第二百四十五話【頼もしいのに、気が抜ける】
何が起こるのか予想する間も無く、そして何が起こったのか理解する間も無く、魔獣は一瞬で討伐されていた。
今のは……魔術……だろうか。
炎の檻が私達を魔獣から隔離して、無数の炎の槍が魔獣を焼き貫く。
振り返って冷静に考えてみれば、結果はそんなところだろうか。
いいや、冷静でなどいられていないのだが。
「――あ――貴方達はいったい――」
少年と少女は怯えることも身構えることもせず、死した魔獣を前にしていた。
完全に死亡したのだと、動かないのだと確認しているようだ。
そしてそれが終わるとすぐ――
「――全力で手加減しろとか、何を気の抜けること言ってんのヨ――このバカアギト――ッ! ふしゃーっっ!」
「い――ででででででっっ⁈ 噛むな! 噛むな! 結果としては全力で加減してただろうが! しなかったらいろいろヤバかっただろうが! だから噛むな――いでででででっ⁉」
……すぐ……取っ組み合いが始まってしまった。
い、いったいどうしたことか。
眩いばかりのオレンジの髪を振り乱し、少女は少年に飛びついてその肩口を思い切り齧っている。
少年はそれを受けて、本気で痛がっているように見えた。
本気で……ほ、本当に食い殺そうとしているのではないだろうな……?
「あ、あの……もしもし……?」
い、いけない。状況が混雑し過ぎていて踏み込めない。
今の魔獣を焼き払ったのは、少女の方だろうか。
ミラ……と、呼ばれていたが、それが彼女の名前かな。
そして、少年の方はバカアギト……と呼ばれていたが……ええと……
「……はっ。そうだ、ユーゴ! 大丈夫ですか! 怪我はありませんか⁉」
少しの間呆気にとられたが、ハッと我に返ってみれば、もっと心配なことが身近にあったではないか。
私は慌ててユーゴの肩を抱き、まだ真っ白なままの顔を覗き込む。
起こったことにまだ理解が追い付いていないらしくて……あるいは、失意の真っ只中にいる所為で、か。
ぼうっとしたままで、呼び掛けても揺すっても返事は無かった。
「いでででで! バカ! バカミラ! 噛むんじゃない! みっともない! それより先にすべきことがあんだろうが!」
「がるるるる……んむ、そうネ。そこのふたり、大丈夫だっタ? 怪我なんてさせてないと思うケド」
そんな私達に気付いたからか、それとももとからそういうやり取りが日常的にあったのか、ふたり組は何も無かったかのような顔でこちらの心配をしてくれた。
あの……私としては、今真っ赤になっている少年の首の方が心配なのだけれど……
「え、ええと……はい、私にもユーゴにも怪我はありません。助けていただいてありがとうございました」
「いえいえ、お礼なんて。俺達にはこれくらいしか出来ることありませんから」
アンタは何もしてないデショ。と、少女は少年の脇をつつきながらそう言った。
ということは、やはりあの魔術はこちらの少女のものだったか。
「私はフィリアと申します。こちらはユーゴ。おふたりのお名前を伺ってもよろしいですか」
「それと、ぜひお礼をさせてください。今回ばかりは本当にもうだめかと……」
「お、お礼なんてそんな……っとと。俺はアギトです。こっちのちびっちゃいのが……」
誰がチビヨ! ふしゃーっ! と、少年はまた少女に噛み付かれてしまった。
あ、ああっ。先ほども噛んでいたところをまた……それも、さっきから一度も手加減をしてなどいない。
硬く焼き過ぎたステーキにかぶりついているかのように、顎に思い切り力が入っているのが分かる。
そして……少年が本気で痛がっているのも……
「むがむが……ぺっ。私はミラ、ミラ=ハークス。ちょっと人探しに来ててネ、いろいろと見て回ってたんだケド」
「見て回り過ぎだってんだ、このアホ。もう予定より遅れてるんだぞ。まあ、お前の寄り道癖は今に始まったもんじゃないけどさ」
なにヨ! なんだと! と、ふたりは互いの襟元を掴み上げ、むぎぎぎ、むぐぐぐ、と唸り声を上げながら睨み合いを始めた。
ど、どうしてこうも喧嘩ばかりしているのだろう、このふたりは……なんて私が心配になったのも束の間。
ふたりはけらけら笑い始めて、仲良さげにじゃれ合い始めた。
か、感情のブレ幅が大き過ぎる……なんて忙しいふたりだろうか……
「フィリアさん、でしたよね。帰りはどっちに向かいますか? その……また魔獣に襲われたりしたら困るし、一応聞いておこうかと」
「え……ええと、私はこのまま中心街を通って……」
そっちネ。と、少女は私の向いた方へと一歩だけ踏み出して……そして、鼻をヒクつかせ始めた。
え、ええっと……彼女は犬か何かなのだろうか……噛み付いていたし……
「……ん、そっちの方にはいなさそうネ。じゃあ、ここでお別れしまショウ。私達はこのままこの先へ向かうワ。まだ何頭か残ってそうだかラ」
「そ、そんなことが分かるのですか…………に、ニオイで……? す、すごいというか……」
変というか……奇妙というか……
少年はやや苦い顔で小さく頷いていた。
私の考えていることがよく分かる、と。そう言われた気分だ。
しかし、ユーゴやマリアノさんが魔獣を見付けていたのとは別の仕組みで……けれど、それ以上の精度で感知しているようだ。
そればかりは感心せざるを得ない。
「それじゃ、俺達はこれで。多分、しばらくはこの辺で魔獣倒しながら生活してると思うんで、また困ったら言ってください」
「って……まだどこに泊まるのかとか決まってないですけど」
失礼します。と、少年アギトはそう言って、先ほど少女ミラが指差した方へと歩き出そうと……して…………少女が一向に動こうとしないから、困った様子でその手を引っ張って……引っ張ろうとして…………?
「……あ、あの……? ど、どうかなさいましたか……?」
きっと思い切り引っ張っているのだろうが、少女は私をじっと見つめたまま動こうとしなかった。
え、ええと……私の顔に何か付いているだろうか。
それとも、覚えがあるだろうか。
あるいは、そのどちらでもない……のだろうか。
答えは…………なんとも判別のつかぬ結果で示された。
「わっ。え、ええと……」
「――あっ⁉ ば――バカミラ! 初対面で何やってんだ!」
少女は目をキラキラさせ始めて、そして……私に思い切り抱き着いて来た。
そして……すりすりと気持ち良さそうに甘え始めて…………い、いけない…………っ。
ひ、庇護欲が……先ほどあんなにあっさりと魔獣を倒して見せた猛者であることは知っているのに、甘えん坊な姿をこうも見せ付けられると……
「……ふふ。愛らしいですね、貴女は。いい子いい子」
「あっ、ちょっ、あ、甘やかさなくて大丈夫ですから!」
「バカミラ! 誰彼構わず抱き着くな! こら! ちょっ……おま……い、いい加減に…………お、おお…………」
少女の頭を撫でてあげると、気持ち良さそうに目を細めて更にくっ付いてくる。
背中を撫でてあげると、すりすりと頭を擦り付けてくる。
ああ……なんだろう、エリーとよく似た愛らしさだ。
あの子はここまで甘えん坊ではなかったが、しかしその本質は無垢であることだった。
この少女もまた……ふふ……
ぱちん。と、乾いた音がして、それでようやく少女は私から離れていった。
少年が鞄の中から紙の束を取り出して、それで……なるべく私には当たらないようにと精一杯配慮しながら、少女の頭だけを器用に殴ったのだ。
そして、そんなことをされたから当然……と言わんばかりに、少女はまた怒りの形相で少年に飛び掛かって噛み付いた。
「いだだだだだだっ⁉ 痛い! 痛いっての! バカミラ!」
「そ、それじゃあ俺達はこれで! 気を付けて帰ってくださいね! コイツが言うんなら、帰り道には魔獣なんていないと思いますけ……いでででで!」
「がるるる……むが。またネ、フィリア。困ったら大声で私を呼ぶといいワ。とりあえず、この街の中にいる限りは駆け付けるカラ」
そう言い残すと、ふたりは今度こそ果樹園の奥へと歩き始め……始め……てすぐに、少年が急いでこちらへと戻って来た。
ま、まだ何かあるのだろうか。もう正直疲れ果ててしまったのだけれど……
「忘れてた忘れてた、いけないいけない」
「え、ええと……ま、まだ何かありましたか?」
いえ、ちょっとしたことなんですけど。と、少年はそう言うと、私の隣に顔を向けた。
そして少しだけかがむと、その目線は……
「お姉さん、守ってたんだよな。偉いぞ、かっこ良かったぞ。これからも、ちゃんと守ってあげるんだぞ」
ユーゴと平行になった目線で、彼はそう言い残してまたすぐに走り去った。
それだけ言う為に戻って来た……のか。なんだか……その……
「……へ、変な方々でしたね。その……良い意味でも、悪い意味でも」
騒がしくて、けれど……温かいふたりだったな。
人探しをしている……と言っていたが、あんな彼らならば報われて欲しいところだ。
「……帰りましょうか。ほら、ユーゴ。また手を繋ぎましょう」
安全だと言って貰えた帰り道へ向けて進もうと、私はユーゴの手を握った。
けれど……彼は私の手を握り返すこともせず、ただぼうっと彼らの消えた先を……果樹園の奥をじっと見つめていた。
もしかして、あのアギト少年に言われたことを思い返しているのだろうか。
ユーゴにとって、誰かを守るというのは大きな意味を持っていて……そして……今に限っては、嫌な意味も持っていて……
「……ありがとうございます。また、守ってくださいましたね」
「貴方はいつでも……どんな時でも、どんな状態でも、私を守ってくださいます。本当に、ありがとうございます」
そういえば、私がお礼を言うタイミングを逃してしまっていたな。なんて、そんなことを思い出して頭を下げると、ユーゴはちょっとだけ私の手を握り返してくれた。
それは……どんな意味を持つのだろう。
そんなの当たり前だ、と。普通のことだと言いたいのか。
それとも……守れなかった、と。そんな嘆きが含まれるだろうか。
それの真意は分からないままだったけれど、私達はそれからすぐに宮へ戻る道を歩き始めた。




