第二百四十一話【違ったのだ】
ランデルへの決死の逃走劇から十五日が経過した。
どういうわけか、その後魔女の攻撃は観測されていない。
それでも、私達の受けた打撃はあまりにも大き過ぎた。
「――以上をもちまして、定例議会を終結します」
「……っ。予期出来ていたことですが……非常に厳しい状況に陥ってしまいましたね」
私の手を握って、リリィはそう言った。
ああ、ええと。今は何をしていたのだったか。
そうだ、議会に出席していたのだ。
特別隊のほとんどを失い、私個人で指揮出来る軍事力は消滅した。
しかし、解放作戦はなんとしても続けなければならない。
だから、もう一度国軍の召集権を認めて欲しい……と、それを直訴しに……
「……陛下? しっかりしてください、女王陛下。戻りましょう、執務室へ。お気持ちは分かりますが……」
「リリィ……ええと……すみません、少しぼうっとしてしまって」
「そろそろですよね、議会が始まるのは。集中し直しますから、少しだけ待ってください」
そうだ、足を止めてはならない。
この命は戦う為に生き永らえさせて貰ったものだ。
誰をも見殺しにしてこうして逃げ延びたのは、もう一度国を取り戻す為。
だというのに……いけない、まだ気落ちしたままでいる。
ぱしぱしと両手で頬を打って、私はまた資料の再確認に取り掛かった。
けれど……どういうわけか、議員は皆ぞろぞろと退室し始めて……
「……陛下。本日の定例議会は閉会しました」
「残念ながら、望む結果は得られていません。陛下には軍事指揮権の再発行が認められておらず、また、軍の召集権と、及び編成権も未だ破棄されたままです」
リリィは私の手を握ったまま、沈痛な面持ちでそう言った。
閉会……終わってしまっていた……?
ああ、そうか。少しだけぼうっとしていたつもりだったけれど、重要な議会のすべてを聞き逃すほどに呆けてしまっていたのですね。
なんと……なんと情けない話だろう。
「……すみません、リリィ。この十日余りでしっかり休んだつもりでしたが、どうにもまだ身体が回復し切っていなかったようです」
どんなに呆けた頭でも、議会の承認が得られないことはなんとなく予想していた。
というよりも、これでもう一度軍を返してくれとのたまって、それで通ってしまうのならば議会の意味が無い。
私に権利が戻らなかったことは、このアンスーリァ王政が未だ機能を果たしているという証拠でもある。
だから、それに恨み言を言うつもりは一切無い。
それでも、私は歩みを止めてはならない。
まだどこか心配そうな顔をしているリリィの手を引いて、私はまっすぐ執務室へと戻る。
軍が使えないのならば、他の使えるものを最大限に活用する他に無い。
現状を再確認すべきだ。
今の私には――すべてを失ったと思っていた私には、いったい何が残されている。
「南方……バス半島や、オクソフォンをはじめとした四都市の解放はどの程度進んでいるのでしょう」
「確かに、戦闘部隊の大半は失ってしまいましたが、特別隊の役割はそれだけではなかった筈です」
「ナリッドの復興やウェリズ、カンビレッジの維持。そして未解放地区の調査と交渉をお願いしてあった筈ですが……」
私の問いに、リリィは苦い顔を浮かべて目を伏せた。
いったい何があったと言うのか。
もしや、魔女はランデルだけを避けて、この島の南部へ侵攻を続けていた……などということがあり得るのか。
「……申し上げ難いのですが……女王陛下、特別隊は現在すべての機能を停止しています」
「というのも、ジャンセン殿の不在により、末端への指示が滞ってしまっているのです」
「もちろん、着手している事業については続行中ですが、しかし……」
「……そう……でしたか。すみません、当然のことでしたね」
「では、特別隊の全指揮権を私が統括します。各地に伝令を遣わせてください」
リリィはまた私から目を背け、ぐっと唇を噛んでゆっくりと深呼吸をした。
何かを言おうとしている。
これほどしっかりと身構えてからでなければ言葉に出来ないようなことが、今の彼女の中にあるらしい。
しかし、私にはそれが想像出来なくて……
「……現在、特別隊はすべての機能を停止しています。それは何も、現場の作業状況のみを表すのではありません」
「ランデルから各地へ派遣する為の人材も、馬車も、資源も。何もかもが枯渇し、隊そのものが凍結状態にあります」
「……人も……道具も……何もかもが足りていない……?」
「ああ、ええと……そうでしたね。ダーンフールに拠点を設けるに際して、隊の資金や物資はほとんど投入してしまったのでした」
「しかし、それでも連絡すら出来ない……というのは……」
リリィはくっとまた歯を食い縛って、そして私の前に一歩だけ踏み出した。
その表情は力強く、とても決意のこもった眼差しをしていて……とても……怒りを感じさせるもので……
「――女王陛下。僭越ながら申し上げます。現在、陛下のお言葉に従う部隊は存在しません」
「特別隊はそもそも、ジャンセン殿によって結成された盗賊団を基に組み上げられた組織です。彼を失った今、統率力は絶無に等しい」
「報酬も準備出来ず、危険な役割を受け持たなければならない今の状況では、いかに陛下のお言葉とはいえ部隊は動かないでしょう」
「……ああ……そういうことだったのですね……」
「リリィ、すみません。そこまではっきり言われなければ理解出来ないなんて、私は自覚以上に腑抜けてしまっているのですね」
申し訳ありません。と、リリィは深く頭を下げた。
そう……か。もう、誰も私には付いて来てくれない……か。
なんとまあ……至極当然、何を思い上がっていたのかと突き付けられた気分だ。
皆にとって父や母のような存在であるジャンセンさんとマリアノさんを殺したのは、他でもない私なのだ。
どうして従ってくれるだろうと考えてしまったのか。
「……はあ。では、特別隊については少し様子を見ましょう」
「確かに、彼らには私を恨む道理があり、同時に私の言葉を拒む理由もある」
「けれど、いつか気付いてくださる筈です。ジャンセンさんが何を残したかったのか、どうして盗賊団を特別隊というものにしたのか」
「気付けばきっと、手を貸してくださる人も出て来るでしょう」
それまでは彼らの心を刺激しないようにしよう。
大丈夫、皆がジャンセンさんの真意を履き違える筈が無い。
彼らは本当にジャンセンさんを愛していたし、その思想に酔いしれたからこそ特別隊として形を変えてなお付いて来ていた筈だ。
ならば、きっと大丈夫。
「しかし、そうなると困りましたね。軍は召集出来ない、特別隊も凍結」
「となると……私には、貴方とパールと、そして私自身の手足しか残されていません。これではとても、解放作戦を続行するのは……」
「……陛下。その件なのですが……先ほどの議会でもありました通り、最終防衛線外へ向けての国土奪還作戦は、非常に苛烈で、同時に危険極まりない行為だという批判がありました。そして……」
議会の多数決により、解放作戦の凍結も決定されています。と、リリィは私の目をまっすぐに見つめたままそう言った。
議会で……ええと……ああ、そうか。私が呆けている間にそんなことが決まってしまったのか。
それはいただけない、なんとかして撤回させなければ。
でないと、どうして私がここに残っているのか……
「……国を……民を、すべてを取り戻さなくては……っ」
「リリィ、議会を緊急招集してください。解放作戦はなんとしても続行します。その為には特別隊に資金援助をいただかないと」
「作戦の凍結などもってのほかです、撤回させなければ」
「落ち着いてください、女王陛下。つい先ほど締結したばかりの取り決めが、こんなにも早くに覆せる筈がありません」
「それに、たとえ特別隊も国軍も総動員出来たとして、ジャンセン殿やマリアノ殿……それに……ユーゴさんを欠いた今の状況で、いったい何が出来るというのですか」
それは……けれど、進まなければ。
北の解放はまだ難しいかもしれない。
けれど、まだ南の完全解放は成されていないのだ。
そちらを取り戻せたならば、きっと国力も上がるし、隊の信頼だって取り戻せる。
それに、まだカストル・アポリアが壊滅したとは限らない。
ヴェロウの助力を得られれば、魔人の集いと無貌の魔女を退けるのは難しくても、もう一度ダーンフールまでを取り戻すことくらいは……
「……落ち着いてください、女王陛下。今は休まれるべきです」
「貴女は今、狂ってしまっている。大切なものを……積み上げてきたものを、そばにいてくださった方々を失い、正気を保てないでいます」
「身体も精神も、今は一度ゆっくり休めるべきなのです」
「……っ。なりません、そんな怠惰は」
「進まなければ……ジャンセンさんとマリアノさんに……特別隊に、なんとしても報いなければならない」
「バスカーク伯爵とも約束があるのです。急ぎ北の問題を解決する、と。あの方の想いにも応えなければ……」
リリィはまた暗い表情を浮かべて、私の手をぎゅっと握った。
強く強く、痛いくらいに。
そして、睨み付けるように私の目を見つめた。
「……落ち着いてください。フィリア女王陛下。貴女のその想いは、私のようなものにも理解出来ます」
「ですが、今の貴女を消耗させているのは、そういった責任感と義務感です」
「亡き方々に思いを馳せることは悪いと言いません。ですが、それに囚われてしまっては――」
「――何を言っているのです、リリィ。私は彼らに囚われたりなどしていません」
「ただ、約束があるから進まなければならない。そうしなければ、これまでの活動に意味が無くなってしまうから」
「ただ、それだけ。私は妄執に取り憑かれたわけではないのです」
そうだ。私は何も、彼らの為だけに進むのではない。
私がすべきこと――したいと思ったこと。
この国を平和で豊かな国にすること。
魔獣の脅威を取り除き、民が笑顔で暮らせる場所を作ること。
それが私の望みで、私のすべてだ。
そこに亡き者への執着は関係無い。
だってそうだ、それは当然なのだ。
「――皆の死は仕方のないものだったのです」
「あのような戦力、状況、悲運は予想出来ませんでした」
「そして、遭遇してしまえば回避することも不可能でした」
「それでも、私ひとりでも残れば光が完全に潰えることは無いと、皆そう考えてくれたのです」
「ならば、彼らの死を悼みはすれど、それを引きずることはあり得ません」
そうだ。
私は故人を想わない。
その死を悼みはすれど、その個人についてはもう存在しないのだから。
父をそうして切り捨てたように、ジャンセンさんも伯爵も同じように切り捨てるべきだ。
そうでなければ足を取られて止まってしまう。
そうだ、こうして私が前へ進もうとしていること自体がその証明だ。
それに囚われていないからこそ、私はこうして前を向いている。
「……陛下、お言葉を撤回なさってください」
「いいえ、撤回などしません。非道と、外道と、人の道から外れているとどれだけ蔑まれようと、私はそう生きるしかないのです」
「それだけが私の唯一性――父の死さえも幼少の時分に乗り越えたということだけが、私が王として特別である為の能力なのです。ですから、私は決して撤回など――」
――陛下――っ! と、リリィが珍しく大声を出したものだから、私は驚いて黙ってしまった。
しかし、彼女が憤るのも無理は無い。
これはひどく倫理から外れた考え方だろう。
それでも、私は王として、特別でなければならないのだ。
特別さが無ければ――凡庸であったならば、この未熟者ではとても王の位になど……
「……今日はもう自室へお戻りください。そして、鏡で今のお顔をじっくりとご覧になられるよう」
「今の貴女はとても見ていられません」
「……っ。そうですか、私はそこまで醜い顔をしているのですね」
「では……すみません、貴女の言葉に甘えます。このままでは、貴女の仕事にも差し支えかねませんから」
リリィは深々と頭を下げ、そして私が執務室を出る時までそのままだった。
いけない、少しヒートアップしてしまった。
そうだ、私には今を共に生きてくれている彼女がいる。
リリィとパールが、それに宮の使用人達が。
生きている皆の心に波を立てるのは問題だ、私はひとりではさしたることも出来ないのだから。
部屋へ戻り、服を着替え、私は身体をベッドへと投げ出した。
ここへ至って、少しだけ罪悪感のようなものを胸の奥に感じる。
リリィに対して強く言い過ぎてしまったかもしれない。
彼女は私を育ててくれた、今でも叱ってくれる人物だが、やはり立場は私の方が上なのだ。
私が強く言い過ぎたなら、彼女は当然威圧されたように感じてしまうだろう。
「……鏡を見ろ……と、そう言われたのでした」
「そうですね……せめて明日からは穏やかな顔で共に働けるようにしなければ」
リリィの姿を思い浮かべて、その言葉を思い出した。
そうだな、眠る前に今の自分がどれだけ醜い顔をしているかだけ確かめておこう。
さぞ醜悪な、大罪人もかくやという表情を浮かべているのだろう。
死者の尊厳を踏みにじる、最低最悪の――
「――ああ、そういうことだったのですね――」
覗き込んだ姿見の中には、病人のような顔の自分が映っていた。
まるで川魚のように青くなった肌には、墨でも塗り込んだかのように濃いクマが出来ていた。
元から悪い目付きはもっと細くなっていて、目元が腫れているのがよく分かる。
それに、瞳からも生気を感じなくて――
「――――ああ――ああ――っ。そういう――ことだったのですね――――っ」
「貴女は――――幼き日の私は――――」
胸の中にあった罪悪感のようなものの正体に、今やっと気が付いた。
これは、大き過ぎる悲しみだ。
こんなものはとっくに失ったのだと――そんなものを持ち合わせなかったから、父の魂を平気で地獄へと突き落とし、その思い出を焼き捨てたのだと思っていたのに。
ああ――違ったのだな――
「――ああ――――ぁああ――――ぅあぁぁ――――っ」
――私は――幼い私は――――この痛みから逃れたくて――思い出を棄て去ったのだな――――
気付いた時にはもう遅かった。
その痛みは――重さは――想いは――もう忘れられない――
もう捨てられない、もう逃げられない。
もう――私は――――




