第三百三十五話【気乗りしない出発】
 
次の日の朝、相変わらず日も昇らないうちから私は目を覚ました。
正確には、目を覚まさせられた、だが。
そうだ、やはり今朝もユーゴが私を起こしにやって来ていた。
「……ふわぁ。今日はそれほど急ぐ用事も無いのですから、貴方もゆっくりしたら良いでしょうに……」
「あんまりだらけてるともっと太るぞ。さっさと起きろ」
太――っ⁉ どうして彼はこうも私の心を簡単に蹴り付けるのだろう……
傷心と落胆に眠気などは一瞬で吹き飛んで、私はまだ暗い部屋の中で起き上がった。
ランタンを準備しなければ、荷物の準備も出来ないほど暗いではありませんか……
「……フィリア。アイツ、何考えてると思う?」
「え……? アイツ……ええと……ゴートマンのことでしょうか?」
何を考えているのか……と尋ねられても、私ではとても想像出来ない。
そもそもの価値観や考え方……それに、信じているもの――心の中心にあるものが違い過ぎる。
昨日の尋問を……出来ていたかどうかは別としても、ひとまずその口から語られた言葉だけを考えてみても、何も理解は出来ない。
少なくとも、あの無貌の魔女に対する強い信頼――もはや信仰にすら近しいそれは、何人たりとも揺るがすことなど出来ないのだろう……とくらいは……
「違う、そっちじゃない。アギトの方だ」
「アギト……ですか。それは……ええと……」
うん? ゴートマンではなく、アギトの考えていること……?
それは……昨日彼が口にした通り……なのではないだろうか。
「……たしかに、急な話ですし、特別な根拠が無ければそう安々と提案出来ることでもなかったでしょう」
「しかし、それについては昨日彼自身から……それに、ミラからも説明がありました。貴方だって、それに納得していた風でしたが……」
まともな発想ではない……仕方が無いから、もっと悪くなるよりはマシだから。と、そんな動機による提案だったように思える。
そしてきっと、それ自体はたしかなのだろう。
ユーゴもそんなアギトを、ひとまずは好きにやらせてやろう、と。
調査に出かけられるほど回復するにはまだ時間が掛かりそうだから、その間にもっと練り上げて完璧に近い作戦にしようと、そんなつもりで言ったのだと思っていたが……
「別に、考えが変わったわけじゃないけど」
「でも……そうするしかないからとか、時間が経つともっと危ないからとか、そんな理由だけであんなに急ぐかな……って。チビの方から言い出したならまだしも」
「……それについても、私からでは何も」
「そもそもの話ですが、彼がああして貴方の前に立ちはだかったこと……その上で互角に渡り合ったこと。そんな力があるとはまったく考えていませんでしたし、事情があるにせよ、私達と敵対する形を選ぶとは思いもよりませんでした」
アギトらしくない……と、そう判断するには、私達は彼を知らなさ過ぎる。
あの一件でそれは十分に理解した……つもりだ。
もちろんその上でも、アギトらしい発言、らしくない発言と分けて考えてしまうことも事実だ。
だからこそ、こうして疑問が浮かんだならば、そもそも彼がどんな人物かをもう一度しっかり考えるべきなのかもしれない。
もちろん、アギトだけではない。
ミラも、ユーゴも、それにパールやリリィ……身近にいる、知っていると思っていた相手皆に言えることだろう。
「まあ……それ言い出したらどうしようもないんだけどさ。でも……やっぱり違和感あるんだよな」
「嘘ついてるとしたら分かるけど……嘘つかない範囲で何か誤魔化してそうな感じがする」
「ううん……そうですね。様子がおかしかった……今までにない振る舞いだったことはたしかですから、特別なことをしようとしているのは間違いないのでしょう」
「その特別と言うのが、魔女という強大過ぎる敵に立ち向かう覚悟……だと言われてしまえば、私達からではそれ以上何も……」
考えても答えは出ないし、追及にも意味は無い。
この時点で黙っているのなら、どれだけ問い詰めても語ってはくれないだろう。
誘導尋問を仕掛けようにも、私ではそんな器用なことなど出来ないし、しようにもどこへ誘導すべきかも分からないのだから。
であれば、今は彼の考えを……策を信じてみる他にあるまい。
今日の内には出発を……などと焦った様子があったから、時間を掛けたくないことだけは事実だろう。
「一応、出発出来るように準備はしておきましょう。途中で無理だと判断して中断するのならばいざ知らず、あれだけやる気になっているところへ水を差すのは気が引けます」
「それでアギトのモチベーションが下がってしまったら、これからにも大きく差し支えますし」
「そういうの気にしそうなタイプじゃなさそうだけど……まあ、それがちゃんと分かってないって話だからな」
そもそもの話、あれだけやる気を見せてくれている――この国の安全について本気で考えてくれている、自らの危険を省みずに戦うことを提案してくれているアギトに、本気で報いないなんて選択肢は私には無い。
行くと言うのならば行かせるし、当然付いて行く。
それから少しの間に準備を……物資と、装備と、それからかつてのダーンフール解放に際して使った道路の確認も終えて、ユーゴが部屋を出た頃には、流石に日も昇って部屋の中を照らしていた。
支度を終えて、目も完全に覚めて、ここに至ってみれば胸の奥にずきずきとした痛みが湧き出し始める。
「……っ。はぁ……今度こそ……と、そう思えるだけの準備をしたかったのですが……」
きっと途中で引き返すことになるだろう。と、そんな考えをどこかに潜ませてみても、嫌な汗が止まらなかった。
これから私達は、またしてもこのヨロクから北へと出発する。
そして……きっと、最後にはまたあの無貌の魔女と向き合うことになるだろう。
あの時は――特別隊の皆と遠征に出た時には、その時点で考えられる最大の準備が出来ていた。
足りなかったのは、あまりに理不尽な存在への認知と備えだった。
けれど今は、魔女という不条理な強さを知り、それに対処する為の作戦を……と、ずっと考えて、それが出来たら出発を……と、そう思って調査を進めていたのに……
調査は不完全で、魔女の情報に更新は無く、強いて言えばゴートマンを捕縛したことだけが数少ない前向きな要素だろうか。
とてもではないが、これで出発など……ましてや、もう一度全勢力を投げ打っての戦いなど、無謀もいいところだ。
準備についてはかつてよりもずっと足りていない。
ユーゴの力だけを見ても、魔女と戦うよりも以前の彼にすら追い付けていないというのが現実だ。
それでも……それでも、まったくと言っていいほど希望が見えないわけでもない。
アギトとミラの力は、あるいはかつての特別隊すべてを合わせた力をも凌駕しているかもしれない。
少なくとも、こと戦闘という点においては。
そんな彼らの存在と、それにゴートマン不在という状況を加味すれば、万が一にも魔女が現れたとて、あるいは無事に逃げられるのでは……と…………
「……はあぁ。私がこれでどうするのですか……」
ダメだ……どうしてもネガティブなことばかりを考えてしまっている。
無事に逃げられたからなんなのだ。
それはつまり、あのふたりの協力を以ってしても魔女には勝てなかったというだけではないか。
そんな結果は、もう二度と勝機など見出せないことを意味してしまう。
私は前を向かなければ。
ユーゴの中にもまだ不安はあって、恐怖心と戦いながら、自らの能力を進化させなければならないのだ。
その彼を私が支えなければいけないのに、こんな有様では何も出来ずに終わってしまう。
「――っ」
ぱちん。と、両手で腿を打って、頭の中にある悪い考えをすべて吹き飛ばす……ことが出来たならな。
手のひらも脚もじんじんと痺れているのに、そんな熱など凍り付かせてしまうくらいの冷たい感情が……恐怖心が、頭の中を埋め尽くしていた。
それでも時間は過ぎる、迫って来る。
窓から射していた光が遠くなって、影が短くなり始めた頃のことだった。
「――フィリア、二度寝とかしてないだろうな。チビが起きて来たぞ」
「誰がチビよ、このクソガキ。来たわヨ、フィリア」
こん。と、一度だけドアを叩く音が聞こえてからすぐ、私が返事などをする間も無くユーゴは部屋へと戻って来た。
その後ろからはミラの姿も現れて…………アギトはおろおろした様子でそんなふたりを見ていた。
勝手に入ってはまずいだろうと考えているのだろうか。
うん……そうだな。それは正しいと私も思う……
「アギトはひとりで立って歩くくらいは出来るようになったワ」
「もともとただの疲労と過剰運動の痛みだけだもノ、何日も寝てなきゃいけないようなものじゃなイ。まあ……走らせたら二歩で倒れるでしょうけどネ」
「……そんな状態の人間を連れて、本気で魔女を倒しに行くつもりなのですか……?」
もちろんヨ。と、ミラは自信満々に答えて……ちょっとだけ不安そうな顔をアギトへと向けた。
そんな彼女のしぐさに、むしろアギトの方が胸を張って……きっと虚勢なのだろうが、絶対に大丈夫だと言わんばかりにその場で足踏みをして見せる。
もうすでにふらふらしているのですが……
「お? おっと……っとと。いや、ちょっとまだふらつきますけど、全然大丈夫です。むしろ一日以上の時間を魔女に与える方が危険ですから」
「成長とか進化……は、どうか分かりませんけど、現時点で持ってる力を駆使し始めたら、一日で街ひとつ……いえ、国の三分の一くらいは簡単に滅ぼせる力を持ってます。様子見は悪手にしかなりません」
「……まったく誇張に思えないところが恐ろしいですね」
「たしかに、あの無貌の魔女の見せた力の中でも、魔獣を無尽蔵に呼び出した能力は最も警戒すべきものでしょう」
「ユーゴですら抑えきれなかったものを、街の憲兵がどうにか出来るとは到底思えません」
だからこそ、一刻も早く。と、アギトはまだふらふらしたままなのに、こぶしをぐっと握ってそう言った。
どう見ても頼りないのに……この自信はいったいどこから……
ともかく、準備も出来て人も揃ったのだ。
私達はまた馬車に乗り込み、ヨロクの街を出発した。
目的地は……ダーンフール。
予定の上では、今日の内には行って帰っては来られない、あの砦で一晩を明かすつもりだ。
けれど……そうはなって欲しくない、急がねばならないと分かっていてもまだ時間が欲しい。
と、そんな思いをきっと私だけが胸に秘めて、馬車はゆっくりと進み始める。




