第三百四十一話【見付ける】
馬車は――私達は今、かつて濁流の流れた地点に沿って走っている。
向かう先には、初めて無貌の魔女と遭遇したあの開けた場所がある。
ユーゴの顔にも次第に緊張の色が浮かび始めた。
アギトもどこか落ち着かない様子で、何度も深呼吸を繰り返している。
そしてミラは、馬車の天井に座して周囲を徹底的に警戒してくれている。
「……このまま進めば、あの時待ち伏せにあった場所に出ます」
「もしも……もしも魔女が、またこちらの動向を監視し、その上で奇襲を仕掛けようと思えば……」
あの時とまったく同じように、巨大な魔獣の群れに出迎えられかねない。
ミラの感知能力を以ってしても、魔女によって出現させられ続ける魔獣の前兆が掴めるかも分かっていないのだ。
ここから先は……などと甘い考えは捨てて、今この瞬間にも奇襲があって然るべきと覚悟しなければ。
「ユーゴ、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
私がひとつ注意を促したところで、ずっと静かだった馬車の中にアギトの声も続いた。
それはユーゴの身を……いや、心を案ずるものだった。
「……お前こそ、さっきからすーはーうるさいんだけど。ビビってるのはそっちの方だろ」
「いや……うん、それはそうなんだけどさ。でも……俺はただビビってるだけだから。ユーゴは……その……」
ユーゴはそんなアギトに、むしろ心配し返すような言葉を掛ける。
だが……アギトの言わんとすることは私にも理解出来た。
アギトはただ、魔女という脅威に対しての恐怖心とだけ戦えば良い。
しかしユーゴはそうではない、それだけでは済まされない。
ユーゴにとって、この先にあるのは苦い記憶ばかりだ。
目の前で大勢が殺され、マリアノさんも腕を失い、最後には誰ひとりとして守れなかったという、忌々しいだろう記憶だけがある。
そんな恐怖を掘り起こしかねない場所に足を踏み入れているのだから、誰よりも深刻な状態にあることは間違いない。
アギトはそれを危惧しているのだ。
「……もう負けない。もう二度と、あんなやつに負けないし、誰も殺させない」
「……うん、そうだな。その為にいっぱい訓練したもんな」
お前とやったのが役に立つとは思ってないけど。と、ユーゴは少しだけ拗ねた顔になってそう言った。
うん……わずかだけでも気を落ち着けられたのかな。
もしかしたら、アギトはそれを狙っていたのかもしれない。
そういう気回しはジャンセンさんに似ている。
そしてまたしばらくの間沈黙が続いて、次にそれを打ち破ったのはミラが天井を……座っている床を叩く音だった。
何かの合図……魔獣の出現か、あるいは……
「……っ。こんなにも短かった……のですね。あの時にはどこまでも続く林のようにさえ思えたと言うのに……」
覗き窓から前を眺めれば、林の切れ目が……日の光が強く差し込む場所が見え始めていた。となれば……
「待ち伏せがあるならミラが気付いてる。気付けないとしたら……転移の魔法でいきなり襲われるパターンか」
「それでも、アイツなら瞬きより早くに気付いて対処してくれる」
「それがまるで誇張表現に聞こえないところが、今はとにかく頼もしいばかりです」
「アギト、貴方も十分に警戒を。ミラもユーゴもいますが、同時に私と貴方は今現在はまったく戦力にならない存在です」
「私達が気を抜けば、負担はすべてふたりに行ってしまいます」
なんとも間抜けで情けない注意をしたものだ。
アギトもそれには苦い顔を浮かべて、しかし同時に、とっくに理解していた……と、そんな覚悟のこもった眼差しを天井へと向ける姿も見せた。
そうだ。気を張れ、しっかりしろ。
私はあの時、ただユーゴの足を引っ張るばかりだった。
そしてそれは、今だってきっと変わっていない。
私には力が無い。私には戦いから逃れ続ける膂力も無い。生き残る技術も、逃げ残る体力も無いのだ。
私には何も無い。それでも、こうして前に出てユーゴのそばにいることを選んだのだから。
せめて気を張って、彼の言う守りやすい振る舞いをし続ける覚悟を。
「……林を抜けます。ユーゴ、いつでも飛び出せるように準備を」
そして、馬車は遂に明るい場所へと飛び出した。
その一瞬に、身体が硬直する。
あの時の恐怖から、まるで呪いでも掛けられたかのように身体が重くなる。
けれど……
必死になって首を伸ばして――逃げようとばかりして縮こまっていた身体を必死に伸ばして、私は覗き窓の外の景色を見た。
そこには……魔獣の姿も魔女の姿も無く、ミラが攻撃を開始した様子も見られない。
「……待ち伏せは無い……ようですね。では……」
「……そうですね。やっぱり、待たれてるわけは無かった……か」
やっぱり……?
ひとまずの安全を確認すると、私はほっと胸を撫で下ろした。
しかし……それとはまったく別の反応を見せた人物がいた。それは、アギトだった。
彼は更に緊張を強めた様子で、拳をぎゅっと握り締めて窓の外を睨み付けている。そして……
「……? 止まった……ミラの指示でしょうか。確かに、調査をするのならばここで足を止める必要もあるでしょうが……っ! あ、アギト! 待ってください!」
それから少しして、馬車がゆっくりと停止したのが分かった。
するとすぐに、アギトは険しい顔のまま馬車の外へと飛び出して行ってしまった。
私もユーゴもすぐにそれを追って、あの時の戦いの痕跡の残る地面へと足を降ろす。
ボコボコとそこら中がへこんでいるのに、あの時倒し続けた魔獣の死骸などはどこにも残っていない。
自然に還るにはまだ時間が短過ぎる。なら……やはり、あの魔女が片付けた……のだろうが……
「……ミラ、頼めるか」
「任せなさイ。そういう話だったんだかラ」
馬車から飛び出たアギトは、そのままどこかへ向かうでもなく、天井からするんと降りてきたミラの隣へと駆け付けていた。
そして……彼女に何かを頼んでいるらしい……のだが……
「……あの、ふたりとも。もしや、何か策があるのですか? 魔女の居場所を探し出すのに、決定的な手段がある……とか……」
「……そうネ。たぶん、一瞬で見付かるでしょウ。もっとも、こっちが向こうを見付けた時には……」
ミラはそこまで口にして、その後を語らずに大きく息を吸った。
そうだ、そうだった。
魔術によって探知を仕掛ければ、魔術に長けた魔女からも当然こちらの意図を簡単に読み取られてしまう。
こちらが向こうの居場所を知る頃には、向こうもこちらの居場所を特定出来てしまう……と、林の調査に出向いた際に、ミラはそう説明してくれていた。
では……では、もしや……っ。
この場所を選んだのは、探知を仕掛けた人間を魔女が特定しやすいように――私達がリベンジにやって来たことを意図的に伝える為に――――
「――――全部私が照らし出す――触れられざる雷雲――――ッッ!」
バチィ――と、ミラの身体が一瞬だけ光を纏って、普段見せる雷魔術同様に何かが焦げたニオイが鼻に届いた。
今の言霊は……やはり、探知の魔術式だ。
だが――だが、いつか魔獣の巣を探ったのとは根底から違う、とてつもない魔力が込められていることが、今の私ですらも見て分かった。
その魔術は間違いなく広範囲を――超広範囲を、魔女の住む場所までをも射程に捉えた範囲を一瞬で探知するだろう。そんな確信があった。
そして――それはすぐに証明され――――
「――ミラ――ッ!」
「――――篠突く雷霆――――ッ!」
先ほどまで青空が映っていた視界には、真っ黒な雲が――いいや、巨大な魔獣の群れが降り注いでいた。
あの時とまったく同じだ。
魔女は私達の存在に気付き、攻撃を仕掛けて来ている。
魔獣を生き物としてではなく、ただ質量の大きな物体として――私達を諸共に圧し潰す物として頭上に出現させた。
だが――
私がそれを目にした瞬間には、すべてが真っ黒になってしまっていた。
そう、真っ黒に――わずかな間もおかずにすべてが焼け焦げて――そして、落下の直前には粉々に砕けてしまった。
私達を襲ったのは、焦げ臭いニオイとやや熱を持った灰ばかりだった。
あれだけの質量の生物を一瞬で炭化させるほどの威力が今の魔術にはあった……のだと、それを結果から推して知ることしか、私には……
「――ユーゴ! フィリアとアギトを守ってなさイ!」
「――っ。うるさい! 言われなくてもやるし、それだって全部俺が――」
また魔獣が現れる。
前回を思えば、それが当然だと思った。
そして……それはやはり現実となった。
だが……
ユーゴは言葉を失った。
現れた魔獣も自分が倒す、私とアギトと後方の部隊の防御もひとりでこなす。と、ミラに対抗してそう言いかけた彼が、息を飲んでその光景に圧倒されていた。
「――――百頭の龍雷――――ッッ!」
私達は視界を失った。
まばゆい光に――圧倒的な熱量を伴う電光に遮られ、まるで世界そのものが真っ白に塗り潰されてしまったようだった。
そして、次に私達が世界を認識した時には、結果だけが取り残されていた。
眼前には焼け焦げて真っ黒になった地面と、それから黒い煤のようなものが――焼き滅ぼされた魔獣の、残骸すら残らぬ最期が風に舞う景色と――そして……
「――――これが天の勇者――――ミラ=ハークス――――」
まだ全身に青白い雷光を纏ったまま、堂々と立っているその背中だけがそこにはあった。
全力を見せていない。と、そう聞いていた。
それを知ったつもりになっていた。
けれど……認識はずいぶんと甘かったらしい。
ミラはあの時の――魔女と競り合った時のユーゴよりもずっとずっと早く、圧倒的に、現れた魔獣の群れを全滅させてしまっていた。
世界すらも救う力とはこういうものだ。と、見せ付けられた気分だった。




