第二百六十九話【噂に聞く世界】
人を殺す覚悟はあるか。ミラの言葉を乱暴に要約するのならば、そんなところだろうか。
平和で穏やかな世界に生まれ育ったユーゴには、その覚悟が無い。
いいや、そんなものとは縁もゆかりもあろう筈も無かった。
けれど、その言葉には重たい覚悟を感じられた。
ミラは……どんな時、それを決断したのだろうか。
線の内側に自分を置いた彼女は、その区分けをどんな顔でしたのだろう。
それが不安で、怖くて、そして……
「むぐむぐ……んふふ。フィリア、これおいしいワ」
「そうですか? それは良かったです。ふふ、いい子いい子」
その瞬間には鬼気迫る顔をしていたミラが、今は私の膝の上で嬉しそうにお昼ご飯を食べている。
この変貌ぶりもまた恐ろしくてかなわない。
この子にはいったいいくつ顔があるのだ。
もしやとは思うが、人格はふたつだけでは収まっていないのでは……?
「すみません、女王様。そいつ、どうにも懐いた相手にはとことんくっ付きたがる癖があって……」
「私は構いませんよ。むしろ歓迎したいくらいです」
「こうして人懐っこく接してくれた人物も、今は離れ離れになってしまいましたから」
ふいに思い浮かんだ顔は、ミラと同様に私をフィリアと呼び捨てにしてくれたエリーだった。
あの子は……カストル・アポリアは果たしてどうなっただろうか。
無事を祈るばかりではあるが、とても楽観的には考えられない。
ヴェロウの機転があったとしても、標的にされてしまえばひとたまりも無かった筈だから。
「……むぐ……ごくん。任せテ、フィリア。私がいれば、失った街くらいすぐに取り返せるワ」
「それに、魔獣にはそこまで高い知能も無イ。街が街としての機能を持っていたなら、そう簡単には全滅なんてしないでショウ」
「魔人も魔女も、結局は個。群体を潰すのには相応に手間も時間も掛かるってものヨ」
「……そう……ですね。皆、この苦しい状況を力強く生き抜いてきたのです。必ず生き残ってくれていると信じましょう」
ミラは私の言葉に嬉しそうに笑って、またビスケットをいくつも口に頬張った。
ふふ、そんなに慌てなくても、まだまだたくさんありますよ。
「ところで……その、ですね。アギトとユーゴが元いた世界について、もう少しだけ話して貰うことは出来ませんか? やはり気になるというか……」
「あはは、そりゃそうですよね。ユーゴからも断片的に聞かされてると思いますけど、こことは全然違いますから」
すごいわヨ! と、ミラはまだ口いっぱいにものを詰めたまま、興奮気味にそう言った。
この様子だと、アギトはミラに対してかなり踏み込んだ説明もしているのかな。
まったく違う世界、違う文化、それに何より、想像も出来ない別世界の話を。
「えっと……さっきもちょっと話に出た通り、あっちには魔獣なんていません」
「魔人もいないし魔女も……まあ……いや……そういうのが出て来る物語ってんなら、無限にありますけど」
「でも、実際に人が被害に遭うような危険としては存在してません」
「代わりに魔術も錬金術も無いけどネ。でも、その分他の技術が発達してるワ。機械技術の差は歴然ヨ」
機械……か。
ユーザントリアはこのアンスーリァに比べ、機械産業の発達した国だ。
そこに住むミラから見ても大き過ぎる差がある……となれば、なるほどやはり私の抱いていた印象そのものか。
ユーゴから聞いた話を少しずつ思い出す。
湯をかけるだけで完成する簡易的な食事。
それも、保存や携帯だけを主目的とした簡素なものではない、非常に美味なものだと聞く。
そして、彼の話からだけではとても理解出来なかった、おそらく未知の技術で作られているであろう機器。
らーめんと呼ばれた先の食事も、大掛かりな工場で作られる……とのことだったから……
「……本当になんとなく聞いていた通りですが、すごく……その……がっかりしてしまいますね」
「自国がどこよりも優れている……とは、思っていなくても王として口にしたいところなのですが……」
「あはは……なんとなく、そういう反応はマーリンさんっぽいですね」
「あの人も嘆いてましたよ。そんなに素晴らしい技術が生まれるまでに、今からどれだけの時間を費やせばいいんだ、って」
「まあ……俺からすれば、魔術の方がぶっ飛んだ技術だと思うんですけどね……」
互いに無いものねだりをしているだけ……か。
いや、あちらにあってこちらに無いものが多過ぎるようにも思えるが。
そんなアギトの言葉に、またミラは興奮気味に話を始めてくれた。
他にも美味しいものがいっぱいあるのよ、と。
まるで行って食べて来たかのような、そんな喜びようだった。
「はんばーがーは最高ヨ! こっちとは根本的なところでソースが違うのよネ」
「もっとこう……丸一日煮込んだシチューよりも濃厚で、なのにさっぱりした後味で……」
「お前は本当にそればっかりだな……はあ。まあでも、その話については早いとこ相談したいと思ってたんですよね。その……ユーゴはどう思ってるのかな、って」
俺? と、いきなり話題を振られて、ユーゴは困った顔で首を傾げていた。
私達よりも少しだけ離れた場所で、こちらにはしっかり耳を傾けながら食事をしている彼に、アギトはちょっとだけ申し訳無さそうに声を掛ける。
「その……さ。別にここの食事が不味いとは言わないけど、あっちに比べたら味が薄いだろ? だから物足りないかなって」
「俺が子供の頃はさ、それこそハンバーグとかカレーとか、味の濃いものばっかり好きだったから」
「子供の頃……って、今もそんなに変わんないだろ。せいぜい一個二個違うくらいで偉そうにすんな」
もう、どうしてそんな言い方しか出来ないのですか。
ちょっとだけ突っぱねるような口ぶりのユーゴに、アギトは苦笑いを浮かべ……そして……なんだかすごく落ち込んでしまった。
こ、こら、ユーゴっ。謝ってください。
「すみませんっ。ユーゴはその……打ち解けた相手にはとことん強い言葉を使う癖があって……」
「あ、あはは……大丈夫です、なんとなく分かります」
「俺はそういうのあんまりでしたけど、ユーザントリアで似たような歳頃の子とも仲良くしてましたから」
反抗期ですね。と、アギトがそう言えば、ユーゴは足下の石を彼に向かって蹴飛ばした。
もう、食事中にそんなことをしてはいけませんよ。
「……だから、差し出がましいようですけど、俺で良かったらこっちでも作れる向こうの料理を食べさせてあげられたらな、って」
「聞いた感じだと、もうそこそこ長くこっちにいるみたいだけど。それでも、味の好みって簡単には変わりませんし」
「っ! ほ、本当ですか⁉ ならば、以前にユーゴが言っていたらーめんというものも作れたり……」
そ、それは……と、アギトは心底申し訳無さそうに頭を下げてしまった。
あ、ああっ。そんな、責める意図は無いのです。
しかし……そうか。彼の言うらーめんというものは、本当にこの世界のものからは乖離した食事なのだな……
「で、でも、ハンバーグとかオムライスとか、こっちでも再現出来る料理はいくつかあるんです」
「その……ちょっと……いや、かなり高くついちゃう場合もあるんですけど」
「だから、もし食べたいものがあったら、言ってくれれば作り方調べて来るから。こっちでも出来るようなレシピとかさ」
「……ふーん。まあ、食べ物にはあんまりこだわりないんだけど…………? 調べて来る……? そんなのどこで調べるんだよ」
ふむ、はて? と、ユーゴは首を傾げてアギトにそう尋ねた。
確かに、この世界には彼らの知る世界の料理など、レシピはおろか名前すら存在しないだろう。
それをいったいどこで調べようと……
「……あっ。えっと……そうか、そこも違うんだ」
「ユーゴがどういう風に召喚されてるのか知らないけど、俺は向こうにも身体と意識があるんだよ」
「その……ずっとどっちも動いてるわけじゃないんだけど。二日置きに行ったり来たりしてる感じで……」
「……えっ⁈ そ、そんなことが可能なのですか⁉」
待って欲しい、そんなものは聞いたことが無い。
いや、聞いたことも何も、召喚術式の例をユーゴ以外に初めて見るのだが。
「……俺は向こうじゃ死んじゃったからな、行ったり来たりはしてない」
「でもなんか……めんどくさそうだな、それ。こっちだと向こうといろいろ違うし」
「死――っ。そ、そっか……ユーゴはこっちに転生してきたって感じなのかな。ううん……でも、そういうのの方がメジャーだよな……」
召喚術式に多数派も少数派も無いと思うのです……そもそもの絶対数が少ない筈なのですから……
しかし、ユーゴはアギトの言葉にどことなく納得した様子を見せている。
た、多数派なのですか……? 貴方のように、幼いうちから亡くなって、別の世界で暮らすことが……
「……貴方達の元いた世界が、途端に恐ろしい場所に思えてきました。そこには本当に魔術が存在しないのですか……?」
「その……召喚が普遍的なもののような語り口にも思えたのですが……」
「え、ええっと……魔術も召喚術も実在はしないですけど、そういうお話はたくさんありまして……」
魔術の伝承だけが残されていて、実態は他の技術の発展によって残されなかった……ということだろうか。
それもそれで恐ろしくてたまらないが。
アギトはそれからも、もうひとつの世界についての話をしてくれた。
それを聞くユーゴがなんとなく懐かしそうな顔をしているから、やはり彼らは同じ世界からやって来ているのだろう。
もしもそうなのだとしたら、ふたりはずっとずっと仲良くなれるかもしれないな。




