第三百十八話【最悪の再会】
途方もなく長いように思えた荒れ地を歩いて、私達はいつ以来かも曖昧な林へと到着した。
当然のことながら、誰の目にも気のゆるみは見えない。
全員、この場で何が起こるのかと、強い警戒心をあらわにしている。そんな中でも……
「……ユーゴ、何か感じられますか?」
ユーゴは、今までにここを訪れた際には見せなかった顔を――非常に緊張感のある顔をしていた。
いつどこから何が襲ってくるか分からない。と、そんな面持ちだ。
でも、それは……
ユーゴにとってこの場所は、何かはあるが、危険はひそんでいなさそうな場所、だった。
それは、マリアノさんに襲われた時も、ゴートマンに襲われた時もそうだった。
ユーゴには害意を察知する能力が備わっていた。
だから、この場所に魔獣が存在しないことを、ここへ到着する以前から知っていた。
だが、その能力はすでに……
「……全然、何も分かんないな。前はここに何もいないことが分かってたのに、今は違う。誰かいるのかどうか、何も分かんない」
そう言ったユーゴの表情は、ひどく焦ったものだった。
本来であれば、私の……ここにいる全員の安全を、彼は自らの能力だけで保証出来た。
しかし、今はそれが出来ない。
そのことが歯痒くて、同時に焦燥感をも引き出している。
もしもゴートマンに狙われていたら、今の自分では誰も守れないかもしれない、と。
「大丈夫、貴方は強いです。すべての力を失った筈だったのに、今はミラの模倣によって戦うすべを取り戻している。その事実が、貴方の強さを物語っています」
「貴方は、たとえどれだけの窮地にも、誰かを守りたいと願える強さを持っているのです」
私は本心からそう言ったが、しかしユーゴはその言葉をどう捉えただろう。
彼がこちらを振り返った時に見えた顔は、やや苦い表情だった。
「その強さ、別に今は嬉しくないけどな。守りたいじゃなくて、守れなきゃ意味が無い。フィリアになんかあったら、今度こそ全部おしまいだ」
「それならば、なおのこと心配いりません。貴方はいつだって私を守ってくださいました」
「一度として見捨てられたことはありませんし、一度として期待を裏切られたこともありません」
「たとえ、戦う力のすべてを失っていても。貴方はいつだって私を守ってくださいました」
やはり、まだユーゴには自信が不足している。
かつてあった不遜さとすら捉えられる自信は、今やどこにも存在しない。
本当に守れるのだろうか。
本当に自分は強くなっているだろうか。
本当に、ゴートマンを相手に皆を守り切れるだろうか。
そんな不安が、その小さな背中からにじみ出ている。
しかし、私ではそれをなんともしてあげられない。
私は彼を信じているし、その強さも認めている。
だが……今の彼に必要なものは、他者からの信頼ではなく、自らの力を自分で信じる心なのだろうから。
私達は終始警戒心を強めたまま、ゆっくりと、慎重に、林を奥へと進んで行った。
そう言えば、この林の奥深く――ここを抜けた先の渓谷に、魔獣すら寄り付かなくなる何かがある……と、以前のユーゴはそれを察知していた。
「……ミラの言葉を疑うつもりはありませんが、ここも結界の影響を受けている……だけとは思わない方が良いでしょう」
「魔獣の数が減っていることは確かですが、ここと、ウェリズと、それにナリッド。この三か所に起こっている以上は、ダーンフールとフーリス近郊で起こっているものとは明らかに違うものです」
「……外国から来た何かが、ウェリズの港から入って、ナリッドへ移動して、そこからまた海路でこっちまで来てるかも……って、そういう話だったよな。まあ、それも予想でしかないけど」
特別隊としての調査結果から、私達はそんな予測を立てていた。
もちろん、魔術に対する知識の無い人間ばかりの組織だったから、あれもこれも結界による作用だ……と、ミラから言われてしまえば、きっとそうなのだろうと頷く他に無いかもしれないが。
しかし、今はその答えが分からない。
であれば、一度は出した結論にも、最大限の警戒を向けるべきだろう。
この場においてもっとも悪い可能性は、ゴートマンが出現した上で、渓谷に潜む何かがこちらを認知すること。
つまりはあの時と同じ――魔人の集いと、そして理不尽な異常の両方を同時に相手する事態に陥ることだ。
「……アンスーリァ国王陛下。防御の隊列を組みますので、少しお休みください」
「息も切れ、汗もかかれておられます。高い緊張下での行軍は、通常よりもはるかに気力を消耗しますゆえ」
「え……わ、私はそんなに疲れていませんよ、大丈夫です。このまま進みましょう」
陛下。と、私を諫めるのは、部隊長のヘインスだった。
確かに、息苦しさも冷や汗も自覚している。
だが、この程度ならばまだまだ平気だ。
時間を掛けられないのだから、こんなところで休んでいるわけには……
「……フィリア、一回休め。言うとおりにしろ」
「ユーゴ……貴方まで……っ。私はそんなにも疲れて見えるのでしょうか……」
それは……その……やはり、私の人相が悪いから……ではないだろうか。
不機嫌に見える、不満げに見える、疲れてくたびれて見える。そんな風に思われて、気を遣われているのだとしたら……
「陛下、僭越ながら申し上げます。戦場にて、疲労を自覚することは、もっとも避けるべき状況です」
「疲労や苦境、劣勢を認知した瞬間、人間は自らの持っている能力の半分以上を失います」
「周囲の状況が分からず、敵の強さも想像出来ず、天の勇者を欠いているという強い不安に見舞われている」
「既に私達は、本来発揮出来るであろう能力の四半分ほどしか持ち合わせていない。と、そう自覚し、これ以上の減退を防ぐべきです」
「……っ。そう……ですね。たしかに、私はここへ来てから複数のことを並行して考えるだけの余裕を持ち合わせませんでした」
「そして……それはユーゴにも、皆にも言えること。分かりました、ここで一度休憩にしましょう」
ヘインスは私の決定に小さく頷いて、それからすぐに私を取り囲むように隊列を組み直した。
ああ、なんということだ。そんなにも余裕が無くなっていたのか。と、自らの状態をようやく理解する。
不安、恐怖、懸念。あらゆるものによって、たしかに私の思考は阻害されていた。
それを自覚することが難しくなるくらい、視野が狭くなっていた。
ヘインスが言いたいのは、それを解消しろ……ということだけではない。
それをわずかでも解消し、憂いを減らして欲しい……と。
つまるところ、ユーゴにも、ヘインスら友軍にも、同じことが起こっている。
彼らも視野が狭まり、能力が減退している中で、私を心配することに力を割かせないで欲しい……と、そう言っているのだ。
「……本当に気の利かない人間ですね、私は。ふう……普段から貴方の言っていたことの意味を、今になってようやく理解しました」
「……? 普段からって……間抜けな顔ばっかりしてんな……ってことか?」
いえ、あの……違わないのですが、違います……
ユーゴは普段から、守りやすいようにしていろ。と、そう言っていた。
それは、ふらふらと勝手なことをしないで、心配ごとを増やさずにいろということだった。
これはそのまま、疲れる前に自ら休みを申し出ろ、気を遣わせるな……と、そう読み替えることも可能だろう。
「……我々アンスーリァの軍は、外国への脅威へ対処する機会もわずかしかなく、実戦経験に乏しい部隊でした。貴方達を見ていると、その差が如何に大きいかを痛感します」
「これが、勝つということを、修羅場を乗り越えるということを知っている部隊なのですね」
「お褒めに預かり光栄です、陛下」
「しかしながら、我々とアンスーリァ軍との間には、それほど大きな差はございません。彼らもまた、事態に直面すれば同じことをするでしょう」
おっと。自国の軍を卑下するつもりは無かったが、ヘインスに気を遣わせてしまったか。
しかし、そうだな。国軍にも、特別隊にも、今まで散々助けられてきた。
その能力を過小評価するような発言は、間違っても避けるべきだろう。咎められて当然だ。
「……おい、フィリア。休めとは言ったけど、のんびりしろとは言ってないぞ。気は抜き過ぎるなよ」
「わ、分かっています。大丈夫です、こんな状況では、いくら私でものんきな気持ちではいられません」
本当か? と、ユーゴには懐疑的な顔をされてしまったが、私とて人並みの恐怖心はあるのだから。
どれだけ大勢に守って貰っていても、あのゴートマンの能力を前には――
「――――前方、何か来ます。人……でしょうか。ゆっくりとですが、間違いなくこちらへ向かって歩いて来ています」
びく――と、肩が跳ねた。
ヘインスの言葉に驚いた……ということは、ユーゴの言う通り、私は自覚以上に気を緩めてしまっていたのかもしれない。と、そんなことはどうでも良いのだ。
「人影……ですか。ユーゴ、何か見えますか?」
「……無理、見えない。くそ……こういうのも全部……」
私の頼みに、ユーゴは悔しそうな顔で首を横に振った。
遠くの状況まで見通せる……と、そう思っていた能力も、きっと気配を察知する能力に依存したものだったのだろう。
あるいは、別のものだったとしても、同じように失われてしまっているのか。
なんにせよ、迫って来る人影を、今のユーゴは判別出来ない。
騎士が――普通の人間が視認出来るか出来ないかといった範囲を、彼もまた見えるか見えないかと苦心するばかりのようだ。
「……アギトとミラ……でしょうか。それとも……っ」
ゆっくりとこちらへ進んでくる。とのことだったから、きっとミラではないのだろうな。
あの子ならば、この程度の距離ではこちらを完全に視認するだろうし、見付けたならば大急ぎで合流してくれる筈だ。ならば……っ。
「――久しぶりねぇ――フィリア=ネイ=アンスーリァ――」
「――っ! ゴートマン――っ」
声が聞こえて、騎士達が警戒心を高めて……それからやっと、ユーゴも私もその姿を視認することが出来た。
林の奥から現れたのは、ひとりの女の姿だった。
そして……その姿を、私達は嫌と言うほど覚えている。
人を操る魔人。魔術師、ゴートマン。
「……こうして目の前に姿を現すのは、あの魔術の再使用がまだ可能になっていないから……でしょうか」
「それとも……それが無くとも問題無い……と、そう判断したからでしょうか」
まずい。この状況は非常にまずい。
ゴートマンにこの部隊の誰かを操られてしまったならば、たとえ全滅を避けられたとしても、混乱が起き、同士討ちになり、被害ばかりが増えてゴートマンには逃げられてしまう。
探りを入れるのが目的ではなかった。ただ、虚勢を張りたかったのだ。
こちらはそちらの手の内を知っている。当然、対策も考えている。
そんな風に捉えて貰えたならば儲けもの、程度の浅はかな考えではあるが。
それでも、何もせずにいるよりは……と。
「……そうねぇ。まだしばらくは使えないでしょう」
「お前の察している通り、あの魔術は簡単には使えない。大変な準備をしてからじゃないといけないものなのだから」
「っ。では……誰かを使役することも出来ずに、この人数を敵に回す自信がある……と」
そうねぇ。と、ゴートマンはややのんびりとした語調で私の言葉に――挑発に応えた。
なんだ、どうしたことだ。
この女は以前、私に対して強い強い敵愾心を向けていた筈だ。
そして、それが解消されたとも思えない。
しかし、ゴートマンは私を見ても、私に何を言われても、平気な顔で笑っていた。
余裕があるから……? しかし、魔術を使えないとなれば、この騎士団を相手に立ち回る手段など……
「――っ。もうひとり……いえ、ふたり。こちらへ向かってやって来ます」
「……っ! まさか……皆、警戒を。魔人の集いの仲間かもしれません。あるいは……っ」
まさか――っ。
脳裏をよぎったのは、あの魔女の無貌だった。
目も鼻も口も耳も存在しない、輪郭だけを残して消え去ったあの表情。
まさか、この場所にもアレが――――
「――? いや……あれは……あのふたりは……っ!」
始めに人影に気付いた騎士が、激しい動揺を見せたのが分かった。
そしてそれはすぐに他の騎士へと伝播して、ざわめきと同時に隊列の乱れを生んだ。
いったい何が見えたのだ。どれほどの敵が現れると言うのだ。と、私もユーゴも強い恐怖心と戦いながら、彼らが指差す先を睨み続ける。
そして……その姿がようやく見えた頃…………
「――――え――――? どうして――何故、貴方達が――――」
「――――紹介するわぁ。これが私のしもべ――お前を殺す最強の戦士――――」
女の言葉が耳に届くよりも前に、私は膝を折ってしまった。
そんな、あり得ない。嘘だ。と、誰の声かも分からないくらい小さな嘆きが聞こえた。
ゴートマンの背後から現れ、そしてその前に立ちはだかるように――まるで仲間を守るようにこちらへ顔を向けていたのは――――
「――魔王を討ちし者――天の勇者――っ!」
「フィリア=ネイ――お前を殺すにふさわしい最強のしもべだ――――っ!」
声を荒らげて笑うゴートマンに呼ばれたのは、紛れもなく本物の勇者であった。
剣を携え、風に髪をなびかせて。アギトとミラが私達の前に立ちはだかっていた。




