第二百四十話【絶える】
私達はただひたすらに逃げ続ける。
どんなことがあっても絶対に生き延びなければならない。
でなければ、こうして逃がしてくれた者達に顔向け出来ない。
その思いだけで、すべて投げ出したいという絶望感を無理矢理押しとどめていた。
けれど……
ユーゴは……もう、本当にダメかもしれない。
私の背中に縋りついて、ずっと震えたままだった。
雨が降っているから、昨日よりも更に寒いから。
そんな理由で震えているのであったならどれだけ良かったことか。
フーリスを出発してから、私達は一度だけ魔獣と遭遇した。
しかしそれは、どうやら夜行性の魔獣だったらしく、動きはのろく、視力も退化しており、馬に乗って逃げる分には何も困らなかった。
ただ……そんな程度の魔獣を相手に、逃げるしか選択肢が無い現状はかなり堪えた。
そして私達は、ようやくの思いでヨロクの街へと――ひとまず馬車を借りられる場所へと戻って来られた。
ここからは国軍に守って貰いながら帰れる。
それを考えたら、胸の奥にゆっくりと温かみが取り戻されるようだった。
「――じ――女王陛下――っ⁉ いったいどうなさったのですか、こんな天気の中!」
ずぶ濡れになったまま私達は街の役場へと赴いた。
こんな姿を見れば、当然役人達は皆慌てふためいてしまう。
けれど今は彼らに細かな説明をしている暇など無い。
「――馬車を――軍と馬車を手配してください。ランデルへ――宮へ帰らなければ――っ。至急、軍と馬車の手配を」
事情はきっと把握出来ていないだろうが、役場は大慌てで馬車隊の準備を始めてくれた。
もう直接の命令権は放棄しているのだから、拒まれれば私も縋るしかない。
そういう意味で、まだ皆の中に私と軍との関係性の変化が定着していないのは幸運だっただろうか。
皆の支度が終わるのを待つ間、少し遠くで雷が落ちた。
私達がフーリスを出発してからというものの、何度も何度もそれを耳にしている。
雷雲も出ているし、それ自体には不自然は無い。無いのだが……っ。
「……もしも……もしも天候すら自由自在に操るなどと……」
もしもこれが、無貌の魔女によって引き起こされているのだとしたら。
そんなことを考えてしまったら、吐き気さえ感じるほど恐ろしくなった。
巨大な魔獣の群れを呼び出し、それよりも更に大きな――規格外な魔獣をも使役し、更に本体はユーゴをも凌ぐ戦闘能力を備えている。
そこへ、民の生活そのものを瓦解させるような能力まで身に付けているとなれば、もはや勝機などどこにも……
「陛下、いったい何があったのですか」
「貴女は今、特別隊と共にダーンフールの解放作戦を展開していると伺っていました。それがどうして、護衛も付けず、馬車にも乗らず、たったふたりでこんな嵐の中を」
「いえ、そちらのユーゴ少年の力については、このヨロクの人間が他の街の誰よりも知っているのですが、しかし……」
私に声を掛けたのは、ひとりの役人だけではなかった。
何人もの役人が、不安そうな顔を浮かべてこちらの様子を窺っている。
これは尋常ではないことが起こっている。と、そう察して不安でいっぱいなのだ。
ああ、そうだ。彼らを安心させてあげないといけない。
それが私の使命で……すべきことで…………
「…………特別隊は……皆は……魔獣の攻撃に遭い、全滅しました」
「馬車の準備と並行して、住民の避難案内を始めてください。今すぐに、少しでも南へ移動するように、と」
けれど……私にはもう、彼らを励ますだけの嘘なんて思いつかなかった。
私の言葉に、役人達は目を丸くするばかりだった。
その言葉の意味をきちんと理解して、その上で恐怖しているものなどひとりもいなかった。
当然だ、そうなるようにと私達は信頼を集めてきた。
ユーゴの強さは、特にこのヨロクの民は間近で見る機会も多かった。
特別隊についても、盗賊被害の多かったここならば、ジャンセンさんの手腕について疑問に思うものなどいない。
誰も、私の言葉の意味を……何も隠されてなどいない、真っ直ぐな言葉でしかないのに……誰も、理解出来なかった。
だが同時に、私がくだらない冗談を言っているのだと思う者もいなかったのだろう。
沈黙は混乱を意味し、混乱は不安を招き、不安は恐怖へと変貌して、恐怖によって私の真意は皆に伝わった。
これまで幾度となく解放作戦を成功させ、魔獣を蹴散らし続けた特別隊は、魔獣の反撃に遭って完全に崩壊した。
言った言葉の通りのその意味を、皆が理解して……そして……
パニックが起こることは予想出来た。
しかし、私にはそれを防ぐことも、鎮めることも出来なかった。
役人達は顔を真っ青にして私に詰め寄る。
いったい何があったのか、どうしてそんなことが起こったのか。
逃げろ――と、そう言うからには、この街にも危険が及んでしまうのではないか、と。
「落ち着いて……とは言いません。ですが、私の言葉には従ってください」
「急ぎ避難の準備を。ハルか、マチュシーか、それともランデルか。どこまで逃げれば安全という保証もありません」
「とにかく南へ……敵から遠い場所へ。カンビレッジやウェリズ、それに解放したばかりのナリッドの街に働きかけて、難民を受け入れる準備をさせます」
「今すぐ、少しでも大勢を逃がしてください」
「――っ。陛下……本当に……本当に何があったのですか……っ」
「魔獣ならば、そちらの少年がすべて倒してくださるのではなかったのですか。国に巣食う悪を、危険を、すべて排除してくださると……」
申し訳ありません。と、私はただ謝ることしか出来なかった。
そんな私を見て、役場はまるで火事でも起こったのかという騒ぎになって、怒号と悲鳴が飛び交った。
この混乱の大きさでは、とても避難が順調に進むとは思えない。
ああ、やはり正解だった。
先に軍を――私が逃げる為の手段を準備させたのは。
「――――っ。ユーゴ、行きましょう。大丈夫です、必ず宮へ戻れます」
「暖かい部屋の中で、温かい食事を摂って、ゆっくり休みましょう。貴方はいささか頑張り過ぎました」
「いえ、貴方にばかり負担を掛け過ぎてしまいました。本当に……本当に申し訳ありません」
馬車が役場の前へと到着すれば、私はユーゴを背負ってその場を後にした。
それを無責任だと、逃げるのかと問い詰める声は止まなかった。
ああ、そうだ。私は逃げる。
誰よりも――守るべき民よりも優先して安全圏へと避難する。
臆病だと、無責任だと、卑怯だといくらでも罵ってくれ。
私は……私などはもう、皆から愛される優秀な王ではないのだから。
「へ、陛下。この騒ぎはいったい……」
「……出してください。急ぎランデルへ」
「ハルにもマチュシーにも滞在しません、夜通しでも走り続けてください」
「ユーゴを……私を、一刻も早く、そして必ず、宮へと連れて帰るのです」
馬車は騒ぎの中を悠々と出発した。
召集権の放棄などと言っても、結局のところは主権者である私の言葉に逆らえる兵などいない。
権利は権利、それとは別に義務感と恐怖がある。
国軍に属す以上、主権に逆らえばその後の待遇がどうなるか分かったものではないのだ。
ああ、いくらでも罵ってくれて構わない。
下種と、暗君と、最悪の王と蔑んでくれて構わない。
それはもう、変えようの無い事実なのだから。
馬車は丸一日ともう半分費やして、ハルとマチュシーを駆け抜けた。
幸いだったのは、以前からあったヨロク近辺の魔獣の減少か。
おかげで、ユーゴの力が無くとも無事に私達は危険地帯を抜けられた。
無事、たった三名の犠牲だけで済んだのだ。
三名の命で――私は――また――
「――到着しました、女王陛下」
馬車が少しだけ乱暴に揺れると、私達は宮の門の前に降ろされた。
ああ、いや。彼らは私を追い出すようなことはしていない。
彼らと共にいられなかったのだ、私が。
仲間を失った彼らと同じ空間にいられなかった、その悲しみを目の当たりにしたくなかった。
私は、逃げるように馬車から降りていた。
「……ユーゴ、着きましたよ。さあ、部屋へ戻りましょう」
「すみません、私の準備が不足していたが為に、貴方にはずいぶん寒い思いをさせてしまいましたね」
返事は無かった。
眠っているのとは違うのに、ぐったりとして動いてくれない。
私の背中の上で、ユーゴは脈動と呼吸以外の機能を停止させてしまっているようだった。
そんな彼を背負ったまま宮へと戻れば、やはりそこでも騒ぎは起こってしまった。
議員や貴族は声を掛けてこそ来なかったが、皆驚いた表情で……けれど……どこか、喜びを仮面の下に隠したような顔でこちらを見ていた。
使用人達は大慌てでタオルと毛布を準備してくれて、すぐに温かいお茶も淹れてくれた。
私が頼めば、食事の準備にもすぐ取り掛かってくれた。
そして……私の帰りを待ってくれていたのだろうパールとリリィは、この有り様に言葉を失ってしまった。
パールは拳を握り締めて肩を震わせ、リリィは膝から崩れ落ちてしまっていた。
私のこの姿が何を意味するのか、ふたりはすぐに悟ってしまったのだ。
十日後、すべての被害が報告された。
超大な魔獣の侵攻によって、ヨロクの街は壊滅状態に陥った。
避難は……ほとんど出来ていなかったそうだ。
当然、カストル・アポリアやフーリスの安否も確認出来ていない。
それと同時に、ヨロクの砦を失ったことで、ハルとマチュシーをはじめとしたヨロク以南の街のほとんどは、居住可能区域から外されてしまった。
事実上の最終防衛線は、このランデルということになるだろう。
ジャンセンさんからの連絡は……当然、無かった。
ウェリズにも、ナリッドにも、カンビレッジにも、彼らの帰還を報告するものは無かった。
伯爵の屋敷も、洞窟そのものが崩落しているとの報告がなされた。
とてつもない力で意図的に破壊され、隠匿されたらしいとの見解が上がっている。
必死に解放を続けた国土も、民も、仲間も。
私が王となってからのすべての日々は、無為に消えた。
私は、何もかもを――




