第三百十九話【敵対】
魔王を討ちし者。天の勇者。
その女は――ゴートマンは、間違いなくそう言った。
そしてそれを、私を殺す為のしもべだ、とも。
私はその逸話を知っていた。
その名も、その強さも知っていた。
本人から聞かされたから。ただそれだけの理由で知っていたに過ぎない。
この国にはかの勇者の伝説は存在しない。
外国と通じているのならば、あるいは話くらいは聞いているかもしれないが、しかしこのひっ迫した状況下で、こんな島国まで冒険譚を持ち込む為だけにやって来るものなどありはしない。
その逸話は、その名は、その強さは、私と一部の人間だけが知っている筈だった。
けれど――
「――そんな――まさか、ゴートマンの魔術に――」
記憶を覗かれ、その晴れ晴れしい活躍を――乗り越えてきた数多の苦境を思い出させられたとしたら。
今、私達の目の前には、ゴートマンと、それを守るように立ちはだかるアギトとミラの姿がある。
もはや何を疑うまでもない。
彼らは――今この国において最大戦力であるふたりは、ゴートマンによって使役されてしまっている。
「――――ユーゴ、出て来いよ」
「――っ。お前……」
こんなことが……っ。
打ちひしがれるばかりの私達を前に、アギトはゆっくりと口を開いた。
意を決した……のか、それとももっと他に理由があったのか。
恐怖によって支配されているというのならば、常に怯えた状態であるのかもしれない。
だが……そんな理由などはどうだって良かった。
アギトは一歩だけ前に進み出て、ユーゴの名を呼んだ。
そして、出て来い。と、ただそれだけ。
もしや……ゴートマンによって精神を支配され、感情を増幅されてしまっているのだろうか。
であれば、出発前に起こってしまったユーゴとの不和が、彼の中で些細な問題ではなくなってしまっているのかもしれない。
表情からは何も読み取れない。
いつもはあんなに分かりやすいアギトが、ずっと無表情のままこちらを……いいや、私の隣にいるユーゴを見つめている。
そんな彼の姿に、ユーゴは怯んでしまっていて……
「……はあ。まあ、そうなるよな。こういう展開はショックだもんな、フィクションでも」
「それが現実になったら……受け入れるのには時間が掛かって当然だ」
「っ。現実に……って、お前……何言ってんだよ……っ。なんでそんなやつと一緒にいるんだ。お前……だって……」
アギトの言葉に、振る舞いに、ユーゴはしどろもどろになって、上手く言葉を探せないでいた。
いけない、動揺が大き過ぎる。
今のユーゴにとって――再会を、仲直りを待ち望んでいたユーゴにとって、この別離はあまりにも受け入れ難いものだ。
顔を真っ青にして震えるばかりのユーゴを見て、アギトは返事を待つのをやめた。
出て来い。と、そう言ってからまだ数十秒かもしれないが、このまま待っていてもユーゴは一歩を踏み出すことが出来ないだろう。
それを悟ったようで、彼は肩を竦めて……
「――見えるか、ユーゴ。お前ならコレの意味が分かるよな」
そして、まるで私達を見下すように顔を空へと向けたと思えば、自ら前髪を掻き揚げて、その額を見せ付けた。
そこには、何かの印が……紋章のような記号が記されていた。
まさか……魔術による支配の証だとでも言うのか……っ。
「――――操られたらおでこにMって書かなきゃいけない。そうだろ、ユーゴ――――」
「――っ…………?」
…………あっ。魔術的なものではなく、自分で書いたのですね。
いや、それも当然か。
思い返せば、カストル・アポリアでゴートマンに使役された男――ハミルトンには、あのような模様は浮かび上がっていなかった。
いや、しかし……だ。
アギトはそれを、操られている証だ、と。そしてそれを、自らの意思で刻まなければならないものだとまで口にした。
それはつまり……ハミルトンの時よりももっと強固に支配されてしまっているという意味なのではないだろうか。
「……ちょっと歪んでる気がするけど……」
「鏡見ながら自分で書いたからな、逆になっちゃった。筆記体とか書き慣れて無かったし。あと、直そうと思ったけど油性だった」
…………うん?
なんだろう……その……いいや、分かっている。問題はとても小さなものではない。
アギトは紛れもなくこちらに敵意を向けている。
そして……彼がそうなのだから、その後ろに控えているミラだってそうなのだろう。
この状況は非常にまずい。いいや、良い悪いの話を出来る状況にすらない。
彼らの力量を考えれば、ユーゴがいるとは言え、いつ全滅させられるかも分からないのだ。
それが……なんだかのんきなやり取りがあったからと、気を抜いて良い理由には……
「……ユーゴ、出て来いよ。それで……俺と戦え」
「――っ! アギト……待ってください、どうして貴方とユーゴが争わねばならないのですか! 正気に戻ってください!」
ほんのわずかでも緩んでいた胸が、まるで氷水に浸された糸くずのように縮み上がる。
やはり……っ。
やはり、ゴートマンは私達を倒す為の戦力として、このふたりに目を付けたのだ。
「……俺が……お前と……? なんで、やるだけ無駄だろ。俺の方が強い、そんなのやる前から分かって……」
「――逃げんのか――? また負けるのが怖いから、女王様の後ろに隠れて震えてるのか?」
目一杯の虚勢で平静を保とうとするユーゴに対して、アギトは冷たい目を向けた。
彼らしくない、あまりにも温かみの無い、寂しい目だった。
「……似たような境遇で、同じように守りたいものがある。お前は俺と同じ……だと思ってた」
「でも、違う。決定的に違うところがある」
「ユーゴ。お前だってそのくらい分かるだろ。俺とお前は絶対に相容れないんだって」
アギトは表情を変えないまま、淡々と、そんな冷たいことを言い放った。
嘘だ……と、そう思いたかった。少なくとも、私は。
アギトとユーゴは仲良く出来ると、分かり合えると思った。
似たような境遇なんて言葉では片付けられない、彼らだけに存在する唯一の共通点があった。
それに、人を思い遣る優しさだってそう。
ふたりは絶対に良い友人になれると、私は本気でそう思っていた。
なのに……アギトはそうは思っていなかった……と、そういうこと……なのだろうか……?
「……そうだよ、俺はずっとお前にムカついてた。絶対に許せないって、ずっとずっとそう思ってた……っ」
「……っ。アギト……何故……何故ですか……っ」
「貴方はあんなにもユーゴを気に掛けてくださっていた。ユーゴだって、貴方の優しさが、温かさが本物だと思ったから、心を開いていた」
「それは……わずかな間だとしても、あの時の関係は偽物だったとでも言うのですか……っ」
アギトは私の言葉を受けて、視線をユーゴからこちらへと向けた。そして……涙を流した。
一滴だけながら、初めて彼が感情の起伏を見せたのだ。
それほどまでに大きな感情を……憎しみを、ずっとユーゴに向けていた……なんて。そんな……
「――――ずっと――ずっとずっと羨ましかった――――っっ」
「こんな綺麗なお姉さんと一緒にいて……なんか……めっちゃ信頼もされてて……っ」
「俺も……俺だってそんな風に生きたかった! 綺麗なお姉さんにもてはやされたかった!」
「俺だってもっと、せっかくだからリア充してみたかったんだよぉぉおおおん――――ッッッ!」
「――っ⁈」
そんな……ことは、どうやら無さそうだ。
いえ……その……こほん。
いいや、断定すべきではない。
その……ううん? 少なからず、ユーゴに対して妬ましいという感情はあった……のだろう……な? ええと……
「爆発しろ――っ! 爆発しないなら俺が爆破してやる!」
「いっつもいっつもこんな綺麗な……っ。許せん!」
「この地獄からの使者アギトの目が黒いうちは、そんなおねしょた同人の竿役みたいな人生は絶対に許さねえからな――っっ!」
ええと……?
いけない、アギトの言動がまったく理解出来ない。
これは……その……彼が精神的に動揺し過ぎているから……なのだよな? その……ええっと……
「……申し訳ございません、女王陛下。経緯がどうであれ、アレは我々の不始末です。すぐに片付けますので、もうしばらくお待ちください」
「ヘインス……い、いけませんよ、乱暴は。操られているのだと言うのなら、必ずそれを解く手段がある筈です」
っ。そうだ、こちらが混乱している場合ではない。
どうやらアギトは完全にゴートマンの支配下にある……と、こうなってしまえばもはや誰もが疑わない。
ヘインスはそんな状況に、自らの――ユーザントリア友軍の中の不始末だと、ゆえに自ら解決するのだと名乗り出た。
しかし、待って欲しい。
カストル・アポリアにて、ハミルトンはヴェロウの言葉で正気を取り戻しかけていた。
ならばアギトにも、対話を試みれば……
「問題ありません、殴れば解決します。アギトはアレで頑丈ですし、それ以上に頑固なところがありますから」
「もしも支配が本物なのだとしたら、言葉だけで説得するのは不可能かと」
「は、判断が早過ぎますっ。もう少し手心と言うか……無傷で奪還しようという考えには至らないのですか。大切な仲間でしょう」
今は御身に仇成す害敵です。と、ヘインスはきっぱり言い切って、そして剣を抜いて隊列の一番前へと躍り出た。
ああもう……思い切りが良過ぎる。
それに、剣で斬り付けたら流石に死んでしまいますよ。殴る程度に収めるのではなかったのですか。
「ヘインスさんは退がっててください。今の俺の相手になるのはユーゴだけです」
「……はっ、言うじゃねえか。巫女様の弟子だか嬢ちゃんの連れだか知らねえが、俺はお前が戦ってるとこなんて見たこと無いけどな」
「少なくとも、魔獣を相手に逃げ回ってるとこしか――」
――バヂ――ッ! と、何かが爆ぜる音がして、それからすぐに土煙が上がった。
ヘインスの目の前――足下に、何かが着弾したようだった。
目では追えない、とてつもないエネルギーを持った何かが……
「――魔弾の射手。旅の間も、魔王との戦いの時も、いつだって俺はこいつと戦ってきたんだ。それに……今は他にもある」
アギトは短銃を手にしていなかった。
けれど、どうやらあれと同じ魔術を発射する魔具をどこかに身に付けているようだ……と、そこまでは彼の言葉から推察出来た。
予想出来ていなかったのは――
アギトはシャツをめくりあげ、内側に着ていた革鎧を――宝石や鉱石で彩られた鎧を見せ付ける。
それと同時に、鞄から多量のアクセサリーを――貴金属を取り出し、腕や首、更には脚にまで装着し始める。
「――まさか――これらがすべて――」
「――出て来い、ユーゴ。完全武装と書いてフル・アームドと読む、俺の人生最強の俺が叩き潰してやる」
――魔具――っ。
アギトが全身に纏った小さな装飾品のすべてが、ミラの魔術を内包した小型の兵器だと言うのか。
アギトは紛れもない攻撃の意思を以って、もう一度ユーゴを呼んだ。
避けられないのか……っ。
せっかく友人になれた筈のふたりが、どうしても戦わなければならないのか……っ。
私の願いも、思いも、どこかへ届くことは無い。
アギトはまた冷たい目をユーゴへと向けて、魔具を起動させる言霊を唱えた。




