第三百四十話【断たれた道】
出発の準備は整った。
まだ少しだけ眠たそうだが、ミラも今朝は早くに目を覚ましてくれた。
いえ、その、一番危険な戦いを強いられるであろう彼女がまだふらふらしているのは、考え得る中でもっとも大きな不安要素なのですが。
けれど……
「……それでは、出発しましょう」
「目的地は……ありません。今回の目的は、無貌の魔女との再戦を……そして、勝利を手にすることです」
捜索可能範囲は限られる。そして、その中に魔女がいるとは限らない。
ゆえに、この遠征には終わりが無い。これもまた、あの時と同じだ。
進めるところまで進んで、暗くなる前には帰還する。
この先には街が無いと……まだ遠いアルドイブラまで行かねば拠点に出来そうな場所は無いと、マリアノさんが調べてくれた通りならば。
「女王陛下。部隊列の編成ですが、やはり御身はもう少し下がられた方がよろしいかと。ミラ=ハークスの護衛があるとは言え、最前線は危険が過ぎます」
では。と、馬車に乗り込み始めた私に声を掛けたのは、部隊の実質の指揮権を持っている部隊長ヘインスだった。
最前線に私がいたのでは、何かあった時に駆け付けるのが遅れてしまいかねない。と、彼はそのことを危惧しているようだ。だが……
「……いえ、私は一番前に。皆には苦労を掛けてしまうかもしれませんが、これは譲れません」
私が下がればユーゴも下がらざるを得ない。
いつか、ジャンセンさんは言っていた。ユーゴには強過ぎる責任感と真面目過ぎる正義感がある。
だから、緊急時まで冷静さを保つ為にも、後方で控えた方が良いだろう、と。
そう言った上で、あの方はユーゴと私を一番前へと配置した。
それがマリアノさんの提案だったから……だけではない筈だ。
彼もまた、そのことに意義を感じたから。
編成上の都合だけではなく、彼の成長――進化に必要なものが、そうすることで手に入ると考えたから……である筈だ。
「それに、下がれば安全というものでもありませんから」
「前回の遠征の折、より早くから被害が出たのは部隊の後方でした。もちろん、前部に戦力を集中していたから……というのもあるでしょう。ですが……」
ゴートマンはあの時、部隊が折り返す瞬間を狙っていた。
今回も同じことを……とは限らなくても、あちらにはこちらの弱点を狙う意思が確かに存在したのだ。
ならば、私がどこにいようとも基本的には関係無いだろう。
考えるべきは、私のそばに誰がいるのか、だ。
「ミラは力の底をまだ見せていませんし、部隊そのものが以前よりも縮小しているわけですから。狙うとすれば、直接私のいるところを目指すでしょう」
「ならば、そこへユーゴとミラを配置し、迎撃することが出来れば……」
もしもあのゴートマン以外にも魔人がいたとして、それによって以前のように魔女のもとへと誘導されそうになったとしても、だ。
縮小した部隊の数少ない利点である連絡の容易さも相まって、罠に掛けられる可能性は低いだろう。
「……と、そういう建前は準備してきました。不服かもしれませんが、これで納得してください」
「……はっ。陛下のご意向とあらば」
そう、建前だ。これらはすべて、私の思惑通りにものごとが進行した場合の理想論。
そういった計画と理論があった上で、部隊を編成したのだ……という建前。
現実にはただのわがままだとしても、それがあるのならばヘインスも引き下がらざるを得ない。
少しだけ苦い顔をされてしまったが、もうそれ以上追及されたり、粗を突かれたりはしなかった。
彼もまた私の考えを理解してくれたようだ。
「それでは出発します。皆、くれぐれも周囲に注意してください」
「この近辺には魔獣の姿が無いことは確認済みですが、それですべてが安全というわけでもありません」
「敵は前兆も無く魔獣を呼び出す術を持っていますから、ミラもユーゴも反応出来ないタイミング、場所に、攻撃を仕掛けてくるものだと警戒していてください」
私からの注意勧告など必要無かっただろうが、騎士達は気迫のこもった返事をしてくれた。
そして先頭の馬車は――私達の乗る馬車はゆっくりと進み始める。
目的地は……無い。無いが、ひとまず目指すべき地点はある。
捜索範囲を大きく広げる前に、まず確認すべき場所が。
「このまま真っ直ぐ……ここです。この地点で、私達は濁流によって退路を断たれました。それからこちらへと誘導されて……」
揺れる馬車の中で地図を広げて、私はアギトとミラにあの時のことを説明し始めた。
もちろん、出発前にも伝えてある。だが、再確認と再認識は欠かせないものだ。
走り出した実感があるのと無いのとでは、想像出来るものごとにも違いが出るだろう。
「おそらくですが、ここをまっすぐに進んだ先……いえ、戻った先と言うべきでしょうか。この河川へ細工をして、道を塞いだものと思われます」
「ですが、今日は雨天だったあの時とは違います。濁流による攻撃は難しいでしょう」
「……そうネ。たとえ魔術師、錬金術師がいたとしても、川を増水させる……水を増やすなんて芸当は出来っこなイ。それは魔法の領域だワ」
雷は良くて水はダメなんだな。と、ミラの言葉に首を傾げたのは、普段からその力を目にしているであろうアギトと、その隣で怪訝な顔をしているユーゴだった。
その……言わんとすることは分かりますが、今はそこを気にしている場合では……
「――そう、魔術師には無理ヨ。でも、魔女に不可能があるかどうかは分からないワ」
「その時もそいつが直接細工をしたのか、それともゴートマンのように力を分け与えられた魔人が何かやったのかは知らないケド」
「どっちにせよ、まったく無いなんて考えるのは止すべきネ」
「……っ。そう……ですね。相手はこちらの常識を遥かに逸脱した存在であると、その認識は強めておきましょう」
っ。いけない。警戒しろ、注意しろと先ほど指示を出したばかりの私が、一番油断してはならない存在に対して警戒を緩めそうになっていた。
そうだ、相手はあの無貌の魔女だ。
もちろん、すぐに出張って来るとも限らない。限らないが……同時に、ここへ足を踏み入れた瞬間を狙って来ないとも限らない。
いつ現れるかも分からない以上、どこからでも魔女の攻撃があると想定すべきだろう。
「では、特に後方への……上流への警戒を強めたまま、あの時と同じ道順を進みます」
「もっとも、あの時の流れの所為で地形が変わっているでしょうから、馬車では向こう側へと渡れないでしょう。ですので……」
皮肉なことに、あの時はどうにかして濁流を越えて渡りたかったこちら側から、あの時走っていた向こう側へと渡るすべが無い。
馬車という乗り物の特性上、大きな段差は越えられない。
だが、あの場所へは――かつて誘導されて罠に掛けられたあの林の向こうへは、濁流の跡を挟んでどちら側を走っていても到着することが出来る。
全滅を免れてもう一度があったとしても、あの場所を経由しなければならないように出来ていたのだ。
「この場所にまたあの魔女がいるとも限りません。ですが……あの近辺をミラが調査すれば、必ず手掛かりが見付かる筈です」
「激しい戦闘があったわけですから、魔女のやっていたことの断片的な情報だけでも手に入れば……」
「任せテ。魔法だって言っても、結局はマナを活用した特大規模の魔術なんだかラ」
「現実的には不可能ってだけで、とっくにその理屈は解明されてるんだもノ。痕跡さえ手に入れば、対処のしようもあるワ」
どうしようもないくらい頼もしいな、ミラは。
あの時はユーゴひとりにずいぶん依存してしまっていたが、今は彼女にも手を貸して貰えている。その事実がとてつもなく心強い。
馬車はしばらく進み、そして急激に向きを変え始める。
あの時濁流にのみ込まれた地点が迫っているのだ。
「――おい、見えたぞ。もう水は引いてる……けど……」
報せをくれたのは、覗き窓から外をじっと睨んでいたユーゴだった。
見えた……とは、やはりあの濁流の跡――魔人の集いからの攻撃意思の痕跡だろう。
彼の言葉に急いで私も窓へと向かえば、そこにはたしかに干上がった深い川のような、横に長く続く穴が見えた。
想定していたが、やはりこれを馬車で乗り越えるのは難しい。
「……ミラ、周囲に警戒をお願いします。私達はこの先で……誘導された危険地帯で、多くの魔獣に襲われ、そして……」
「……魔女に迎え討たれタ。大丈夫、もう二度とそんな真似させないかラ。私がいる以上、罠だの謀略だのが通じると思わないことヨ」
冷や汗が止まらない。
こうしてもう一度目の当たりにすると、あの時の濁流がやはり人間業ではないことを――ただの工事によって引き起こされたものではないと思い知る。
こんなにも地面が抉れるほどの水量をどうにか出来るなどとは……やはり……っ。
だが、それでも希望はある。
私の頼みにこくんと頷いて、そしてそのままするんと馬車の外へと――窓から乗り出してそのまま屋根の上へと登って行った小さな勇者こそが、魔女を討ち破り得る最大の切り札だ。
「……ユーゴ。貴方も警戒を」
「確かに、今の貴方はまだあの時ほどの強さを取り戻していません。それに……魔女を前にすれば、もう一度進化の余地をはく奪される可能性も考えられます。ですが……」
「無い。次は俺が勝って全部終わりになる。もう二度と……っ」
「アイツだけは絶対ボコボコにする。絶対、俺が勝つ」
そんなミラへの信頼と同時に、かつてあった最大の切り札への不安が……ユーゴの精神への懸念が胸に渦を巻く。
彼は一度心を折られている。
もう一度向き合った時、それがどうなるかなど……
馬車は完全に向きを変えて、またあの林を目掛けてまっすぐに進み始めた。
今のところ、交戦の報告は上がっていない。魔獣は現れていない、危険は迫っていない。
だが……




