第三百三十九話【晴れた朝】
起きた時にそばにいないと心配されるから。と、アギトはそう言って私よりも少しだけ早く部屋に戻った。
そしてまた、私はひとりぼっちになってしまったわけだが……しかし、もう寂しさや不安は、正気でいられなくなるほどひどくはなかった。
もう星は見えない。
太陽のもっと強い光に照らされて、空は白くなって星を映し出せなくなってしまっている。
そろそろ私も戻らないと、心配性なのはミラだけではないのだから。
「……きっと大丈夫。あの時よりも、もっともっと多くを知って、それに備えて来ているのですから」
ぎゅっとこぶしを握って、私はそんなことをひとりで呟いた。
そうだ、備えて来たのだ。
とんでもない理不尽があると、今度はそれをしっかりと理解した上で備えた。
たとえ万全ではなかったとしても、何も知らずに飛び込んでしまったあの時とは違う。
あの時にはいなかった、魔女というものを知っている心強い味方もいる。だから、大丈夫。
想いを胸に階段を下りて、自分の部屋へ……かつてジャンセンさんが使っていた部屋へと戻る。
その途中……
「――フィリア! 今までどこにいた!」
「……ユーゴ……? も、もうそんな時間でしたか……」
質問に答えろ! と、ずいぶん焦った様子でまくしたてるユーゴと、部屋へ向かう廊下で鉢合わせになった。
少し遅かったか。起きた時には隣にいるから、いつ頃やって来ているのかを把握し切れていなかった……
「すみません。夜風に当たって気分を休めていました。その……やはり、不安だったものですから」
「……っ。アホ! このバカ! デブ! 考え無し! デブ!」
デ……その、体型は今関係ありませんよね……?
どうしてそんな悪口ばかりを……と、傷心したのも束の間。
ユーゴはほっとした顔になって、それでもまだ怒っているぞと言わんばかりに私の腕を叩いた。
「シャキッとしろ、このアホ。不安なんて必要無い。俺があの魔女に勝って終わりなんだから」
「……はい、そうですね。貴方もいて、アギトもミラもいる。心配するところなどどこにもありませんでした」
チビとアギトは関係無い。と、ユーゴはまたむすっとした顔に戻ってしまったけれど……もう、あまり怒っていないようだ。
いえ、まだ少しは腹に据えかねることがあるようですが。
「……それで、もう大丈夫なのか。今更不安になるようなことも無いだろうけど、それでもなっちゃったんだろ」
「図々しいし図太いし鈍感でまぬけなのに、微妙にビビりだよな、フィリアは」
「う……心配してくれているのか、それともバカにしたいだけなのか、判断に困るようなことを言わないでください……」
誰が心配なんてするか。と、また更に悪態をつかれたから……きっと本当に心配してくれていたのだろうな。
いや、そうでなければ毎朝様子を見に来たりしないだろうし、こんなに慌てて探し回ったりもしないだろう。
私は本当に良い出会いをした。
人に恵まれる天運に味方されているのだな。と、いつもいつもこんなユーゴの姿を見る度に思ってきたが……今朝ばかりは少しだけ違う。
「……見張り台で、アギトと少しだけ話をしたのです。調査に出発する直前、貴方とどうして喧嘩になったのか、と」
「……別に喧嘩なんてしてない。アイツがアホだったから、付き合い切れなくなってただけだ」
それを喧嘩と呼ぶのですよ、もう。
けれど……やはりユーゴもその一件は気にしていたようで、怒っている顔も安心した顔もどこかへ行って、少しだけ心配そうな顔になってしまった。
「聞きました。アギトは貴方に対して、元の世界で死んで欲しくなかった……生きていて欲しかった。と、そう言ったそうですね」
「……そうだよ。意味分かんないよな。あっちで生きてたら、俺はここにいないのに。そしたら、そもそも会うことも無かったのに」
そう……なのだよな。
私は今まで、ユーゴに出会えたことに何度も感謝して来た。
けれど……それはつまり、彼の死を――もうひとりのユーゴの最期を喜んでいた……とも捉えられるだろう。
アギトはその在り方を、矛盾したものだと思ったのだ。
この視点は彼でしか持てないものだっただろう。
この世界ともうひとつの世界とを……両方を現在も見続けている彼だからこそ得られた答えなのだ。
「……私は……貴方がこの世界に来て下さったことを、心から嬉しく思っています」
「力があるから……戦ってくれるからではありません。貴方のように素直で、それに……弱い人を守ろうと奮い立てる、そんな素晴らしい人物が手を取ってくれたから、です」
いきなりなんだよ。と、ユーゴはどこか照れくさそうに顔を背けた。
いきなり……ではない。私はずっと感謝して来た。
ずっとずっと……ずっと……ユーゴの死を、喜んでいた……のだ。
「……それでも、やはり……もうひとつの世界で貴方が死んでしまったという事実は、喜ぶべきものではないと思うのです」
「そしてそれは、その世界で今も生きているアギトならばなおさら強く思うでしょう。だから……」
「……なんだよ、そんな話か。別に、そのくらい分かってるよ」
アギトには本当に悪意が無かった。
そのことを私からも念押ししておこうと、その為だけの話ではなかった……が、どうやらそう捉えられてしまったようだ。
ユーゴは私の言葉に、がっかりした顔でため息をついた。
今朝は少し慌てたからか、感情が表に出やすくなっているな。
それを差し引いても、大きな落胆があったらしいけれど。
「アイツがそういうの考えて発言出来るなんて思ってないし、そこはもうどうでもいい。思ったこと全部口に出るからな、特に深く考えずに言っただけだろ」
「……ミラもそうですが、どうにもアギトへの当たりがきつくはないですか……?」
「彼とて思案に暮れることはあるでしょうし、貴方と喧嘩をした後には、ひどく考え込んでいた様子で……」
ユーゴは私の言葉を遮って、どうでもいいよと言わんばかりに手を払った。
もう仲直りはしたのだから、今更蒸し返されたくない……ということならば、私もあまり踏み込まない方が良いのだろうが……
「っていうか、そんなことばっかり考えてんなよ。これから遠征に出て、またアイツが出てくるかもしれないってのに」
「まあ、お前がどれだけボケてても関係無いけど。俺が勝って終わりだし」
「……そうですね。今考えるべきは、もう過ぎたことではありませんでした」
ちゃんとしろ。と、今朝だけでももう二度目のお叱りを受けると、私はユーゴに連れられて部屋へと向かい始めた。
あの……いえ、案内して貰わなくとも迷ったりしませんから……
「荷物の準備とか、どうせ何もやってないだろ。リリィから言われてるからな、出掛けた時にはちゃんと面倒見ろって」
「っ⁈」
い、いつから私はおもりが必要な子供だと思われていたのだろう……
アギトと話をしてずいぶん落ち着いた心に、また別の余計な感情が根付き始める。
パールもリリィも、最近は私も真面目に働いていると見て知っている筈なのに……
そして、私達はまた荷物を再確認すると、少しの気晴らしも兼ねて砦を後にした。
と言っても、遠くへ行くほどの時間は無い。
ここから近く……大きな市場を開いて、フーリスとヨロク、それにカストル・アポリアまで巻き込んだ経済を……と、いつかジャンセンさんが語っていた広場へと向かった。
「……一応、人はまだ住んでるっぽいな。ってことは、あの魔女はまっすぐ俺達を追って来てたのかな。だとしたら……」
「カストル・アポリアが無事である可能性は高い……ですね」
「この街には攻撃する明確な理由が……私達の拠点があってなお、こうして無事だったわけですから」
「ゴートマンと一度接触したというだけのあの場所ならば……」
誰かがいたわけではないが、少しだけ片付けられていることが……最後にここを訪れたあの日と、わずかだけでも景色が違うことが、いくらかの勇気を私達に与えてくれる。
あの魔女には何かしらの制約が……行動範囲なのか、行動そのものなのか、何かは分からないが、制約が存在するのだろう。
手当たり次第にすべてを壊す……という行為には至っていない。
それは、このダーンフールを見れば明らかだ。
それがどうしても変えられないものなのか、ただのこだわりなのかは分からない。
分からないが……少なくとも、付け入る隙がそこにはきっとある筈だ。
このことはアギトとミラにも伝えておこう。
もちろん、ヘインスやほかの騎士達にも。
そんな話をしながら砦へと戻ると、そこにはもう出発準備を始めてくれている皆の姿があった。
後は私達が戻り、ミラが起きて来て、そして出発の号令を私が下せば、その瞬間から遠征は開始されるだろう。
行けば戻れるかも分からない。
あるいはあの時よりももっと悲惨な結末を迎えるかもしれない、最悪の行軍だ。
それでも、雨は降っていなかった。
あの時を思わせる冷たくて暗い雨は、空にも、胸の奥にも、どこにも降っていない。




