第二百七十話【珍しい朝】
食後にも少しだけ鍛錬を続けて、私達は日が傾き始めるよりも前に宮へと戻った。
ユーゴには強くなる力こそあれど、無尽蔵の体力は備わっていない。
だから、過不足無く休み、その間に自己分析を繰り返すように。と、ミラがそう提案したのだった。
「では、私はこのまま執務室へ向かいます。貴方は言われた通り、今日の鍛錬を思い返しつつ、身体をしっかりと休めてください」
「まだ本調子とは程遠いのですから、焦ってはいけませんよ」
「うるさい、言われなくても分かってる」
うるさい、か。
どうしてだろうな、こんなそっけない態度が嬉しいもののように思えてしまう。
またユーゴが私をフィリアと呼んでくれた。
また元気な姿を見せてくれた。それだけで、もう……
「……おい、ちょっと待て」
「……? どうかなさいましたか?」
では。と、彼と別れて仕事に向かおうとすると、背後から声を掛けられた。どうしたのだろうか。
もしや、急な運動でお腹が空いただろうか。
彼もまだ成長期の少年だから、食べられるというのならばたくさん食べて貰いたいところだが。
「……ありがと。ずっと……声掛けてくれて……」
「……いえ、礼を言われるようなことではありませんよ。ただ、私がそうしたかっただけなのですから」
ユーゴは私の返事を聞き届けると、何も言わずに部屋のドアを閉めてしまった。
ありがとう……か。
「……こちらこそ、ありがとうございます。また、元気になってくれて」
礼を言うべきはこちらだろうに。
彼には不要な負担を強いてしまっていた。
そして、これからもそれを頼み続けることになる。
謝罪も謝礼もいくらしたって足りない。
それなのに、そんな些細なことでお礼を返されていては、いつまで経っても感謝し切れないではないか。
まったく、律義過ぎる子だな。
それから私は執務室へ向かい、パールとリリィに手伝って貰いながら、議会へ提出する書類を完成させた。
私が望むものはひとつ。
ミラとアギトと、そして力を取り戻しつつあるユーゴへの支援。
つまるところ、国軍の出動要請だ。
簡単ではないだろうが、打てる手はすべて打っていかないと。
翌朝、私はひとりでに目を覚ました。
静かな部屋の中で意識を覚醒させ、ゆっくりと身体を起こして、大きく伸びをして。
それから窓の外を眺めれば、既に朝日は昇ってしまった後だった。
「……今朝は起こされませんでしたか。ふわぁ……」
今日はどこへ行くと決めていないから……なのか、ユーゴは私を起こしには来なかったらしい。
起こされても私が起きなかったという可能性もあるにはあるが、彼がその程度で屈するとも思えない。
起きるまで起こすだろうし、段々と手段も過激になる筈だ。
それでもこうして平和な朝を迎えたということは、彼がこの部屋を訪れていないということだ。
まあ、もうやるべきことは決まっているのだからな。
ひとりでもミラのもとを訪れて、鍛錬に精を出すだろう。
「あまり遅くなると怒られてしまいかねませんね。それに、きっとミラはまだ眠っているでしょう」
無理に起こして喧嘩になってもいけない。私も早く向かわないと。
そう思ったのならばもうまどろむ暇も無くて、私は大急ぎで身支度を整えて部屋を飛び出した。
それからしばらく歩いて友軍宿舎へと向かえば、やはりと言うか、また部隊長であるヘインスが出迎えてくれた。
「おはようございます、アンスーリァ国王陛下。本日もあの二名に御用でしょうか」
「おはようございます。はい、流石に察しが良いですね。ユーゴももう訪れている筈です。アギトとミラに迷惑を掛けていないといいのですが……」
私の言葉に、ヘインスは少しだけ困った顔で首を傾げた。
おや、これはどういった反応だろう。
あの二名の突飛さを知っているからこそ、迷惑を掛けられる側だという認識が無いのだろうか。
「ユーゴ……とおっしゃいますと、あの少年ですよね。私は早くから起きていますが、今日はまだ誰も訪問していませんよ。それに、あの二名もまだ起床してきていません」
「……え? ほ、本当ですか? 今朝は叩き起こされなかったものだから、てっきりひとりでここを訪れたのかと……」
ヘインスの返事は予想していなかったものだった。
ユーゴはまだここへは来ていない、アギトもミラもまだ起きて来ていない、か。
はて、となると彼は今どこに……?
「部屋で待機している……のでしょうか。すみません、また戻ります」
「承知いたしました。お気を付けて」
いけない、ここ最近は私が彼を連れ出していたから、彼もそれに馴染んでしまっていたのかも。
となると……ううん、この無用な時間の分、待たせてしまったかもしれない。不機嫌になっていないと良いけれど。
慌てて宮へと戻れば、使用人には不思議な顔を向けられてしまった。
しかし、それはそれ。私はまっすぐにユーゴの部屋へと向かって、ノックもせずにそのドアを開けた。
「すみません、ユーゴ。遅くなりました」
けれど、そうして飛び込んだ私に、返事はおろか咎める言葉も飛んで来なかった。
い、いけない、今度は入れ違いになってしまっただろうか……と、慌てて部屋を見回すと……
「……まだ、眠っていたのですね。いえ、当然でしょうか。昨日はたくさん動きましたから」
荷物もまだ残されていて、ベッドの上には膨らんだシーツも見えた。
それがゆっくりと動いているから、中に誰かが入っていることも間違いない。
そして、この部屋に出入りできる人間は本当に限られているから。
「……こほん。ユーゴ、起きてください。朝ですよ。今日もミラと鍛錬をするのではなかったのですか」
普段のお返し……というつもりが半分。
もう半分は、このまま起こさずに放っておくと、それはそれで怒られてしまいそうだから。
なんで起こさなかったんだと理不尽を言われてしまわないように、私は優しくユーゴの身体を揺すって声を掛けた。
「……ん。あれ、フィリア。なんで俺の部屋に……」
「今朝は珍しく貴方が起こしにいらっしゃらなかったから、気になって様子を見に来たのですよ。昨日は相当疲れたみたいですね」
ユーゴは私が声を掛けるとすぐに目を覚まして、じとっと私を睨んでからゆっくりと起き上がった。
それから窓の方を向くと、眩しそうに一度目を細めてから、もうすっかり覚醒し切った顔でこちらへ振り返った。
「遅い! もっと早くに起こしに来い! 寝てる暇なんて無いのに!」
「えっ、ええっ⁉ た、たしかに普段の起床時間と比べれば、のんびりした朝にはなったかもしれませんが……」
そ、それで私を責めないでください。
やはり予想は半分当たってしまったな。
だが、この理不尽なわがままにも安心感を覚えてしまう。
もうすっかり元気になってくれた、もう塞ぎ込んでいる彼の姿は見なくて済むのだな、と。
「どちらにせよ、ミラが起きなければ鍛錬は出来ません。ゆっくり朝食を済ませてから向かいましょう」
「……ちっ。そうだった、あのチビが全然起きないんだった」
「アイツ、本当に勇者かよ。アホっぽいし、うるさいし、ただの子供だろ、どう見ても」
いえ、貴方もただの子供に見えるのですよ、彼らからは。
なんて言ったらきっと怒鳴られるから、口にはしないが。
しかし、ユーゴも昨日のミラの様子はしっかり覚えていたようで、それなら仕方ないと言わんばかりにゆっくりと支度を始めた。
準備させた朝食をふたりでのんびり食べて、それから宮を出ても、昨日ミラが起きた時間にはまだならない。
それでも、歩む足は確実に道を進んでしまうから。
私はきっとまだ眠っているのだろうミラの姿を思い描きながら、さっきぶりに会うヘインスに挨拶をした。
今度こそユーゴを連れて来ました、と。
「先ほどアギトの起床は確認しました。呼んで参りましょうか」
「アギトの……ということは、まだミラは眠ったままなのでしょう。昨日今日とおぶったまま歩き回らせるのは酷です、もう少し待ちましょう」
かしこまりました。ご配慮ありがとうございます。と、ヘインスは頭を下げて、けれどそのまま宿舎の中へと飛び込んで行ってしまった。
きっと、アギトに私が来たことを伝えに行ったのだろう。
待ってくれてるから早くミラを起こせ、とか。そんなことを言いに。
「アギトとは仲良くなれそうでしたね。いろいろと共通する話もありそうでしたし」
「……どうだろうな。アイツはアイツでミラよりアホっぽかったからな。ちょっと……見ててイライラするくらいには」
な、なんてことを言うのですか。
しかし、ユーゴの故郷の料理を――彼らの元いた世界の味を再現してくれると言うのだから、こればかりは他の誰にも叶えられないことだろう。
それを抜きにしても、彼の優しさ、温かさは、ユーゴに良い影響を与える筈だ。
どんな因果かは知らないが、彼が派遣されたことに感謝しなければな。
少しすると予想通り慌てた様子のアギトがやって来て、その背中の上にはやはり眠りこけたままのミラの姿もあった。
そして、このままでは鍛錬など出来やしないから……と、私達はこの宿舎に併設された鍛錬場へと向かうことにした。
もっとも、特別な施設などを準備する余裕は無かったから、ただ機材を置いただけの広場なのだけれど。




