の視界にはアギトと魔女しか映っていない。
恐怖と共に刻み込まれた猛禽の脚のような腕と無貌が、優しくて温かなアギトと向き合っている光景だけしか……映って――――
「――――ぁ――――ア――ギ――――」
バチャ――と、水の跳ねる音が聞こえた。
その時には、私の目は何も捉えていなかった。
焦点をずっと合わせていたものを見失って、おぼろなままの空間をぼんやりと見つめているばかりだった。
けれど――それの意味するところは理解出来た。
出来てしまった。
「――不思議な、ことを、するだけの、個体でした。あるいは、錯乱状態に――――」
声が聞こえた。
魔女の声だ。言葉だ。
けれど――それはすぐに聞こえなくなった。
聞き取れなくなった。
聞いていられなくなった。
何も理解出来ない――したくない。
まだぼやけたままの視界には、真っ赤なものが映っていた。
地面か、あるいは空か。それも分からないくらいぼやけたまま、鮮やかな赤が――――
声が聞こえた。
ユーゴの声だ――と思う。
誰かの名前を呼ぶ声だ。
叫び声じゃない。
道を歩いていてたまたま見かけたとか、そんな時に呼び掛けたような穏やかな声だった。
アギト――と、彼は誰かを呼んでいた。
けれど、その意味と目の前の光景とが噛み合わない。
噛み合わせられない。
噛み合わせてしまったら――全部が――――
真っ赤な水たまりの上に、人の下肢のようなものが横たわっているのが見えて――けれど――アギトの姿がどこにも無くて――――




