第二百四十四話【失われた力、遺された希望、そして】
「――大魔導士マーリン、黄金騎士フリードリッヒ。勇者の英雄譚……ですか。はあ」
大国ユーザントリアからの援軍が到着したその日の晩、私の頭の中にはそんな言葉ばかりがぐるぐる巡っていた。
いいや、それ以外に考えることが……考えて何か前進しそうなものごとが存在しなかった、か。
リリィが興奮気味に語ってくれたそれらの逸話が真実だとして、果たしてそんな英傑が外国へ派遣などされるだろうか。
これが古くより親交のある友好国というのならば話は別だろうが。
しかし、私達アンスーリァとユーザントリアとの間にはさしたる歴史も無い。
強いて挙げるとするならば、どちらもまだ歴史の浅い王政国家であること。
それ故に、かつては貿易もそれなりに行われていたことだろうか。
だが、それもいつの話かと頭をひねる必要があるほど昔の話だ。
少なくとも、先王の時代にはほとんど交流が存在しなかった。
それを、縋る思いで私が連絡を送った、そして返事があったというだけ。
「…………はあぁ。いけませんね、どうにも。少しばかりでも希望を見せられたから……」
そうだ、そんな素晴らしい戦士が派遣される筈が無い。
まず前提に、英雄譚というおとぎ話とそう変わらないものの真贋を問う必要もあるが、そんなことは些細な問題だ。
勇者とその一行であろうと、ただの腕利きであろうと、特別素晴らしいのならば貸して貰える筈が無い。この事実だけは覆らない。
それでも、希望を一瞬でも感じてしまったから……
私の頭の中では、あまりにも都合の良い妄想ばかりが繰り返されてしまう。
もし……もしも、本当にそんなふたりが到着したならば、と。
考えれば考えるだけ空しくなってしまうのに。
そして私はシーツの中に頭まで潜り込んで、妄想から逃げ出すように眠りに就いた。
あり得もしない希望に縋るな。
それならばまだ、ジャンセンさんや伯爵の生存を望む方がマシだ。
確かに絶望的な状況ではあったが、それでも彼らならば……と。
翌々日、私は宮の書類仕事の合間を縫って、二日ぶりにユーゴの部屋を訪れていた。
例の式典の当日と、その翌日……つまりは昨日一昨日のことなのだが、その二日間は……彼の前に顔を出すのもはばかられるくらい、私自身が打ちのめされてしまっていたから。
「ユーゴ、起きていますか。入りますよ」
こんこん。と、ドアをノックして、少しだけ待ってから部屋へと入る。
返事くらい待てよ、挨拶の意味あるのか。と、そんな悪態をついてくれればどれだけ嬉しいことか。
彼はまだ、ベッドの端の方で丸くなったままだ。
こんな彼の前で、私だけは暗い顔を見せてはならない。
これはあの敗走からずっと心に決めて、可能な限り貫いて来たことだ。
彼はきっと、私が弱っていれば心配してしまう。
自分の方がずっとずっと苦しかろうと、他人の痛みを理解し、気に掛けてしまう。
それでは彼自身が一向に癒されない。だから、と。
「食事は摂ってくださってますね。もしも足りなければ、何かしらの合図を出してください。食器をひっくり返して置いておくとか、スプーンを曲げておくとか」
「ああ、でも……お皿を割ったりはしないでくださいね。物であろうと、壊せば貴方は少なからず罪悪感を抱いてしまうでしょう」
「それに、ケガをしては元も子もありませんから」
返事は……無い。
あまりにも一方的なコミュニケーションも、もうずっとずっと昔からこうであるような錯覚すら覚えてしまう。
ジャンセンさんと喧嘩をする彼の姿も、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
「……先日ですね、以前お話しした外国からの援軍が到着しました。ユーザントリアという、ここからずっと西へ行った先、大陸にある大きな国から」
「皆、白銀に輝く騎士甲冑を身に纏い、凛とした態度で私と向き合っていました」
「浮き足立つものはひとりもおらず、しかし私達を侮るものもいません」
誰も彼もが不屈の精神を持つ腕利きの戦士なのだろう。
それと同時に、他者を尊重する精神も持ち合わせている。
なんと素晴らしい方々だっただろう。と、私はそんな話を……まったく心にも無いというほどでもないが、しかし本心とは離れた言葉を彼の前で語る。
そうだ、来てくれた彼らには罪など無い。
いえ、当然、罪人である筈は無いのですが、そういう意味ではなくて。
彼らには落胆される謂れはないし、むしろ現実的に考えられる中で、もっとも優れた増援であると言っても過言ではない。
そう……そうなのだ。
それでも、失ったものが大き過ぎるから……どうしても……
「……っ。彼らとならば、皆の仇を討てるかもしれません。それほどに優れた部隊が派遣されたのです」
「ただ……今は特別隊も機能していませんし、国軍を出動させる準備もありませんから。すぐにとはいきませんが……」
少しだけ勇気を振り絞って、私は心にも無い言葉を絞り出した。
とてもではないが、あの魔女を倒す算段など立ちようもない。
だがそれでも……それでも、少しでも状況が好転したと彼に伝えたかった。
私のバレやすい嘘だったとしても、今はそんな方法しか浮かばない。
ユーゴが少しでも元気になるのならば、あとでどれだけ言われようとも構わない。
今はとにかく、彼が気力を取り戻せるように……
「……ユーゴ。少しだけ、外を歩きませんか。宮の仕事も区切りがついて、気分転換をしたいところだったのです」
「貴方もずっとそこにいては飽いてしまうでしょう。遠くへ行くわけではありませんが、どうですか」
返事は無かった。やはり、まだ無理か。
そう思って諦めかけた時、彼の身体が少しだけ動いたのに気付いた。
とりあえず、眠っていたわけではないみたいだ。
そして……私の言葉がまったく届いていなかったわけでもないらしい。
ゆっくりと寝返りを打って、うつろな目をこちらへと向けてくれた。
「っ。ほら、行きましょう。貴方がそんな風に塞ぎ込んでしまう未来を、皆は求めてなどいませんでした」
「覚えていませんか。ジャンセンさんが貴方に学問を修めさせようとしたことを」
「あれはきっと、貴方の利用価値を上げるだけが目的ではなかった筈です」
「貴方の見識を広げ、世界を広げ、より良い未来へと進んで行けるように、と。そう願ってのことだったと私は思うのです」
こんな口先ばかりの言葉でも、ユーゴはじっと聞いてくれていた。
耳を塞ぐ気力すら無いだけかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
今、彼が私を見て、言葉を聞いてくれている。それだけで嬉しい。
「……っ! ユーゴ……そうです、一緒に散歩に行きましょう。今日は空も晴れていますから、きっと気持ちが良いですよ」
そして、ユーゴはゆっくりと立ち上がって、何も言わないままながらも私のそばまで歩いて来てくれた。
ああ、良かった。まだ……まだ、私のそばに居ようとしてくれる……っ。
心の奥底で、もう私への情も失ってしまっていたらどうしようか……と、そんな思いを抱いた日もある。
守るべきものとしての私にすら興味を失ってしまっていたら、と。
もしもそうならば、彼を立ち直らせるものが思い当たらなかったから。
彼の中にある他者への献身以外に、彼を奮い立たせるものを知らなかったから。
「さあ、手を取って。ずっと部屋にこもっていたのですから、身体もなまっているでしょう。転んではいけませんから、ほら」
ユーゴは私にされるがままだった。
私達は手を繋いで部屋を後にして、そのまま宮の外へと……ランデルの街へと散歩に出かけた。
ただ……段差があったり、風が吹いたりする度に、彼が私の手を少しだけ握り返してくれて……
「……変わりませんね。ええ……貴方は何も変わってなどいません」
「優しくて、暖かで、そして誰よりも強い。私の知っているユーゴのまま」
「ただ、今は少し、疲れてしまっているだけです」
そんな彼の手を握り返して、私は街の中をゆっくりと進む。
ランデルには被害も出ていないから、彼の心の傷を抉るものも少ないだろう。
これについては目論見通りだったが……しかし同時に、何かが変わる予兆も見られなかった。
「……もう少し歩きましょう。そうですね……そういえば、貴方はこのランデルも、中心街以外はあまり訪れたことがありませんでしたか」
「マチュシーやクロープへ赴く際には通り過ぎることもありましたが、足を止めてゆっくり街並みを観察する機会は無かった筈です」
ならば、今日はこのランデルのすべてを……それだと範囲が広過ぎるか。
ならばせめて、普段足を運ばない街はずれを見て回ろう。
少しでも新しい刺激を与えてあげないと。
ただでさえ、つまらないつまらないと言っていたのだから。
「さあ、こちらです。ここから先は道路も荒れますから、足下に気を付けてくださいね」
それはお前だろ。と、そう言いたかったのか、繋いだ手がきゅっと握り返された。
ああ、やはりそうだ。彼は何も変わっていない。
彼の中身については何も変わっていない、精神的に疲れ過ぎてしまっているだけ。
大丈夫、きっとまた元気になる。
そんなユーゴの小さな反応が嬉しくて、私はいろいろと声を掛けながらどんどん進んで行った。
我ながらはしゃぎ過ぎているかなとも思ってしまうが、少しくらいは許されるだろう。
だって、やっと無事を確認出来たのだ。
彼の心は、まだ形を残してここにあるのだ、と。
「……と、少し来過ぎてしまいましたね。そろそろ戻らないと、帰りが大変です」
「まだもう少し……いえ、もっと。貴方と一緒に歩いていたいですが……またパールに怒られてしまいますから」
気付けば繁華街も住宅街も通り過ぎて、畑や果樹園ばかりが並ぶ街はずれまでやって来ていた。
ここから先の長閑な景色こそ、今の彼には見せてあげたいものだが……パールにあれこれ言われてしまうのは事実だ。
それに、あまり遠出をさせて疲れさせてしまうと、体力の回復の為に心の回復が遅れてしまいかねない。
だから、少し惜しいがそろそろ戻らないと。
「また来ましょう。次はこれよりももっと先へ……いえ、他の場所に行くのも良いかもしれませんね」
「どちらにしても、もっともっと……貴方と共に、もっとこの国を……この世界を、のんびりと散歩したいものです」
ぎゅ。と、今日一番強く手を握り返されて、私はまだうつろな表情の彼をそっと抱き締めた。
もしかしたら、そんなのんきなこと言っているんじゃないと怒ったのかもしれないけれど。
でも……もしも同じ考えを持ってくれていたなら、それほど嬉しいことは無いから。
さあ、もう帰ろう。と、私はユーゴを離して、そしてまた手を握り直し、宮へ向けて来た道を戻り始める。と、その時のことだった。
がさがさと林の奥から音が聞こえて――
「――っ! ここで働く人……でしょうか。ランデルは安全な街ですし、見張りの数も多い。街はずれと言っても、まさか魔獣が入り込むなど……っ」
ぎゅうとユーゴの手を握り締めて、私は音のする方をじっと睨み付けた。
大丈夫、絶対に魔獣や魔人ではない。
この街にはそんな危険なものは紛れ込まない。
この瞬間には――ようやくユーゴの心に安らぎが戻り始めたばかりのこの瞬間には、そんな嫌な出来事は絶対に――――
「――っ。ユーゴ、ゆっくりと後退してください。まだ……まだ、こちらには気付いていない筈です……っ」
見えてしまったものは、赤黒い体毛に覆われた中型の魔獣だった。
まさか、ランデルの居住区域にまで魔獣が侵入するようになっていたとは……っ。
と、そんなことに愕然としている場合ではない。
今はとにかく、安全にこの場を離脱しないと。
近くに憲兵や軍の姿は無い。
もしも発覚してしまえば、今の私達では……
「――ユーゴ? どうしたのですか? ゆっくりと後退を…………っ」
絶対に気付かれてはいけない。
そんな思いから彼にその存在を伝えたことは、あまりにも浅はかな考えだったと後悔させられる。
ユーゴの瞳はそれをじっと捉えて、他のものを一切映していない。
先ほどまで手を握るくらいしか反応を見せてくれなかった彼が、恐怖に震えて青ざめてしまっていた。
「ユーゴ……いけない、落ち着いてください。大丈夫、ゆっくり逃げましょう。せめて、誰か兵のいるところまで行ければ……っ!」
足音は……立てていない筈だ。では、話し声を聞き取られたか。
いいや、そんなに耳が良いのならば、もうとっくに気付いて襲われていた筈。
では……なんだ。偶然か。ただの気まぐれだとでも言うつもりか。
一歩ずつ。ゆっくりと、一歩ずつで良い。と、そう念じながら後ずさりしていた私達に、魔獣は大きな大きな目をぎょろりと向けた。
顔面のど真ん中にあるひとつ眼を……いいや、少しだけ左に寄っているか、或いは顔面そのものの右半分が腫れているのか。
どちらにせよ、ただの動物からはかけ離れた異形の顔がこちらを向いた。
戦う力など持ち合わせない私達の方へと――
「――っ。うわぁああ――っ!」
「っ! ユーゴ! いけません!」
それがこちらを確実に補足したと感じ取ったのか、ユーゴはすぐさま攻撃の体制へと移った。
剣など持っていなかったから、石を拾い上げてそれに投げつけたのだ。
あの時は果樹のどれよりも巨大な魔獣すら一撃で貫いた石つぶては、魔獣の足にぶつかってすぐに地面に落下する。
やはり、ユーゴにはもう――
「――っ! ユーゴ!」
今の攻撃にもなっていない攻撃によってか、魔獣は全身の毛を逆立ててこちらへゆっくりにじり寄り始めた。
まだ、こちらの力を推し量っている段階だろうか。
それは……幸いか、それとも不幸か。
まだ猶予がある、死までの時間が残されていると捉えるべきか。
それとも……単に襲うしか能の無い程度ではない、憲兵のひとりやふたりが駆け付けたとてなんともならない個体だと捉えるべきか……っ。
そんな魔獣を相手に、ユーゴは震えあがってしまっていた。
今まで魔獣を前に恐怖など見せたことは無かったのに、今のユーゴはまるであの魔女を目の前にしているかのように怯えてしまっていた。
けれど……彼はまた、私の前に立っていた。
いつものように――いつもよりずっと小さな背中で、私を――
「――ぅぁああ――っ! なんで――なんでだよ――っっ!」
ぐおお。と、魔獣は雄叫びを上げて、腹だか背中だか分からないところから、また新たに二本の脚を生やした。
いいや、体毛に隠れていただけなのかもしれない。
だが、そんなことはどうでも良い。
肝心なのは、それがこちらの戦力を把握し終えて、攻撃に移ろうという合図だということだけだ。
ユーゴは叫びながら何度も何度も石つぶてを投げつけた。
けれど……それが魔獣にダメージを与えることも、恐れを買うことも無かった。
無情なほど冷静に、魔獣はじっくりとこちらへ近付いてくる。
力のすべてを失ってなお、私を守ろうとしてくれているユーゴのすぐそばまで――――
「――――伏せてください――――っ!」
声が聞こえた。男の声だった。
いいや、男の子の声……だった。
まだあどけなさの残る少年の声が聞こえて、そして私達の目の前に――周囲に、格子状に炎が噴き上がった。
「――――全力全開で手加減してぶっ飛ばせ――――ミラ――――っっ!」
「――――言われなくても分かってるわヨ――――ッ! 連なる菫――改――――ッ!」
もう一度、少年の声が聞こえた。
そして次に、ばちばちと何かが爆ぜる音が――空気が燃えて、塵が爆ぜる音が聞こえた。
それとほとんど変わらないくらいに少女の声が聞こえて、そして……
「――ケガしてないですか――っ! もう大丈夫です! 安心してください!」
私達の目の前に、無数の火の玉が現れた。
そしてそれはすぐに魔獣を貫いて、身動きひとつ取らせぬうちに焼き尽くしてしまう。
それから少しして、オレンジ髪の少女と黒髪の少年が私達の前に駆け付けた。




