第二百六十話【もうひとりの】
ミラの右手には、一本の短刀が握られているだけだった。
ユーゴが普段使っているのよりももっと短い、捕らえた獣を解体する為に使うナイフのような小さな武器。
けれど、彼女はそれだけで――先日見せてくれたとてつもない威力の魔術など一切使わず、小さな剣と体術だけで魔獣を倒している。
「ほラ、まだまだ行くわヨ。この先、昨日あれだけやったってのニ、もううじゃうじゃ集まって来てるワ」
「早いうちに叩き潰しテ、ここはお前らの住処じゃないって教え込んでやらないト」
その光景はあまりにも異様なものに思えた……かもしれない。
きっと、マリアノさんと出会っていなかったら、私は彼女を……目の前に実在する人間を、とても信じられなかっただろう。
「……あ、貴女はいったい何者なのですか……? 魔術師がそれだけの鍛錬を積む……というのは、聞いたことがありません」
「そもそも彼らは学者で、戦いの為の魔術を造り上げていることからも奇妙なのですが……」
小柄でも強い。鍛錬を積み上げ、肉体的ハンディキャップを覆し……過ぎているが、その度合いは別として。
そういった在り方自体は、マリアノさんのそれと酷似している。けれど……
魔術を極めたのならば、どうしてまた肉体を鍛え上げる必要があっただろうか。
そして、武術によって魔獣を倒せるのならば、どうして魔術をその為に改造する必要があっただろうか。
「その……気を悪くしたら申し訳ありません」
「貴女の在り方は、戦士のそれとも、魔術師のそれとも違うように思えます」
「初めから魔術を修めていたなら、どうして戦いに備えたのか。初めから身体を鍛えていたなら、どうして術を学ぼうと思ったのか」
その前後関係があまりに不明瞭……と言うか、そうは繋がらないだろう、と。
過剰なのだ。そしてそれには、あまりに膨大な時間を要するだろう。
それこそ、幼い頃からのすべてを戦いのみに費やさねば到達出来よう筈も無い。
それを、どうしてこんな幼い少女が……
「……? 自己紹介ならもう終わってるデショ」
「私はミラ=ハークス。術師五家であるハークスの家に生まレ、大魔導士マーリン様に導かレ、そして魔の王を討っタ者」
「戦士でも魔術師でもなイ。私は“天の勇者”ミラ=ハークスよ」
ミラはあまりにも当然と言った顔で――私の疑問の方がおかしいと言いたげな顔で、あっさりとそう言い切ってしまった。
勇者……と、確かに……それは聞いている……が……そ、そうではなくて。
「別に難しい理屈なんて無いワ。必要があったかラ鍛えたのヨ」
「魔術も、武術も。必要になると思ってくれた人がいたかラ、なんだって鍛えて貰ったノ。物を作る技術も、錬金術も、暗殺術も」
「っ⁈ あ、暗殺……? そ、それは俺も聞いてないぞ……? お前、そんなおっかないこと出来たの……?」
今までの私を見てテ、なんで出来ないと思ったのヨ……と、ミラはなんだか驚いた様子のアギトに呆れた顔を向けていた。
た、確かに恐ろしいばかりの言葉に思えたが、しかしそれが出来ないとする道理も無い、か。
だって彼女は、あんな小さなナイフ一本で魔獣の首を刎ねている。
人に取り入る能力――信頼を勝ち取る能力もある……と思う。
手段を問わないのであれば、人間などいくらでも……
「でモ、今の私は魔術師でも戦士でも、ましてや暗殺者でもないワ。勇者と呼ばれテ、それに応えようと思ったんだかラ」
だから、天の勇者ヨ。と、ミラはそう言って、視線を私をユーゴへと向けた。
そう請われて、その望みを叶えようと思ったから。だから、勇者……か。
「のんきに話し込んでる暇なんて無いわヨ。さっさと行ってさっさと潰さないト。ほっといたら被害も出かねないんだカラ」
「っ。そ、そうですね。すみません、足を引っ張ってしまって」
い、いけない。戦ってくれているのはミラなのに、それを私が邪魔してどうするのか。
ミラはそんなことを気に留める様子も無く、またすいすいと山を登り始めた。
その後ろを、さっきまでよりちょっとだけ警戒心を強めたアギトが進む。
そして、彼のすぐ後ろに私とユーゴも付いて行った。
山の中腹に辿り着くまでに、私達は……いいや。ミラは、もう二度魔獣に襲われた。
そのどちらもが、先ほど倒した熊のような魔獣と同じ種のものだった。
身体が大きく、きっと力も強い。
けれど、彼女の敵にはならない敵。
「……ユーゴ。貴方から見て、ミラの戦いぶりはどうでしょうか」
「どこか見ていて不安になるところがあったり、あるいは感心するところがあったりはしませんか」
そんな彼女の戦いを、私達はただ見ているだけだった。
けれど……見ているだけの意味も、私とアギトと、そしてユーゴとではまったく変わって来るだろう。
私は……本当にただ見ているだけ。
この者は強い、戦いをどれだけ任せられそうだ、と。そんな勘定をするのが精一杯だ。
そしてそれも、ジャンセンさんのように的確なものではなく、大まかに強いか弱いか、すごく強いかと判別する程度。
アギトはきっと、ミラの状態を把握出来る筈だ。ずっと共に戦ってきたのだというのだから。
そして……彼女ひとりの手に負えないとなれば、彼も参戦するのだろう。
補助に回るのか、それともミラの前に立つのか。そればかりはまだ分からないが。
そして……ユーゴならばきっと、自分ならこうする、自分ならもっと出来る。と、そういった視点を持てる筈なのだ。
だって、彼は強さの頂を知っている。
今は失ってしまっているだけで、彼にはその経験がある。だから……
「もしも何かに気付いたなら、伝えてあげてください。直接が難しければ、私にでも構いません」
魔術を使っていない今のミラにならば、ユーゴは助言をしてあげられるだろうと思った。
そして、それには彼にとって良い意味が含まれるとも。
よく見て、解析し、そして助言を送る。
その行為には、きっと苦痛も含まれてしまうかもしれない。
戦いを――苦い記憶を想わせてしまうかもしれないだろう。
けれどそれ以上に、ミラに対する理解と、そして仲間意識のようなものを深める効果が望める筈だ。
ジャンセンさん達ともそうしたように、行動を共にし、その在り方を見ることは、何よりも早く友好関係を築くきっかけになるだろう。
そう思って、私はユーゴに声を掛けたのだが……残念ながら、彼は何も言わず、ぷいとそっぽを向いてしまった。
まだ、このふたりに対しては期待らしい期待も抱いていない……ということだろうか。
「……また来るワ。警戒しときなさイ」
そんな私の思惑など知ってか知らずか、ミラはまた魔獣の接近を報せてくれた。
その声に顔を前へと向けると、そこには先ほどまでのものよりずっと小さな……けれど、代わりに数の多い、犬かタヌキのような見た目の魔獣が、侵入者に威嚇している姿が見られた。
「……っ! あの魔獣は……」
もしや……と、脳裏をよぎったのは、いつかヨロクの街を襲った魔獣だった。
砦を越え、街の中を荒らしまわった魔獣の群れの中に、当時のユーゴですらてこずった厄介な魔獣が一頭だけいたのだ。
それが、小さなタヌキのような魔獣だった。
もしやこれも……と、そんな緊張が私の中に芽生えると、それとほぼ同時に手を強く握られた。
ユーゴもまた、同じ不安を抱いているのか。
「っしゃぁあ! 出て来るんならさっさと出てきなさイ! まとめて叩き潰してやるワ!」
ミラはそんな数にも怯まず、斜面を駆け上って群れの中へと突進して行った。そして……
が――っ! と、鈍い音がして、魔獣が一頭大きく吹き飛ばされる。
駆け上った勢いそのまま、ミラが飛び膝蹴りを魔獣の顔面に叩き込んだのだ。
それを皮切りに、魔獣の群れは威嚇から攻撃へと態勢を変える。
少女を取り囲むように広がって、代わる代わる、時には一斉に、群れらしく統率の取れた動きでミラへと襲い掛かる。だが……
正面からでも、側面からでも、背後からでも頭上からでも、どこからでも。
ミラはあらゆる方向からの攻撃を避け、反撃し、魔獣を仕留め続けた。
あの子には死角というものが無いのかとさえ思ってしまうくらい完璧に。
「……うおっ。こっちにも来たか……いや、そりゃ来るよな。はあ……ふう……あ、足震えてきた……っ」
けれど、いくら手練れと言えども、一度に相手出来る数には限りがある。
魔獣はミラだけを敵視しているわけではないらしくて、数頭はこちらへ向かって走って来てしまった。
それを見て、アギトは私達の前に立ちはだかり……
「――魔弾の射手――っ!」
服の下に隠されていた短銃を取り出し、言霊と共に雷の弾丸を発射して魔獣を蹴散らした。
単発式の連射の利かない武器で、不安そうな面持ちで。
けれど――決して慌てず、恐れず、慢心もせずに、一頭ずつ確実に撃ち抜いてみせる。
「そ……それは……まさか、ユーザントリアは雷をも道具に変換してしまえるほどの技術を……っ⁉」
「えっ? あ、いえ、あの……これはえっと……魔具……って言うもので……」
「なんか……ミラが……こう……ま、魔術の……魔術が……魔術で作った…………み、ミラーっ! こ、これってどういうものなんだっけーっ⁈」
っ⁉ し、知らずに使っていたのですか⁈ と言うか、自分で作ったわけでもないのですね⁉
魔獣と戦っている時よりも焦った様子で、アギトはミラにその道具がなんであるかの説明を求める。
が……そ、それは今すべきことではないと思うのですが……
「あ、アギト。今は説明など構いません。あまりミラの集中を乱すようなことは……」
「え? あー……あはは、大丈夫ですよ。あの程度、アイツにとっては敵にすらなりません」
「ちょちょいと全部蹴散らして……全部……全…………こっちにちょっと漏れて来てる⁉」
えっ⁈ な、何故そんなことに今更驚くのですか⁉
と言うか、驚くべき点はそこではないと思うのです。と、そんな私の考えとは違う常識をアギトは持っているらしい。
手早く弾丸を交換して魔獣を倒しつつ、すごくすごく不安そうな顔を――魔獣に向ける恐怖心よりもずっと強い怯えを、圧倒的な力で魔獣を倒しているミラへと向けていた。
「――アイツ、どっか悪いのか……っ! バカミラ、なんかあったなら早く言えってんだ!」
「アギト……? ど、どうしたのですか? ミラの体調が悪い……というのは……」
アイツがあんな魔獣を討ち漏らすわけ無い。
あの程度の魔獣を相手に、こんなに時間が掛かるわけ無いんだ。と、アギトはずいぶんと焦った様子でそう言った。
ま、まさか……いや、今でもあんなに強くて、とても苦戦なんてしているわけでもないのに……
「そもそも魔術すら使ってないのが異常なんだ」
「アイツ、魔力切れか、それとも他の理由か知らないけど、全力で戦えないでいる」
「半分……いや、その半分……いいや、一割くらいの力しか出せてない」
「あのバカ……そういうのはちゃんと報告しろっての」
い、一割……か。もしもそれが本当ならば、全快状態の彼女はとても頼もしいのだな……なんてのんきなことを思ってしまった。
だが、それはつまり、今この瞬間が危険であるということに他ならない。
アギトは短銃を右手に構えたまま、左手でナイフを取り出した。
そしてその切っ先を魔獣へと向けて……
「――穿つ雷電――っ!」
言霊を唱え、刃の先端から雷の矛を撃ち出した。
これもきっと魔具なのだろう。けれど……先ほどものといい、どちらも私の知っている魔具とは出力も用途もかけ離れている。
「女王様、ユーゴ。ちょっとだけ周囲を見ててください」
「一割だったとしても、アイツがやられるとは思わない。でも、あの数を全部処理し切るのは難しい」
「出来る限り迎撃しますけど、俺はアイツほど目も鼻も良くないから」
後ろから襲って来てたら言ってください。最悪、俺達残して逃げて。と、アギトはそう言って私達から二歩だけ前に踏み出した。
きっとあの魔具の攻撃範囲が広いから、巻き添えにしないようにしているのだ。
「――っ。違う……違います……っ。あの時とは違う……ふたりは……この程度の魔獣は……っ」
身体が震える。恐怖に身がすくむ。
違う、違うのだ。と、何度唱えても頭が――脳が、あの忌まわしい記憶を思い出し続けてしまう。
私はまた守られている。
また――私達だけで逃げるという選択を迫られてしまいかねないところへと――――
ぶんぶんと頭を振って、出来る限りネガティブなイメージを払拭する。
けれど……っ。
ミラが頑張っているから、アギトが頑張っているから。
そして……それを私は無力なまま見ているしか出来ないから……どうしても……っ。
状況を理解してか、アギトは私達に少しだけ後退するようにと手信号を送ってくれた。
そんな彼の様子を見て、ミラもこちらへと戻って来る。
そう、そうだ。今は逃げられない状況ではない。
退路は確保されているし、それに魔女のような異常な存在も無い。
今ならばまだ、皆で逃げ延び――――
「――――アンタが戦ってどうすんのヨ――このバカアギト――――ッッ‼」
「――――べぐぅうう――――っっ⁈」
私の中にあった悲観的な考えを蹴散らしたのは……あまりにも唐突に行われた、味方同士の理不尽な暴力だっ……えっ⁈
ミラが……走って来た勢いのままアギトに飛び蹴りをして……あ、あれ……?
「そっちのチビに戦わせないでどうすんのヨ! このバカアギト! 何聞いてたノ! 馬車の中デ!」
「ぐ……ぐふ……おま……え……み、みぞおちはやめろっていつも……じゃなくて!」
「何聞いてたはこっちのセリフだ! ユーゴは今戦う力が無いって――」
それを取り戻させる為にやってんでしょうガ! と、ミラはもう一撃をアギトの脇腹に蹴り込み、そしてそのまま振り返って追いかけて来ていた魔獣も殴り飛ばした。
あ、あの……これはいったい……
「――ユーゴ――っ! アンタもいつまでそうしてるつもりなのヨ!」
「力があるんデショ? 守りたかったものがあるんデショ?」
「そして――守りたいものがまだ残ってんでしょうガ!」
「だったら立っテ、前向いテ、歯ぁ食い縛って戦いなさイ! そういう力を、アンタは貰ったんデショ!」
ミラは魔獣をすべて戦闘不能にするとすぐ、ユーゴに詰め寄ってそう怒鳴りつけた。
そしてそのまま胸ぐらを掴み上げ、激憤の眼差しを彼へと向ける。
「げほっ……や、やめろ、バカミラ! 力があるとか無いとか、そんなの関係無いだろ」
「戦うってのは怖いことで、嫌なことで。それはお前だって分かって……」
「――関係無いのヨ! やんなきゃいけないかラやる! 自分にしか出来ないかラやる! 理由なんてそれで充分デショ!」
根性論過ぎる! と、アギトはミラの手を掴んで、ユーゴを離すようにと促す。
けれど彼女は手を離す様子も無くて、そんな彼女に睨まれていても……ユーゴはまだ……虚ろな目をしたままで……
「バカ! バカミラ! そんな昭和の根性論が通用するか! この令和の時代に!」
「やらなきゃならないも何も、その為の力が今のユーゴには――」
「――あるわヨ――っ! まだ――まだ残ってル! まだ、アンタの中にはフィリアから貰った力が残ってんのヨ――っ!」
「アンタはそれを使ってみんなを――フィリアを守りたかったんじゃないノ⁉ だったら――今からでもまたやんなさイ――!」
――え――? 私……から……?
ま、待て。私はその話をした覚えは無い。
ユーゴには力がある……とは説明したが、私が何かをしたなんてひと言も……
ミラの言葉に、ユーゴは目を丸くしていた。
驚いた顔で――感情のある、人間らしい目付きで、ミラを――そして、アギトを見て……
「――このバカの言葉でアンタも察したデショ」
「私はアンタを――その術式を知っていル。アンタが何を望まれテここにいるのかを、嫌と言うほど知ってんのヨ」
――召喚術式――
ミラはその単語を口にして、それからようやく、ユーゴを少しだけ突き飛ばすように手を離した。
待て――待て、待て。
嘘だ。いくらなんでも――そんな偶然があるものか。
まさか――いや、今の口ぶり。そしてユーゴの反応。まさか本当に――
「――ここのバカアギトもアンタと同じ――別の世界から来た人間ヨ――」
「だからこそ――私はアンタが何をしたいカ、何をすべきカ、何を望まれているカを知っていル――」
ミラは真剣な面持ちでそう言った。
冗談で口に出来る言葉ではない――嘘として頭に浮かぶ文言ではない。
召喚術式――異世界よりの人の召喚。
その結果がここにふたりいるのだ。と、彼女はそう言って、そしてユーゴの手を取った。
――だからこそ、必ず力になりたいのだ――と。




