第三百六話【ところ変わって】
時刻は少し遡り、カンビレッジから女王を乗せた馬車が出発したころ。
アンスーリァ王国北部、ヨロクの街から少し北の樹林でのこと。
「ミーラー。おーい、ミラってば。歩くの早いって。みんながみんなお前みたいにちびっちゃくないんだから、こんな狭いとこすいすい進めないって」
「誰がチビよ、このバカアギト。ぼやいてる暇があったらさっさと歩きなさイ」
調査を依頼されていた少年アギトと勇者ミラは、たったふたりで魔獣の巣食う樹林へと訪れていた。
ヨロクには何かしらの魔術が作用している。
それによって魔獣の生息が難しくなり、安全が保たれている。
魔術師であるミラは女王フィリアにそう説明した。
けれどそれは、魔獣がまったくいない……と言う意味ではない。
「ちょっ……マジで置いてくなって、おーい。ここはまだ魔獣いるんだろ。ひ、ひとりにするなってば」
結界の効力は、その中心から離れれば離れただけ薄くなっていく。
まだこの樹林の近辺では、魔獣の一頭すらも住み付けないほどの効力は発揮されていない。
故に、ふたりはここまでですでに二度魔獣と遭遇していた。
「だーっ、もう。うっさいわね。魔獣程度、私が嗅ぎ分けらんないわけないでしょ。ぶつくさ言ってないでシャキシャキ歩きなさい。アンタはいっつも無駄が多いのよ」
「あっ、こら、ちゃんとこっちの言葉使えって。習うより慣れろって言ったのはお前だろ。こういう時にもサボったら身に付かないぞ」
しかしながら、そんな脅威を目の当たりにしてもなお、ふたりの中には不安や懸念は無かった。
至極単純な理屈だが、彼らはこれまでに何度も何度も――それこそ、魔王を倒して世界を救うという偉業を含め、何度も魔獣を倒してきている。
そんなふたりには、魔獣の脅威などは茶飯事であった。
だが、そんな勇者一行にも気を引き締めるべき敵は存在する。
魔人の集い、ゴートマン。そして、女王より聞かされた無貌の魔女。
魔人の集いという組織とは、ふたりにも覚えがあった。
この地よりはるか離れた故郷、ユーザントリアにて。彼らにはその組織と強い因縁があった。
まだ己を勇者と自覚するよりもずっと前から、勇者として自己を律し始めて以降まで。
彼らの前には、ふたりのゴートマンが現れていたのだ。
ひとりは魔獣を使役する――魔獣を生み出す魔術使いのゴートマン。
魔竜の誕生にまで至り、大勢の魔術師を虐殺した、ミラ=ハークスとの因縁深い男であった。
ひとりは武力を行使するゴートマン。
なんらかの手段によって爆発的な運動能力を備えた、アギトの心に深い傷を残した男であった。
ふたりにとって、魔人の集いという組織は捨て置けないものであった。
自分達の身に襲い掛かった脅威であり、自分の目の届く範囲で大勢を殺した悪党であり、自分達で解決しなければならないと決心した問題だったのだ。
「……はあ。ほら、さっさと追い付きなさイ。待っててあげるかラ」
自分達も知る脅威が、この国でも人々を襲っている。
それを知ったふたりの中には、傍観という選択肢は残っていなかった。
もとより正義感が強く、誰よりも先んじて問題に立ち向かう気質ではあったが、それを加味しても過剰なほどの入れ込みようであった。
他国の問題は、その国の人間が解決しなければ意味が無い、後に続かない。
それを頭で理解しながら、しかし魔人の集いという脅威がどれほどのものかを知っている者として、手を出さずにはいられない。
それが今のふたりの原動力であった。
「ひい、ひい……ふう。相変わらずの体力お化けだな、お前は。こんな歩きにくいとこ、そんなハイペースで進んで……」
「相変わらずなのはアンタのへなちょこ具合デショ。まったく、あんまり他所の国で醜態晒すんじゃないノ。マーリン様の顔に泥を塗るつもリ?」
しかし、そんな苛烈な思いとは別に、ふたりの中には興奮と歓喜と、そして多大な好奇心が渦を巻いていた。
「お前なぁ……はあ。ま、お前がどこで何したって、ちっちゃくて可愛いミラちゃんで済んじゃうからな。それはもうどこでも、誰が相手でも一緒だった」
「忘れてないぞ、初対面でマーリンさんを骨抜きにしたことは」
「あ、アレはアンタが唆したんデショ。私はマーリン様への畏敬の念を一瞬たりとも欠かしたことは無いわ。いつも誰にでも失礼なアンタと違ってネ」
何を隠そう、彼らは根っからの旅人なのだ。
かつては魔王を倒すべく、街から街を歩いて渡り、時に大自然の中で夜を過ごし、数多の景色をその目に焼き付けてきた。
そんな彼らが、異国の見知らぬ風景に喜ばぬ筈が無かった。
空気の匂いすらも違う土地で、ふたりはかつての旅の時にも似た気分を満喫していたのだった。
「……はは。なんか、やっぱりこういうのが肌に合うな」
「宿舎とか準備して貰えて、食事も全部面倒見て貰えて。今の生活に文句なんかあるわけ無いけど……」
「……そうネ。肩が凝るわ、いくらなんでモ」
「勇者としての自覚はいい加減持ったつもりだケド、もてなされるのには慣れないままだもノ」
「こうしてアンタとふたりでぶらぶらしてるくらいがちょうどいいのニ」
ふたりは互いにそんなことを言うと、すぐにニーッと笑ってじゃれ始めた。
いつどこから何が襲うか分からない大自然の真ん中……というのは、ふたりにとっては日常で、その中でも危険を察知する能力を身に付けて来たのだから。
「さーて、それでも仕事はしないとな。ほら、そろそろパパっとアレ使ってくれよ。探知の……結界の……やつ」
「アレならわざわざ歩き回んなくても調べられるだろ。別にそれでサボったってことにはなんないんだから、ちゃちゃっとさ」
何も気負わない、何も恐れない、何も異変は無いそんな状況で、アギトは一足先に仕事へと頭を切り替えた……つもりだった。
いいや、彼が自分に課せられた使命へと思考を巡らせたことは事実だ。
彼が勘違いしていたのは、自分が少女勇者よりも先んじて頭を切り替えた……という点だった。
「……? 何言ってんの、この大バカアギト。使えるわけないデショ、あんな大規模な魔術」
「……へ? あっ……え、もしかして魔力が限界だったか……? よく考えたら、工事の時からめちゃめちゃな魔術連発してたもんな……」
違うわヨ。と、ミラはアギトの言葉がてんで見当違いであると言わんばかりに睨み付けた。
そんな彼女の姿に、少年アギトはなおのこと困惑を深めてしまう。
魔力に問題が無いのなら、どうして、と。
「……はあ。アンタ、ほんっとうに大バカアギトのままなのネ。いろいろあったし、ちょっとくらい成長したかななんて思ってた私がバカだったワ」
「うぐっ……な、なんだよ、もう。魔力切れが理由じゃなかったらなんだよ。お前が魔術を出し渋る時なんて、魔力を節約したい時以外に思い付かないぞ」
少女はまた大きなため息をついて、少年のお腹をぺちぺちと数度叩いた。
もうちょっとしっかり思い出してみろ。今までにも同じ懸念をしていたことはあったぞ。と、そう言いたげに。
「相手も魔術師……それに、魔女までいるのヨ。あんな魔術使えば、こっちからも向こうの居場所を見つけられるでしょうが、向こうからもこっちの場所が丸分かりになるノ」
「そういうものだって、アンタには説明もしてるし、そういうところも見せてる筈だケド?」
「え……そ、そうだったの……? そうだったのか…………えっ⁈ そ、それじゃ、こっから先を全部足使って調べていかなきゃなんないの⁉」
少年の反応に、少女はまた白けた視線を向ける。
お前は人の能力をアテにして、楽に終わる仕事のつもりで引き受けていたのか、と。
「当たり前でしょ、そもそも知らない場所なんだかラ」
「ニオイで嗅ぎ分けるのも無理、魔術での探知は論外。となったら、歩き回って調べる以外に無いわヨ」
「言っとくけど、アンタが遊んでる裏で、私がいつもそういうの終わらせてただけだからネ? このバカアギト」
「うぐっ……それ、あん時のことか……っ。別に遊んでたわけじゃないぞ、あの時だって。お前とマリンがちゃんと生活出来るように、必死になって働いてたんであって……」
少年は少女の言葉に、もの寂しそうな顔で俯いてしまった。
そして、親の心子知らずだな……などと言い放ったものだから……
「誰が誰の親ヨ――っ! ふしゃーっ!」
「いたい! いでででででっ⁉ 噛むな! 大自然の真っ只中で! 割と衛生環境怪しいとこで人の首を噛むな! 噛み千切ろうとすんな! 破傷風になる!」
ふたりはいつもの通りに、一方的な取っ組み合いを始めてしまった。
緊張感が無いのは、それが必要無いから……ではあった。
だが……その光景を目にすれば、きっと誰もが首を傾げただろう。
このふたりは、王命で調査に来たのではなかったのか、と。
そんな危機感の薄い彼らに危険が迫るのは、それから半日後――その日の夕方のことだった。




