第三百一話【何が分かるんだよ】
ユーザントリア騎士団の駐在する宿舎には、派遣されてきた彼ら以外にも出入りがあった。
それは例えば、国王からの連絡を伝える為の役人であったり、持ち回りの現場の状況を共有する為の軍人であったり、はたまたお礼を言いに来ただけの一般人であったり、物珍しさから紛れ込んだ子供であったり。
外国からやって来た武装部隊。と、そんな肩書きがあったにもかかわらず、その宿舎を怖がったり、必要以上にありがたがったりする声は、このランデルという街の中にはなかった。
というのも……
「ユーゴ、ちょっと休憩にしよう。身体動かしながらだと覚わらないこともある」
「俺より器用だとはいえ、ゲンさんやフリードさんみたいにずっと訓練を続けてきた人間じゃない。慣れないことはすぐには出来ないよ」
「……うるさ。別に出来るし、このくらい」
宿舎には子供がいて、宮に住んでいる少年が遊びに出入りしている。
なんて、その実は違えど、そんなのどかな噂が流れているものだから、外国軍宿舎という重苦しい響きとは裏腹に、どこか遊び場のような印象を持たれてしまっていたのだ。
さて、その出入りしている子供というのが、アンスーリァ国王の連れてきた、身元の知れないユーゴという少年だ。
そして、その遊び相手というのは、ユーザントリアから派遣されてきた、騎士と呼ぶにはまだ幼く非力なアギトという少年。
宿舎が出来て以来、彼らの声が中から漏れて聞こえてくることから、もしかしたら派遣された部隊というのは、王の連れてきた少年の遊び相手を集めただけなのでは……なんて、そんな噂さえ流れている。
もっとも、それを本人や国王、宮の役人が知ることは無いのだが。
けれど、噂話とは打って変わって、ふたりの少年はいたって真剣に、その場にふさわしいやり取りを――騎士団に、軍事部隊に欠かせない鍛錬を積んでいた。
そしてそれは、今日も変わらない。
「んー……なんというか、ユーゴは花渕さんに似てるんだよな」
「根が真面目で、優しくて、他人思いで。能力が高くて、頭も良くて、どんなことでも簡単にこなしてるように見せる。で、やたら他人につんけんしてるとこも」
「誰だよ、ハナブチって。お前の知り合いって時点でなんかもう嬉しくない。褒められてる感じがしない」
花渕さんはすごいんだぞぅ! と、少年アギトは声を荒げた。
もっとも、荒げたとてその内容がユーゴに伝わることは無い。
花渕……というのは、アギトの知る人物の名で、この世界には存在しない少女を指すものだ。
どうあってもユーゴでは知り得ない、決して交わらない存在と言えるだろう。
「花渕さんはなぁ、どういうわけか、ただのバイトの女子高生だった筈が、いつのまにか店の売り上げを爆増させ、赤字経営を改善し、店長をもこき使い、俺をそこそこ程度には使えるようにして、気付けば店の全権を掌握していた、とんでもない子なんだぞう」
「いや、知らないって。っていうか、その話だと店長とお前がヘボなだけだろ。まあ……売り上げがどうのこうのはすごいのかもしれないけど」
そんな話を、ユーゴは鬱陶しがらずに聞いていた。
別に、それが面白いとか、面白くないとかはどうでも良かったのだ。
ただ単に、この世界に無いもの――自分も知っていて、けれど他の誰もが知らない特別な話を、自分だけにしてくれる状況が少し面白かったのだ。
「あ……うーん。でも、花渕さんは……女王……さま……にもちょっと似てるかも。その……あの子、美人だからね……」
「じゃあ大したことないな、別にアイツ美人じゃないし。っていうか、フィリアに似てたら仕事なんて何も出来ないだろ。アイツ、新聞配達で迷子になりそうだし」
ユーゴにとって、アギトとのやり取りは楽しいものだった。
気兼ねない……と言うよりも、いちいち驚かれないことが、彼にとって楽だったのだ。
もちろん、女王フィリアを相手に自分の世界の話をして、それに驚かれ、喜ばれ、笑って貰えることも好きだった。
しかし……それは、自分と彼女との間に――自分とそれ以外との間に、決して埋まらない溝があることを自覚する瞬間でもあったから。
「……ユーゴ、いい加減認めた方が……いや、もう心の中では認めてるんだろ」
「女王……さま……は、間違いなく美人だ。美人だし……その……うん。だから、あんまりひどいこと言ったらダメだぞ。後になって後悔しても知らないからな」
「するか。だいたい、なんの後悔だよ」
ふたりの少年は鍛錬の休憩がてら、いつもそんな話をしていた。
世界の壁を隔てない、ふたりだけに通じる話を。
これもやはり、今日も同じ……に、なる筈だった。この時までは。
「にしても、まだ実感が……いや、とっくにいろいろ打ち明けまくっておいて、今更かもしれないけど。まだ信じられないんだよな」
「まさかこの国にも召喚された人がいて、それが俺の知ってる世界から来てる……とか」
「その説明はチビがしてただろ。お前を召喚したから、あっちの世界とこことが繋がったんだって。だから、偶然一緒の世界だったわけじゃないんだって」
イマイチ分かってなくて……と、肩を落とす少年アギトに、ユーゴは呆れた顔を向ける。
魔術については自分よりも知っている、見ている筈だろうに、と。
ため息交じりな彼のそんな言葉に、アギトは更にがっくりと肩を落とす。
いつも、飲み込みが遅い、要領が悪いと言われるのだ、と。
「……はあ。でも、せっかくなら向こうの世界でも会いたかったよ、ユーゴとは。漫画とかゲームとか、趣味も合いそうだし」
少年アギトは何気無く――いいや、悪気無くそう言った。
そして、やはりそれは本心だった。
彼の中にあるこの世界への印象は、危険で恐ろしい場所、というものだった。
もちろん、それはこの世界を――アンスーリァ王国や、彼の暮らすユーザントリア王国を否定するものではない。
魔獣との戦いを多く潜り抜け、幾多の危険を経験した彼にとって――そんな過酷な思いをしながらも、同時に平和で安全な暮らしを続けた彼にとって、この世界はあくまでも残酷なものであるという前提があった。
もちろん、これもやはりこの世界を否定するものではない。
自分の生まれ育った世界に比べ、文明は遅れ、危険は多く、幸福を得る過程があまりにも多過ぎると、彼は嫌と言うほど思い知っていた。
それは、彼が他者よりも圧倒的に多くの経験を積んだからこそ得た結論だ。けれど……
「……なんだよ、それ。向こうの世界で……って、それじゃ俺はこっちに来れなかっただろ」
けれど、その経験を、彼の辿った険しい道を知らないユーゴにとっては、自らを否定する言葉のように思えてしまった。
「え……あ……あっ。いや、そんなつもりじゃないんだ」
「でも……うん、ごめん。そう……だよな。ユーゴは……あっちの世界で死んじゃったから、こっちの世界に召喚されたんだもんな……」
少年ユーゴは、死によってこの世界への扉を開けた。
正確には、フィリア=ネイによって開かれていた扉に飛び込んだ……のだが、その差異は関係無い。
もうひとつの世界での死を否定することは、今の生を否定すること。
そして……もうひとつの世界の生を、ユーゴは自ら否定していた。
ユーゴの死因は溺死――それも、投身によるものだ。
彼は自らの生を――宿命を、生活を、命を諦め、その一生を自ら終えた。
彼にとっては、この世界の生は、もうひとつの世界での不満を救済するものに近かった。
もっと生きたかった、したいことがあった。
けれど、それは苦しく、望むべきものではなかった。そんな思いを。
だが、この場所でならばそれが叶う。
少年ユーゴの根底にあったのは――女王フィリアとの生活によって忘れられそうになっていた彼の怨嗟は、生前への恨みと憎しみと、子供らしからぬ諦念だった。
「……そうだよ。俺は死んだからこっちに来れた。それに……俺はこっちの方が気に入ってるんだ」
「フィリアはアホだけど悪いやつじゃない。いや……良いやつだ。たまにイライラするけど、一緒にいて嫌な思いにならない」
「俺はこっちに来て正解だったんだよ。来れたのはたまたまだろうけど」
本能に近い部分を刺激され、ユーゴの心は大きく荒れていた。
しかし、それだけでどうにかなるほど感情的な少年ではなかった。
アギトは自分を否定する人間ではない、自分の価値観だけで他者を否定する人間ではない。そんな理解があったからだ。
ユーゴとアギトはそれほど長い付き合いがあるわけではないが、それでも分かり合えるものはある。
それに、アギトは嘘をつくのが下手で、自分の感情を隠せなくて、そうでなくとも何もかもを大っぴらにして生きているから。
そういう意味で、ユーゴはアギトのそんな能天気さを信用していた……のだが…………
「…………そう……だよな。でも……でもさ……うん」
「ごめん……やっぱり、俺はユーゴと、死ぬ前に向こうの世界で会いたかった。そして……俺に何か出来たんなら、死なせないようにしたかったよ」
アギトは本心からそう言っていた。
それがユーゴの今を否定することになろうとも、彼の以前の生を惜しまないではいられなかった。
それが……多くの世界を、過酷を知る、アギトの願いだったから。
「――じゃあ、俺は今からでも生き返って、こっちでは死んだ方が良いってのかよ――」
「……っ。ち、違うよ! そんなこと言ってない! そりゃ……ユーゴの場合はそうなっちゃうかもしれないけどさ……っ。でも――――」
しかし、ユーゴはアギトの過去を知り得ない。たったそれだけのことが決定的だった。
ユーゴは言葉にならない怒鳴り声をあげて、手に持っていた木剣をアギトに投げ付けた。
そして感情のままに吠え、アギトを殴り付ける。
「――俺はあんな世界どうでも良かったんだよ――っ! お前みたいにだらだらしてるだけのやつに何が分かるんだ――っ! いつもバカみたいな顔してるだけのお前に――お前なんかに――っ!」
二度、三度。ユーゴは無防備なアギトを殴り付けて、彼がしりもちを突いたのを見るとすぐに逃げ出してしまった。
それは、幼い少年の心が引き起こした防衛本能だった。
否定された。自分は否定され、拒絶されてしまった。
少年はそう感じていた。それ以外を感じ取れなくなっていた。
少年は以前の生を自ら諦めた――諦めさせられた。
生きたかった、楽しいことをしたかった。
けれど――それを許されなかったから。
それを咎めるものが現れた。
自分の諦念を咎め、きれいごとを押し付けようとする人間がこの世界にすら現れてしまった。
それが、彼の脳内を埋め尽くした強迫観念だった。
逃避を自ら認知することも出来ず、ユーゴは走って宮へと戻り、自室へとこもってしまった。
そんな彼の背を見て、アギトは……




