第二百八十七話【膝を折ることの意味】
「――おい、フィリア。さっさと起きろ。急ぐんだろ」
久しぶりにその声を聞いた気がした。
ユーゴの声を……ではない。私の目覚めを急かす彼の言葉を、だ。
「……おはようございます、ユーゴ。ふわぁ……こうして貴方に起こされるのも久しぶりですね」
知らない天井は、ここがランデルではないことをもう一度思い出させてくれる。
そうだ、ここは安全な宮ではない。
安全を奪われてしまった――けれど、これから取り戻そうとしている、マチュシーの宿の一室だ。
「やることあるんだろ、お前は。色んなとこ行って、正式な手続きとかしてこないと。一応、俺とアギトで話は付けて来てるけど」
「そ、その節は本当に迷惑を掛けました……ですが、そうですね」
「ミラならば身体を休める必要もありますが、私がのんびりする余裕はどこにもありません。すぐに支度をします」
「すみませんが、昨日訪問した場所を案内していただけますか。貴方かアギトのどちらかが一緒の方が話も早そうです」
分かった。早くしろよ。と、ユーゴは小さく頷くと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
そうだな、早くしなければ。一刻を惜しむ必要がこの瞬間にはあるのだから。
着替えを済ませてユーゴと合流すると、私は久しぶりのマチュシーをまた歩き回る。
仕事の依頼を取り付ける為に、だ。
昨日は状況の再確認と、それから宿探しだけで夜になってしまったから。
もっとも、到着した時にはもう日も傾いていたのだが。
「あそことあそこと……あっちにもあった。アイツらがこの前の調査の時、いろいろ話聞いててくれたらしい。だから、結構あっさり承諾して貰えたよ」
「アギトとミラが……そうでしたか。本当に頭が上がりませんね、あのふたりには」
そうか、そういうカラクリがあったのか。
正直、ユーゴとアギトだけで話を付けに行くと言った時には、きっとたくさん揉めて、後日私から交渉をしなければならないのだろうと腹を括っていた。
だが、結果はそうならなかった。
ふたりを軽んじたつもりも、甘く見たつもりも無かった。
だが、そう簡単に承諾して貰えると思っていなかったから、内心では少しだけ驚いたものだ。
「……みんな、嬉しそうだったよ。本当に来てくれた。女王様は見捨ててなんていなかったんだ。やっぱり、フィリア王は国を救ってくれるんだ。って、みんなそう言ってた。これってさ……」
「……今までの努力が……ジャンセンさんやバスカーク伯爵と共に戦った意味が、きちんと残されていた……ということでしょう。皆、まだ貴方の戦いぶりの中に、希望を抱いてくれているのです」
ユーゴは私の言葉に、少しだけ……本当にわずかだけ、暗い顔を見せた。
けれどそれもほんの一瞬で、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべる。
その笑顔は……きっと、半分は作りものなのだろうな。
まだ、皆が期待してくれている。
かつてのユーゴにとって、それは単に背中を押してくれるだけのものだった。
人々の期待が、希望が、彼の勇気になって、やる気になって、自尊心にもなっていた。
だが……
今のユーゴには、まだそれを受け止めるだけの余裕が無い。
また、今度は、もしかしたら。と、二度目の敗北の可能性を無視出来ないでいるのだろう。
それでも笑顔を見せてくれたのは、本当に嬉しいから……だと思う。まさか、私に気を遣って、不安を必死に隠しているだけ……なんて、そんな寂しい話ではないと信じたいところだ。
「朝早くからすみません、失礼します。昨晩、彼がこちらを尋ねたと思うのですが……」
「――フィリア女王陛下! 本当に……本当にいらしてくださったのですね……っ! 本当に……まだ、このマチュシーは……っ」
ユーゴに案内されて足を踏み入れた石材屋で、店主と顔を合わせるや否やそんな反応をされてしまった。
そう……か。そこまで……押し潰される寸前まで、不安を抱えさせてしまっていたのだな。
「……遅くなって申し訳ありませんでした。このマチュシーを……いえ。ハルを、ヨロクを。必ず、元の安全な街へと戻してみせます」
「そして私は、今度こそこのアンスーリァ全土の解放を成し遂げます」
店主は私の前で、なんだかありがたいものを拝むように手を合わせていた。
そんな姿を見ては、私も奮起せざるを得ない。
もとよりやる気は十二分に満ちていたつもりだが、まだまだお腹の奥の方から力が湧いて来る気分だ。
それと同時に、強い罪悪感も湧き上がって来た。
もちろんこちらも、とっくに思い知っていたつもりだった。
それでも、まだ……まだ、足りていなかったのではないか、と。そんな思いが胸中に渦を巻き始める。
私は一度、皆に絶望を感じさせそうになった。いいや、感じさせてしまった。
そしてそれは……取り返しのつかない結果をどこかで生んでいてもおかしくない。
国は救われる。街は平和になる。豊かな生活がやって来る。
そう思っていたところへ、もう一度……いいや、以前よりも更に強い恐怖が押し寄せたのだ。
「……必ず……っ。必ず、勝利します。もう二度と、誰にも不安な思いはさせません。もう二度と――私達は敗北しませんから……っ」
目の前の人物は、まだ私を信じてくれている――信じて縋らなければ打ちのめされてしまうほどに疲弊している。
きっと、それをやめてしまったものだっている筈だ。
抗えば――希望を抱けば、また……と。
失敗は許されない。アギトとミラを失えば……だとか、もう議会を脅すことは出来ないから……なんて、そんな下らない理由ではない。
もう一度の敗北があれば――この国は、民は、胸に希望を抱いて生きていくことすらも出来なくなってしまう。
「……っ。それで……その、ユーゴから話をしてくれていると思いますが、このマチュシーからランデルにかけて、もう一度道路を繋げ直します。工事に必要な資材の確保をお願い出来ますか」
みわずかですが、相場よりも多く報酬を払います。どうか、ご助力を」
「もちろんです……っ。もちろん……この街を、私達の生活を守っていただけるのならば、なんだって……っ」
店主はもとからしわの多い顔をもっとしわだらけにして、頼んでいる筈の私よりも更に深く頭を下げた。
痛ましいと思ってしまった。
安全な宮へと逃げ込んだ私が、身勝手にも憐れんでしまった。
それはすごく……自分の胸を殴り付けたくなるくらい嫌なことだった。
それでも、こうして一件目の交渉は取り付けた。
私の人格が腐っていこうと、暴君への道をまっすぐにひた走る羽目になろうと、今はなんだっていい。
結果さえ出れば、皆が笑って暮らせるのだから。
「……あんまり嬉しそうじゃないな。引き受けて貰えたのに」
「……ふう。貴方からでもそう見えるのでは、もう少し心を落ち着かせてから次へ向かうべきですね」
店主に見送られて石材屋を出てすぐ、ユーゴは私の手を引いてそう言った。
嬉しそうじゃない。笑っていない。つらそうな顔をしている。
それは……きっと真実だ。けれど、隠さなければならないものでもある。
「……理解していたつもりでした。しかし、目の当たりにしては、今更ながらに痛む胸もあるというものです」
「あの敗北は、私達よりもむしろ、期待してくれていた皆の心に大きな影を落としたのだ、と」
罪悪感を感じるな。よしんば感じても表に出すな。
それが難しいのならば、いっそ人でなしとして振る舞うくらいはしろ。
自分に何度もそう命令するのだが、ユーゴが不安そうな顔を晴れさせることは無かった。
なんと愚かだったのだろうと過去の自分を毒突きたい。
すべてを失ってしまった。もう可能性は潰えてしまった。これまでの努力は水泡に帰し、もはや戦うすべなど残されていない。
そんなことを一瞬でも思ってしまった自分を、今すぐにでも呪い殺してやりたい気分だ。
すべてを失ったのは私ではなかった。
未来を摘み取られたのも、懸命のあがきを踏みにじられたのも、すべては私ではなかったのだ。
何を打ちひしがれた気分になって、悠長にやっていたのだ。
「……っ。行きましょう。待たせ過ぎてしまっている。この街も、ハルも、ヨロクも。私達は大勢を待たせ過ぎてしまっています」
「ダーンフールもフーリスも、それにカストル・アポリアも。一刻すら無駄にせず、最速で取り戻しましょう」
ユーゴは何も言わず、ただじっと私が顔を上げるのを待っていた。
私は今、どんな顔をしているだろう。
苛烈な悪王の醜悪な顔だろうか。
それとも、愚鈍な暗君の浅ましい顔だろうか。
あるいは……王に似つかわしくない、ただの女の泣き顔だろうか。
それから私達は何件もの職人や管理組合を訪れ、人手と資材の確保を進めた。
同時に、協力してくれると言ってくれた皆に手順書も配布した。
これでまた、明日の朝には出発出来る。
同じことを、もっと手早く、ハルでもこなしてみせよう。
長く時間を要した分、準備はしっかりと出来ているのだから。




