第二百八十九話【朝一番には聞きたくなかった】
そして朝はやって来る。
今朝は誰の声に起こされることも無く、私はひとりで目を覚ました。
まだ日も昇ったばかりのころに――いつもならユーゴが来ているころに。
「……ふわぁ。今朝はどうしたのでしょう……」
それが大きな異常だとは思わない。
毎朝毎朝起こしに来るほうが、本来ならば奇妙なのだ。
あの子は私のお目付け役でもないし、保護者でもない。
というか、むしろ逆だったようにも思える。
なんだか私が面倒を見て貰っているような扱いを受けることもあるが、基本的には私がユーゴを保護している……というのが、表向きの形の筈だ。
ともかく、彼が私を起こしに来ないことには、特別大きな意味があるとは思わない。思いたくはない。
ただほんのわずかな違い……昨日よりも疲れていたから、とか。
私を急かす意味が無いから、とか。
そういった、平和で下らない理由以外にはあり得ない。
それで……今朝のその下らない理由……というのが気に掛かるのだが……
「……? なんの音でしょうか」
はて? と、悩んでいるうちに覚醒し始めた意識は、部屋の外……いいや、宿の外から聞こえる異音を感知した。
何かが爆ぜるような音……しかし火薬のそれではなさそうだ。
細かいわらくずに火が付いたような、じりじりと断続的に続く小さな破裂音。これはいったい……
「――ちーがーうーっ! もっとこう――ぎゃーっ! ってやるのヨ!」
「分かるか! そんなので! ユーゴ、いいか。変に逆らおうとしちゃダメだ。それはあくまで加速の手助けをしてくれるだけのものだから……」
そんな音の合間に、すごく聞き覚えのある声で、聞き慣れた言い争いが聞こえてきた。
アギトとミラ……だが……ううん? 今、ユーゴの名を呼んでいたような……?
こんな時間にいったい何を……と、私は上着を羽織って部屋を出た。
廊下を進んで、玄関を出て、声のした方へ……裏路地を進んだ先へと向かうとそこには……
「あっ、フィリア! ほら、アンタがトロくさいから、フィリアが起きて来ちゃったじゃなイ!」
「お前がうるさいからだろ、アホチビ」
舗装もされていない開けただけの場所があって、その真ん中にはミラとユーゴが何かをしている姿があった。
それをアギトも見守っていて、そして……何やら焦げたような跡があちこちに見受けられて……
「フィリア! おはよ! えへへ!」
「わっ。ふふ……おはようございます、ミラ。今朝も貴女は暖かいですね」
んふふ。と、ミラは嬉しそうに私に抱き着いて、ぐりぐりと頭を喉元に擦り付けてくる。
相変わらず可愛らしくて、元気も良くて何よりだ。
「――っ⁈ じょ、女王様っ! そんな格好だと風邪引きますよっ! 着替えてきてくださいっ!」
「あ、いえ……ふふ。こうしてミラがくっ付いてくださっているので、そう寒くもありませんよ。心配してくださってありがとうございます。それと、おはようございます、アギト」
お、おはようございます。と、アギトはなんだかそっぽを向いて、慌てて頭を下げる。
ふむ、そうか。肌寒い実感は無かったが、それを気にしてミラは抱き締めてくれているのだな。
いつもと変わらない、気遣いの出来る優しい子だ。
それに……ふふ。体温も高くて、まだ残っていた眠気が……帰ってくるようで……ふわぁ。
「――アホ! バカ! まぬけ! デブ! 王様なんだから、外に出る時はちゃんとした格好してろ! デブ! アホデブ!」
「で――っ⁈ そ、その……おっしゃることはもっともなのですが……も、もう少し言葉に手加減をしていただけませんか……?」
だったらさっさと着替えて来い! アホ! と、ユーゴはカンカンに怒って私を怒鳴りつけた。
いけない……私が面倒を見て貰っている……っ。
彼の方がずっとしっかりしていると思われてしまう……
「んむ……こら、ユーゴ。女の人にそんな口の利き方するもんじゃないワ。フィリアは太ってるんじゃなくて、私の為に柔らかくいてくれてるだけヨ」
「――っっっ⁉ やわ……そ、その……ミラから見ても、私は……その……っ。ふ、ふくよかに見える……でしょうか……?」
どすん。と、まるで太い杭でも……だ、誰の胴が杭のように太いですかっ! で、ではなくて。
こほん。杭を胸に打ち込まれたかのような痛みと衝撃が襲う。
そ、その……ミラ……? も、もしや貴女は、私を想って抱き締めてくれていたのではなくて……
「んふふ、えへへ。フィリアはマーリン様に似て、どこ触っても柔らかいから良いわよネ。ふふ……ふわふわ……」
――――ッッッ⁉
そ、そう……か。そうだったか……っ。
この子はただ、どこをつまみ上げても駄肉の積もった私の身体を、綿の詰まった布団か何かだと思って抱き着いていただけ……だったのだな……っ。
そうか……どこを触っても……か……
「…………き、着替えてから戻ります……。話はそれから……」
ユーゴにも散々……デ……太っていると言われてきたが、今日が一番堪えたかもしれない。
一切の悪意も悪気も無く、純真な気持ちだけで言われてしまったから……だろうか。
もう誤魔化しようもない。私は……その……っ。
やはり、宮の豪勢な生活にうつつを抜かし過ぎていただろうか……?
もうすでに気持ちは満身創痍に近かったが、私はひとまず朝日の射し込まない裏路地の広間へと、きちんとした格好で戻った。
そうだな……薄着では身体の線が出てしまうからな……
ユーゴはそれを、醜いのだから少しは恥じらって隠せ……と、常識的なことで怒ってくれたのだろう。
まるでお節介な母親のようではないか……っ。
「それで……今朝は早くから……何をしているのですか……三人揃って……はあ」
「……? フィリア? 大丈夫? 気分が悪いなら部屋で休んでると良いワ。フィリアに何かあったら大変だもノ」
いえ……その……何かはもうあったのです。
今までうっすらと理解していながらも眼を背けていた事実を、つい先ほど貴女に突き付けられてしまった……というつらい事件があったから……はあ。
「あ、あの……その……ぜ、絶対! 絶対太ってるわけじゃないですから!」
「女王様は……その……背も高くて! その……あの……す、スタイルも良いので! それで……」
「うっ……あ、ありがとうございます、アギト……ですが……で、出来ればその件にはあまり触れないでいただけると……」
ぐう……アギトには精一杯の気遣いをされてしまう始末か……っ。
私の身体はいったいどれだけ醜く膨れ上がっているのだろう。
やはり、自分の目で鏡を見るだけでは分からないものがあるのだな。
それならばいっそ、死ぬ時まで分からないままでいたかったものだが……
「……はあ。ミラは良いですね。華奢で、愛らしくて。眼もこんなに大きくて、髪の色も人柄を表すように明るくて……」
こんな風に、誰にも愛情を素直に伝えられたなら。
ミラの風体や振る舞い、在り方に、どうしても憧憬の念を抱いてしまう。
切れ長な私の眼をいくつ並べれば、この子のこの丸くて大きな眼と同じ大きさになるだろう。
どれだけ切って分ければ、この華奢で可愛らしい、女の子らしい身体になれるだろうか、と。
「ん……ふふ、えへへ。フィリアだってすっごく綺麗だワ」
「髪もつやつやしてるし、肌も白いし。手足だって長いから、まるで彫像の女神様みたいだもノ」
「それに……えへへぇ。石の像と違って、おっきくてやわこい……」
少しでもあやかりたいものだ。と、またミラを抱き締めて頭を撫でていると、彼女は嬉しそうに目を細めたままそう言った。
女神様のよう……か。その……ふふ。
この子があまりそういう嘘をつかない、嘘のつけない子だろうことを思うと……ふふふ。
ちょっとだけ……いいや、ずいぶんと励みにもなる。だが……
「……大きくて……柔らかい……はあ。そこは絶対なのですね……」
男性と並んでも埋もれないこの大きな身体も、ユーゴに指摘され続けている肉も、やはり紛れもない事実なのだ、と。
それを何度も何度も突き付けるように、ミラは私を思い切り抱き締める。
良くも悪くも、一切の誤魔化しが無いのだな……この子には……
「アホ。邪魔するなら部屋戻ってろ。チビ、いつまでも遊んでないで続きやるぞ。お前がやれって言ったんだからな」
「んむ……んん……そうだったわネ。それじゃ、また続け……続け……んふふ。もうちょっと……」
い、いけない……無駄に大きくなっただけでなく、ミラの行動をも阻害し始めてしまっているのか、私の身体は。
何故だろう、今朝はもう何もしたくない。
こんなに打ちのめされた気分になるのは久しぶりだ……
「……っと、そうでした。皆、こんなところで何をしていたのですか? その……あまり穏やかな感じはしないのですが……」
「ん……んむ。昨日言ったデショ。何とかする方法はあるっテ。それが使えるかどうかの確認ヨ。と言うより……ユーゴにそれだけの素養があるかどうかの確認……ネ」
ユーゴに……素養……?
いったい何を……と、私が理解出来ないでいるうちに、ミラは私の腕を離れ……離れ…………離れようとして、でももう少し……と、口惜しそうな顔で私の身体を見て……しばらくそうしてから、決心したように立ち上がった。
そ、そんなにも……私の身体は……
「――ユーゴに強化魔術を掛けるのヨ。もしも制御出来たなら、ユーゴは正真正銘私とまったく同じ動きで戦えル」
「それなら、たとえ広範囲攻撃が出来なくても、十分早く到着出来るワ」
「っ! 強化……そ、それは他者にも使用出来たのですかっ。それが可能なら、ユーゴはもっと……」
だからそれの練習中だったのヨ。と、ミラは大きく伸びをしながらそう言うと、広場の真ん中でユーゴと向き合った。
それからすぐに魔術の言霊を唱えると、起き抜けに聞こえてきたじりじりと続く破裂音がユーゴの方から鳴り始める。
「ま、そろそろタイムリミットなのは間違いなかったわけだシ。ここでバシッと決まんないなら、今日は私が行くワ」
「フィリアの前なんだから、最後くらいかっこつけなさイ」
「っ。言われなくても――」
ミラの挑発めいた言葉に、ユーゴは大きく深呼吸をする。
そして、たった一歩――足を上げて降ろすだけの動作を、とても丁寧に、慎重に開始した。
とてもゆっくりとしたその動作が大きな意味を持つのだとは、その直後に理解することとなる。




