第三百三十八話【星を見上げる場所】
目が覚めたのは、まだ外も真っ暗な夜遅くのことだった。
今朝はまだユーゴの姿も部屋の中に無い。
私がひとりで、不安に駆られて勝手に起きて来ただけだ。
「……あの時よりは遅い時間……でしょうか。それでも……」
窓からはほんのわずかにだけ月明かりが射し込んでいる。
それに照らされた壁や床が、他よりも少しだけ白く輝いて見える。
ああ、あの時と一緒だ。
以前にここを利用した時……ジャンセンさん達と共に北へ遠征へ出発する前日の夜と。
「――っ」
怖い。
その思いだけが胸の中を埋め尽くした。
また敗北することが――すべてを失うことが怖い。
アギトもミラも、体調に不良があるから引き返そう。などとは言い出さなかった。言い出せなかったのだろう。
今更自分勝手なことは言えない……なんてくだらない意味ではない。
どれだけの不調があったとしても、待ってこの機を見過ごすことだけは避けなければならない……と。
ならば、ふたりは本当に魔女を探し出すまで遠征を続けるだろう。
あるいはミラならば、見付けるのにもそう時間を掛けないかもしれない。
だから……もしかしたら、今日の内には――あの時と同じように、こんな月夜が明けてすぐに、あの絶望の塊のような不条理と向き合わなければならないかもしれないのだ。
「……は――っ……は――っ……」
息が切れる。
何もしていないのに心臓が逸って、手足がじんじんと痺れ始める。
緊張と不安が、私を内側から食い破ろうとしているみたいだった。
誰か。誰か助けてください。と、そんな泣き言を呟きそうになった。
誰でも良い、こんな不安を蹴散らしてくれ、と。
ジャンセンさんの顔が浮かんだ。けれど、あの方はもう私の手を取ってくれない。
マリアノさんの声が浮かんだ。けれど、あの方はもう私を鼓舞してくれない。
バスカーク伯爵の背中が浮かんだ。けれど、あの方はもう私を導いてはくれない。
大勢の仲間達の姿が――いつか見た、雄々しい軍勢の景色が浮かんだ。
けれど……もう、誰も私の後には付いて来てくれない。
「――ユーゴ……っ。私は……私は貴方まで……」
ユーゴまでいなくなってしまったらどうしよう。
そんな恐怖が湧き出て来たと思えば、目頭がジワリと熱くなって、止めようも無いほどの涙がこぼれだした。
もう、ユーゴにはあの時の強さは無い。
能力の成長、進化具合だけの話ではない。彼にはもう、誰にも負けないという自信が――無敵であることを譲らない心の強さが無い。
今のユーゴは、あの時のユーゴよりも強くはなれない。
彼はもう、敵だけと戦えば良いというわけではなくなってしまったから。
彼は自らの死とも――大勢の死とも向き合い、戦い、乗り越えなければならなくなってしまったから。
耐えられない。
このままひとりで暗い部屋にいたのでは、とてもではないが夜明けなど待っていられない。
誰か。誰か助けてください。
私はそんなひとり言を必死に飲み込んで、わずかでも明るい場所を目指した。
部屋の中にいてはダメだ、気が狂ってしまう。
ひとりぼっちではダメだ、圧し潰されてしまう。
私は――あの頃とは違う、自分が弱いことを思い出してしまった私には――――
「――? ジャンセン――さん――?」
かつん。と、足音が聞こえた。
それがジャンセンさんのものである筈は無いとは初めから分かっていた。けれど……
どうしてかあの方の名を呼んでいた。
そして……その音のする方へと、この恐怖から逃げるように急ぎ足で向かった。
たしかに聞こえた。たしかに足音だった。
たしかにそれは、この先へ――上へ、階段を上って更に上へ。
一番上――砦の見張り台へ――――あの晩、ジャンセンさんと星を見上げたあの場所へ向かって――
「――――ジャンセンさん――――ッ!」
階段を上り切って、私はどこか興奮しながらあの方の名を呼んだ。
けれど……返事は無かった。
いる筈が無い。ジャンセンさんはもういない、もう二度と私の前には表れない。そんなことは分かっている。
分かっていても……縋らずにはいられなかった。
そこに人影を見付けた。見張り台の壁にもたれかかって座っている少年の姿を。
そんな様子に、私は心から落胆し、同時に安堵した。
ジャンセンさんがいなかったことにがっかりして……そして……
「こ、こんばんは……女王……さま……」
「……アギトだったのですね」
すみません、起こしてしまいましたか……? と、申し訳無さそうに頭を下げるアギトの姿に――誰かがいてくれたことに、まだ私には手を差し伸べてくれる人がいることに、私は心の底から安堵していた。
「……ふふ。呼びにくいのなら、フィリアで構わないと言っているではありませんか」
「えっ……だ、だって……いえ……その……こほん。ふぃ…………ふぃふぃふぃ……フィリア……さん……」
はい。と、私が返事をすると、アギトはどこか嬉しそうな顔になって、けれどすぐに目を背けてしまった。
まだ呼び慣れない――異国の王を相手に名を呼ぶなど、まだ緊張するのだろうか。
けれど……ようやく、アギトもミラと同じところまで近付いてくれた気がした。
いえ、あの子は初めから至近距離にいた気もしますが。
「眠れなかったのですか? それとも、私と同じように目が覚めてしまいましたか?」
「フィリアさんも……ですか。はい……ちょっと……いえ、だいぶ。緊張しちゃって、すぐ起きちゃって」
「これが二日目だったら、今頃ぐっすりなんですけど……」
二日目? と、私が首を傾げると、アギトは少しだけ慌てた様子で説明を……いつかも少しだけ聞いた話の補足を始めてくれた。
二日置きにこの世界ともうひとつの世界とを行ったり来たりしているという、その仕組みを。
「こっちの世界で二日が経過すると、向こうの世界で目が覚めるんです」
「でもそれは、向こうでも二日後ってわけじゃなくて、向こうで眠ったその次の朝に繋がってるんですよ」
そして、向こうの世界でも同じように二日を過ごし、その晩に眠りに就くと、こちらでも一晩が経過した朝に目を覚ます。と、アギトはそう言って……何故か少しだけ困った顔になって、本当にあってるのかな……などと呟き始めた。
ど、どうして貴方がそこを理解していないのですか……
「……えっと、なので……昨日は一日目、今日は二日目。なので、今日この後帰って来て布団に入ると、何があっても起きません。向こうで寝るまでは」
「だから……その辺との兼ね合いで、こっちでも予定を合わせないといけないんですよ」
「たとえば……今日この後寝ずに遠征なんて出ちゃうと、向こうで起きられなくなっちゃうから……」
「……もうひとつの生活がおろそかになってしまう……と。な、なるほど……」
ふたつの生活を並行していると聞いた時点で既に大変なことだとは思っていたが、想像以上に入り組んでいるのだな。
もしかして、出発を急いだのもそれが関係しているのだろうか。
それとも、そこは本当に危機感だけで焦っていた……のかな。
「って、こんな話聞かされても反応に困りますよね。すみません」
「いえいえ、尋ねたのは私ですから。それにしても……やはり、ユーゴとはまったく違うのですね。その……召喚に際した条件付けなどが」
俺はイマイチ分かってないんですけど。と、アギトはやはり困った顔で首を傾げていた。
よくよく考えてみれば、彼は呼ばれただけなのだからな。
ユーゴが召喚屍術について知るわけも無いのと同じように、彼がそれについて詳しい道理も無い。
「……ユーゴは……もうひとつの世界のユーゴは、もう死んじゃってる……んでしたよね。死んじゃったユーゴの精神を、この世界で召喚した……って」
「……はい。私も彼の話を聞いて驚きました」
「貴方達のいたもうひとつの世界は、ここに比べて圧倒的に安全で、平和なものだと」
「なのに……あんなにも幼い少年が死んでしまうことは、ここと変わらないのだ……と」
「それを見せ付けられてしまった気分でした」
ユーゴが死んでしまった原因は聞いていない。
けれど、彼の住んでいた国では、争いに巻き込まれて死んでしまうことは考えられないとは聞いた。
であれば……
病気か、あるいは事故か。
とにかく、不幸が重なった末にその命を終えてしまったのだろう。
その世界の平和を知っているアギトも、ユーゴの誠実さを知っている私も、それが悔しくて……どうしても、憐れまずにはいられないのだ。
「……そのこと……なんです。ユーゴに怒られちゃったの」
「俺……アイツに、死ぬ前に会いたかった……って。死んでなんて欲しくなかったって言っちゃって……」
それは……そうだろう。誰だってそう思う。
特に、アギトはもうひとつの世界でも生きている――もしユーゴがそちらでも生きていれば、出会う可能性だってほんのわずかくらいはあった筈だ。
それなのに……ああ、いや。そう……か。
「……ユーゴは死んじゃったからこそここにいる。ここにいるユーゴは、もうひとつの世界のユーゴの死を前提に成り立ってる」
「だから……そんなとこをひっくり返すようなこと言ったら……やっぱり……」
「……今の自分を否定された……根底から無下にされたと、そう感じてしまった……のですね……」
そうだった……か。これは……ううん、難しい話だな。
少なくとも、どちらにも正義があって、正しい言い分があって……その上で、どうしようもなく噛み合わなかったのだ。
「本当に無神経な……空気の読めないこと言っちゃったって後悔して……してる……んですけど……」
「……? けど……?」
けど。と、アギトは後悔していることを前提に、それ以外にも思うところがあると、言葉を濁しながらそう言った。
そして……決心したように深呼吸をして、すごく寂しい目を私に向けた。
「……けど、やっぱり……どれだけこの世界が素晴らしいところで、この世界に来てからユーゴがどれだけ充実した生活を送ってて、もしも向こうの世界を良く思ってなかったとしても……俺は、もうひとりのユーゴに死んで欲しくなかった」
「たとえそれでこの世界が……この国が救われるきっかけを掴めなかったとしても」
アギトははっきりとそう言い切って……そして、大慌てで頭を下げた。
アンスーリァがどうでもいいってわけじゃないんです! と、今にもどうにかなってしまいそうなほど真っ青な顔で何度も謝罪を繰り返して……
「……いえ、いいえ。貴方の言う通りです。私も同じ思いです」
「こうして出会えたことを喜ばないわけもありませんが……やはり、彼には不幸があって欲しくなかった。優しい彼を知っているからこそ、そう思ってしまいます」
「……っ。そう……なんです。死んでなんて欲しくなかった……そんなの、味わって欲しくなんて……」
アギトは優しいのだな。
他者に対して過剰なほどに気を回してしまう、そういう危うい優しさを持っているのだ。
そんな温かな彼の心に触れているうちに、私は自分の中に不安や恐怖があったことを忘れてしまっていた。
そして……気付けば遠くに朝日が――真っ白な光が現れ始めたのが見える。
出発の時間が――大きな分岐点が迫っている。
私達はこれから、あの魔女と真正面から対峙しなければならない。




