第二百九十話【たったひとりの出発】
「――それじゃ、行ってくるワ。みんなは後からのんびり来なさイ」
日も昇り、馬車の手配も淡々と進むころに、ミラはそう言ってひとり先に出発の準備を終えた。
予定通り、ハルを一刻も早く守る為に。
「ご武運を。何かあれば合図を送ってください。もっとも、私達が貴女に追い付くということもなかなか難しいのですが……」
「大丈夫、何も起こり得ないワ。フィリアも気を付けてネ」
「バカアギト、アンタがしっかりするのヨ。ユーゴも、フィリアに怪我なんてさせないようニ」
私に怪我をさせるな、か。ジャンセンさんがよく口にしていた言葉だな。
誰から見ても、ユーゴはまだどこかおっかない、おぼつかない少年なのだろう。
そして同時に、守りを任せられるだけの戦士でもある、と。
「……ちぇっ。別に、次やったら成功するのに……」
「あはは……そうだな、惜しかったもんな」
さて。何度かのやり取りの後に、ミラは北へ向けて走り出した。
距離もあるのだから歩いて行けば良いのに……と、そう悠長なことも言っていられない。
走って行っても問題無い体力の持ち主だからこそ、彼女に任せているのだから。
見る見るうちに小さくなっていくミラの背中を見送って、ユーゴは未練がましくそんなことを言った。
それを相手に、アギトも苦笑いでなだめている。
そう、これは今朝早くのこと。
先行して魔獣を倒し、ハルの安全を確保する役目を、ユーゴとミラのどちらに任せるか……と、そんな話があったのだ。
――もしもユーゴにミラの強化魔術が扱えたなら――
最終決定は私に委ねられていたから、それが成されてもどちらを選ぶかはその時の私の考え次第ではあったが、アギトとミラはそんな可能性を提示してくれた。
どうしても大群を相手に戦う練習をしたいという、ユーゴの願いを叶える為に。
しかし……私達は迷う必要に迫られなかった。
その……こんなことを後から言うのは卑怯かもしれないが、私はそれで良かったと思う。
やはり、適任はミラだから。
憂うことなく彼女に任せられたことに、今は少し安堵さえしている。
「ユーゴ。拗ねていないで、支度を手伝ってください。後発隊の私達も、絶対に安全というわけではないのですから」
「拗ねてない。うざい、このデブ」
デ――っ。この子は本当に……はあ。
魔術による強化状態で、ユーゴは簡単な運動すらもこなせなかった。
ほんのわずかに前に進むことすらも出来なかったのだ。
私はその光景に、強い懸念と不安を抱いた。
それと同時に、意図があるのではないか……と、そんな疑問も頭に浮かんだ。
ミラが意図的にそうしたのではないか。
やはり、先行すべきは自分だ、と。
ユーゴの身を案じてか、ハルの安全を優先してかは分からないが、彼女が画策した結果なのではないか、と。そう考えたのだった。
しかし……どうやらそれも違ったらしい。
というのも、ミラにそういう隠しごとや企みの気配が無かったから。
あの子は感情を隠すのがあまり上手ではない。
そんな彼女ががっかりした顔でユーゴの失敗を見届けたのだから、そうではないのだろう、と。
「……では、魔術とユーゴの能力とは相性が悪かった……ということでしょうか」
不貞腐れた態度で荷物を運ぶユーゴの背中を眺めながら、私はそんなことをひとり呟いた。
ユーゴの能力は、自身の想像を実現させるというもの。
そして、強化魔術は身体能力を強制的に向上させるもの。
それが上手く噛み合わなくて、イメージの通りに動こうとしたユーゴの意に反し、身体が過剰な運動をしてしまったのではないか……なんて。
今その理屈を知ったところで、何が変わるものでもないのだが。
ともかく、ミラが先行し、ユーゴは私と共に馬車で向かうと決まったのだ。
これ自体は私が初めに願った状況そのものなのだから、そうなったことには喜んでおこう。
「女王様、準備出来ました。いつでも出発出来ます」
「ありがとうございます、アギト。では、出ましょうか」
「ミラが先に行ってくれるというだけで、私達がゆっくりしていい道理もありませんから」
っと。今すべきでない考えごとは後だ。
荷物も運び終えて、馬車の準備は完了した。ならばもう行こう。
あの子に何かがあってはいけない、出来る限り早く出発し、早く追わないと。
「……このアホ。俺に任せればいいのに、なんであんなチビに……」
「もう、ユーゴ。いつまで拗ねているのですか。適任はミラだと、貴方だって理解はしていたでしょう」
「それに、結果的には魔術による強化を使いこなせなかったのですから」
ちぇっ。と、ユーゴはいつまでもへそを曲げたままだったが、それと出発とには直接的な関係は無い。
だから、どんなにむすっとむくれていても、狭い馬車の中で私の隣に座るしかないのだ。
「もっと詰めろ、デブ。暑苦しい」
「デ――っ。ユーゴ……貴方という人は本当に……はあ」
……そろそろなんとかしてやめさせなければ、いつか私の心がどうにかなってしまいそうだ。
もちろん、こんな私の傷心も馬車の進行とは関係が無いから。
なんだか嫌な空気になってしまった馬車は、ほとんど会話も無いままにマチュシーを出発した。
目的地はハル。ミラが先行してくれている、安全な道を進む。
「――――揺蕩う雷霆――――っ!」
バ――と、空気を切り裂き、雷音は少女の行く先すべてを揺らす。
それが意味するものは、圧倒的なほどの暴力による威圧――動物の本能に直接語り掛ける、暴音の威嚇だった。
ミラの中には焦燥感があった。そしてそれは、ある存在に起因するものだった。
女王より聞かされた魔女という存在。
彼女は未だ、その名で呼ばれるものに勝利したことが無い――敗北しなかったという結果を持たない。
一度目は、何も出来なかった。
一切の抵抗を許されず、力量差を理解する余裕も無いまま、彼女はただ打ちのめされた。
ただ、偶然にも助かった、というだけだった。
二度目は、あらゆる策を講じ、準備したすべてを活用して、徹底的に抵抗した――その上で、打ちのめされた。
その特性を理解し――乗り越えられず。
その強さを把握し――拮抗できず。
その終幕を予見し――それを避けることが出来ずに、彼女は魔女に敗北した。
ただ、こちらもまた、偶然にも助かった、という結果だけがあった。
それと同等の存在がこの国にもある。
そしてそれは、意志を持って自分達に敵対している。
それを知らされた瞬間から、彼女の中には強い焦りとひとつの結論が出ていた。
――自分がそれを超越しなければならない――
魔術の規模ではないそれを相手に、自らの魔術を通用させなければならない。
人間の規格ではないそれを相手に、人間としての矜持を以って立ち向かわなければならない。
彼女はそれに焦っていた。
敵う道理が無い。少なくとも、現状のままでは。
「――これだけ離れたら問題無いでしょう。バカアギトがバカアギトで良かったわ。何やったとしても、アイツじゃ気付かないでしょ」
故に、彼女は現状の打破を――自らの力の向上を目論んでいた。
「――――契約――――」
彼女はひとつの到達点を――魔女の領域に到達し得る魔術を思い描く。
それは、勇者としての戦いのさなかに、たった一度だけ訪れた場所で目にした奇跡だった。
何よりも苛烈に、何よりも純粋に、何よりも強く、何よりも無慈悲に。
そして――何よりも美しく、気高い力。
炎。彼女が想像するものは、原初より存在する大いなる自然。
原初より存在し、人の手によって道具へと最小化されたもの。
熱であり、光であり、反応であり、変化であり、魔術の属性であるもの。
そして――生命を殺し得るもの。
「――っ。燃え盛る紫陽花――っっ!」
彼女が唱えた言霊は、自らの研鑽の末に組み上げたものではなかった。
憧憬を抱き、背中を追い続けた、大いなる師の紡いだもの。
まだ、自分のものに出来ていない、ずっとずっと大きな力だった。
言霊は炎を発生させる。
細やかな魔力の運用によって、彼女の周囲の空気は振動を続け、それはやがて熱を生み、熱は可燃物質の反応を促す。
そして言霊は――彼女の魔術は、大きな燃焼反応を引き起こす。
「――燃えろ――燃えろ燃えろ――もっと――っ! もっと膨らめ――――っっ!」
大きな炎は空気を膨らませ続ける。
同時に、多量の水蒸気を発生させる。
水蒸気は膨張する空気の圧力に押され、少女の周囲から離れ、冷やされ、塵を取り込んで小さな雲を発生させる。
そして――――
「――――百頭の龍雷――――」
擦り合わされた塵と水の粒によって雲は帯電し、彼女の言霊をきっかけに放電を始める。
けれど、まだ足りない。
勇者ではなく、弱者としてのミラ=ハークスはそれを痛感した。
まだ――まだまだ、魔術はもっと自然へと近付ける。
あと一歩……いいや、何歩でも。まだ、前に進む余地がある、と。
少女は研鑽を繰り返す。
たったひとり――誰に配慮する必要も無い場所で。
遠慮など必要無いという大義名分を得て。
彼女はただ、実験を繰り返す。
最終解を求めるままに。




