第二百三十九話【いつも助けてくれた】
その日私を目覚めさせたのは、ユーゴの声ではなかった。
小さな小屋の古くなった窓が、強い風と雨にさらされて軋む音。
それから、緊張感から来る吐き気と、不安から来る動機。
そして……どうにもならない絶望感に、眠ったのかどうかも分からないうちに私は目を覚ました。
「……まだ、日も昇っていませんね。けれど……いつもこのくらいの時間に起こしに来てくれましたね、貴方は」
「今朝は……もう少しだけ、ゆっくりさせてくださるのですか?」
返事は無かった。
ユーゴは私の腕の中で、何も言わずにじっとしていた。
眠っているのか、それとも起きているのに意識が無いのか。
どちらにしても、彼と言葉を交わせるのはまだ先になりそうだな。
「……っ」
きゅうと胸が痛んだ。
眠気はまだ残っているし、身体だって重たい。
それでも、一晩過ごしたという事実が…………こうして逃げ帰って、たったふたりでこんなところにいる事実が、どうしようもないくらいの喪失感をもたらしてしまう。
本当に……本当に部隊は壊滅してしまったのだろうか。
本当は今、ユーゴとふたりでフーリスの視察に来ているのではないのか?
ただ悪い夢を見てうなされただけ、ジャンセンさんもマリアノさんもまだダーンフールの砦を整備してくれているのではないのか。
――本当に――何もかも――
胸がじくじくと痛んで、けれど泣き出すことも出来ないで、私はただ息を殺すばかりだった。
この感情を――ゆらぎを、ユーゴに悟られてはならない。
彼はきっと、どんな状況にあっても他者を心配してしまう。
どんなにつらくても人の心に共感出来てしまう子だ。
だから、今の彼に心配を掛けさせてはいけない。
「……あ……おはようございます。本当に、眠らずの番をしてくださったのですね。ありがとうございます」
まだユーゴを起こすわけにはいかないから、私は目だけで自分の置かれた状況を再確認し始めた。
ここはフーリスで、私達は今、無貌の魔女から逃げている。
ひとまずの目的地はランデル……宮だ。
しかし、そこまで逃げれば安全という保証も無い。
いや、むしろ居場所が割れている方が危険かも。
そんな考えごとをしながらゆっくりと視線をずらしていくと、昨晩と変わらずどっしりと座り込んで見張りをしてくれている背中を見つけた。
名も知らぬ、顔も知らぬ、素性も何もかも知らぬ、けれど私達を助けてくれた大柄な彼の背中を。
「貴方も少し横になってください。見張りならば私が代わりますから」
男は私の言葉にすぐ左を向いた。
それは昨日決めたルール――言葉を発したがらない彼と意思疎通をする為の信号。
肯定と否定のふたつのうちの、否定を意味するリアクションだった。
「……すみません。一晩経ったのですが、やはり貴方の名前を思い出せませんでした」
「私のことはご存じなのですよね。ならば、いつでも宮へやって来てください」
「この恩と、そして私の無礼に、報酬と謝罪と、そしてもてなしをさせていただきたいのです」
私がそう言うと、彼は少し悩んでからゆっくりと右を向いた。
寡黙なのに、どうしてかその感情は筒抜けになっているみたいだ。
きっと彼は、これを断ってもまた別の対価を支払うと言い出すのだろうな……なんて、そう考えて、悩んで、仕方なく受け入れてくれたのだろう。
けれど、そんな彼と楽しく話をするだけの元気は、私の中に残っていなかった。
ただ黙って天井を見つめ、窓から光が差し込む瞬間を待つ。
今日も天気は悪いが、しかしここからランデルへ戻るだけならばそう大きな問題にもなるまい。
ああ、いや、違う。
それだけのことにも大き過ぎる問題が付き纏ってしまうのだった。
「……ユーゴ……」
もういい加減目が覚めた頃だろう。
いいや、むしろずっと寝付けないままだった可能性だって高い。
もう、こんな彼に、魔獣と戦ってくれとは言えない。
戦う力を……強さを想像する心を失った今の彼と共に、私は魔獣の跋扈する道を戻らなければならないのだ。
少なくとも、このフーリスからヨロクまでは。
ヨロクへ戻りさえすれば、国軍の馬車に乗ってハルへ向かえる。
そこからマチュシーを経て、ランデルまではもう一日あれば到着出来るだろう。
緊急事態だ、こんな時にまで軍の使用許可を議会に……なんて言わせない。その覚悟はある。
そんなこれからの予定を頭の中に浮かべている時、かつんと窓に何かがぶつかる音がした。
風に飛ばされた枝だろうか、それとも早朝から走り出した馬車が石でも撥ねただろうか。
「……? あの、どうかなさいましたか?」
音を不審に思ったのは、私よりもむしろ私達をかくまってくれている男の方だった。
じっと窓を見つめて、それからゆっくりと立ち上がる。
手にしていたこん棒を床に置くと、壁に身を隠しながらじりじりと窓へ近付いて――
「――ようやく、追い付きました。面倒な、障害が、ありました。ですが、ようやく、追い付きました――」
キィと嫌な音が聞こえたと思えば、壁も窓も丸く切り取られて、小屋の中に雨風が吹き込み始めた。
今の声――まさか、そんな――
「――追い付きました。では、約束通り、貴女を、殺します。親愛なる、ものに、頼まれて、いますので」
「――魔女――っ。ユーゴ! 起きてください! 魔女が――また、無貌の魔女が――」
――ユーゴを起こして――また――この怪物と戦わせるのか――――?
頭の中で声が聞こえた。
きっと自分の声だったと思う。
すごく冷たい、無感情な声色だった。
けれど、その言葉が怖くて怖くて、私はユーゴを抱きかかえたままベッドから飛び降りて……
「――逃げてください! それは魔獣よりも危険な存在です! 巻き込まれてしまわないうちに――早く逃げて!」
魔女の登場に男は硬直してしまっていた。
当然だ、何が起こったかなどすぐに理解出来る筈がない。
ナイフでバターを切り出すよりも簡単に、木造の家屋に穴が開けられたのだ。
こんなものが常識で推し量れるわけが無い。
私は少しでも魔女の気を逸らそうと、こん棒を拾い上げてそのまま魔女へと投げつけた。
しかし、それは何度も見た通りに切り取られてこの場所から消え失せる。
いけない、このままでは彼まで巻き込んでしまう。
名前すら憶えていなかった私なんかを助けてくれた、この優しい人物まで――――
「――――久しいな――創造主よ――――」
「――? 久しい、という、言葉に、理解が――っ!」
逃げて。と、そう繰り返す私の言葉をかき消すように、小屋の壁にはまた更に大きな穴が開いた。
けれどそれは、魔女によるものではなかった。
もっと乱暴に、力尽くで叩き壊された音。
彼が――仮面を被ったままの男が、魔女を殴り飛ばして壁を突き破った音だった。
「――な――何が――」
その光景はまったく理解出来ないものだった。
だって、あの魔女にはマリアノさんですら指一本触れられなかったのだ。
それを彼は、あまりにもあっさりと、壁を破壊してしまうほどの力で殴り付けたのだ。
いや……いいや、それ以前に……
「――創造――主――? あ――貴方はいったい――」
この男には魔女との面識がある……?
彼の口ぶりからはそんな事実が窺えた。
ということは、彼は私との縁ではなく、あの魔女との因縁によって私を助けてくれたのだろうか。
いや、待て。そうではない。
今気にすべきはそんな些細なことではなくて――
「――逃げてください! 貴方もそれがなんなのか知っているのならば、抵抗が無意味であることも理解出来ている筈です! 早く逃げてください!」
彼の攻撃によって、魔女は小屋の外へと叩き出された。
ならば、この機を活かさないわけにはいかない。
私はまたユーゴを背負って、大急ぎで外へ出る。
それからすぐ馬に乗って、また何度か彼へと呼びかけを試みた。早く逃げて、と。
しかし……
「――――番号、四、ですね。無事だった、とは、想定して、いませんでした。不思議な、ことが、ありますね」
番号……四……?
それは確か、召喚した魔獣に対する呼称だった筈だ。
まさか……いいや、そんな筈は無い。
だって、彼は人間だ。
さっきまで私と会話をしていて、昨日もすごく人間臭いところを見せて……
その変貌には少しだけの恐怖を覚えた。
男が外套を脱ぎ捨てると、その下からは大きな大きな黒い翼が現れたのだ。
鳥類のそれとは違う、短い体毛に覆われた翼膜が。
そして……その勢いで外れた仮面の下には、とても人間離れした顔が見えた。
鋭い牙が覗く、大きく裂けた口があった。
切れ込みのような細い目からは、赤い瞳が見えた。
鼻はまるでそぎ落とされているかのように低く、青白い肌の中でそこだけが赤らんで膨らんでいた。
「――魔獣……いえ――いいえ! 違う、彼は――」
人間……では……ないのか……?
いや、そうではない。
種など関係無い、彼は私を救ってくれた。
この絶望的な状況に手を差し伸べてくれた、恩義を感じるべきはそこだ。
人であるか魔獣であるかなど、今は関係など――
「――――面白い、ことが、次々と、起こりますね」
「けれど――番号、四――作り損ないの、魔女よ。貴方は、どうして、私に、歯向かうのでしょう」
「貴方は、どうして、私に、抵抗出来ると、思って、いるのでしょう」
パッと水飛沫が舞って、男が投げつけた外套に丸く穴が開いた。
いや、違う。魔女の攻撃を予見して、それを防ぐ為に投げつけたのか。
そうして魔女の視界を奪った彼は、大きく跳び上がって魔女との間合いを一気に詰め――
「――逃げるのである――フィリア嬢――ッ! ユーゴを連れて急ぎランデルへ――ッ!」
男は私にそう怒鳴りつけた。
そしてすぐ、彼の太い腕がまた魔女を捉えて、ゆらゆらと揺れていたその細い身体が吹き飛ばされる。
まさか、私達が逃げる時間を稼ごうと……
「……何故……何故、そこまでしてくださるのですか……っ! 貴方の名を――せめて、貴方が誰であったかを私に教えてください!」
「こんな――恩を誰に捧げば良いか分からぬままでは――」
急げ! と、男は拾い上げた石を私の方へ――馬の足元へと投げつけた。
それに驚いた馬が暴れ出して、私は制御の為にも出発を余儀なくされる。
「――っ。必ず――必ず宮へ来てください――っ! 絶対に名前を――貴方の名を――この恩を――――っ!」
ゆっくりとだが進み始めてしまった馬の上で、私は必至に呼びかけた。
けれど……振り返った時に見えた彼の背中には、大きな丸い穴が開いてしまっていた。
翼も根元が大きく抉られてしまっていて、今すぐにでも千切れてしまいそうで――
「――――バスカーク――――?」
昨日ぶりに聞いたユーゴの声は、誰かの名前を呼ぶものだった。
その名は忘れる筈が無い。
これまでの解放作戦にずっと協力してくれた、心優しき吸血鬼伯爵――バスカーク=グレイム伯爵。
ユーゴが口にしたのは、陽気で人懐っこい彼の名で――――
――チチチ――と鳴き声を上げて、彼の身体は無数に分裂を始めた。
それは、少し大柄なコウモリの群れだった。
それには見覚えがあって――そして――それの意味は――――
「――知らんである、そんなダンディな男の名は。我輩の名はカスタード。そちは物覚えが悪いのである」
コウモリの群れは、魔女を取り囲んで襲い始めた。
けれど、それは一匹ずつ――わざわざ手間をかけて、翼だけを切り抜かれて地面に叩き落される。
そんな――そんなことがあってたまるか。
だって彼は山の洞窟奥深くで、今もまだ北の調査をしてくれている筈で――
「――――フィリア嬢――ユーゴ――必ず生きて帰るであーる――――」
「――――ぁあ――あああ――――うぁあああ――――っっ!」
ユーゴの悲鳴は雨風にかき消されて、私達はフーリスの街を逃げ出した。
逃げ出させて貰った。
分厚くて黒い雲の下、私達は振り返らずに逃げ続ける。
悲鳴が聞こえても、何かが壊れる音が聞こえても。
そして大きな雷が鳴ってもなお、ただ前だけを向いて逃げ続けた。




