第二百三十八話【沈黙】
雨の中、私達は敗走した。
無貌の魔女によって部隊は文字通り全滅し、ジャンセンさんとマリアノさんという特別な人材も失った。
そして……ユーゴの強さも、失われてしまった。
「……っ。寒くないですか、ユーゴ。どこかで一度休みましょうか」
私が何を問いかけても、彼はひと言も返してくれない。
ただ私の背中にしがみついて、馬から落ちないようにしているだけ。
何も言ってくれなくて、何も……
私達は生き延びなければならない。これは至上命題だ。
ジャンセンさんに、マリアノさんに、そして部隊の皆に。託されたのだ。
生き延びて、此度の敗北がまったく意味の無い死ではなかったのだと証明することを。
より良い国を、平和なアンスーリァを。すべてを取り戻す為に、私とユーゴだけは何があっても生きて戦い続けなければならないのだ。
「……ユーゴ……」
安全な砦だった筈のダーンフールも、もうとっくに通り越した後だ。
あの場所ではダメだ、耐えられない。
兵のいない砦などに防御力は無いし、あの魔女からあまりにも近過ぎる。
もっともっと遠くへ――マリアノさんに言われた通り、ランデルまで逃げないと。
そう考えた時に、私はひとつの決断を強いられた。
それは、カストル・アポリアを諦める、というものだった。
きっとあの魔女は――そして、あの超大な魔獣は、私達を追って南下を始めるだろう。
そうなれば当然、進路にはあの国が含まれてしまう。
ただでさえゴートマンに私の滞在を知られている場所なのだから、見過ごして貰えるとは甘い考えが過ぎるだろう。
「――っ。ヴェロウ……アルバさん……すみません……っ」
フィリア! と、元気な声が頭の中に浮かんだ。
けれど、その子の顔は思い浮かべられなかった。
とても恐ろしくて、考えたくなかったのだ。
エリーもきっと、この戦いに巻き込まれてしまう。
あんな無垢な子供が、あんなにも強大な暴力に……っ。
それでも、今の私達では、カストル・アポリアへ向かうことも出来ない。
ユーゴは戦う力を失い、装備も一切残っていない。
ダーンフールからフーリスを経由してヨロクへ向かえば、魔獣との遭遇率はぐっと低くなる。
けれど、そこから外れてあの国へ向かえば、それだけ魔獣に襲われる可能性が高くなってしまう。
「……我が身可愛さに貴女を裏切ります。ごめんなさい、エリー。私は……気高い貴女にふさわしい上官にはなれませんでした……っ」
私達は、何があっても死んではならない。
何を捨てても、裏切っても、どんな卑怯を企ててでも。もっとも生存率の高い選択をしなければならない。
雨が降っているのに口の中はガサガサに乾いていて、けれど生暖かい血の味と、それの伝うぬるりとした感触だけがあった。
そうして私はまっすぐに馬を走らせ続けたが、フーリスへ辿り着くころにはもうすっかり真夜中になってしまっていた。
こうなると馬を走らせるだけでも危険だ。
夜行性の魔獣からすれば、一頭だけで走っている昼行性の動物など餌でしかない。
「どこかで宿を取りましょう。ユーゴ、お腹は空いていませんか? 温かいものを……元気と勇気の出るものを食べないと……」
どうしてもここで一度足を止めなければならない。
考え無しに走ってきてしまったが、これならばダーンフールの砦で一泊しても変わらなかったかもしれないな。
いいや、むしろ状況はもっと悪い……か。
どこか泊めて貰えそうな宿はあるだろうか。そんなことは考えるまでもない。
どこを向いても灯りなど点いておらず、宿屋などとは言ってももう客を呼び込んでなどいやしない。
これではとても、暖かい寝床と食事など望むべくも……
「――フィリア=ネイ――」
「――っ! だ、誰ですか――っ!」
くぐもった男の声がして、私は恐怖と緊張に身体を強張らせながらそちらを振り返った。
まさか、もうこんなところにまで追手が……っ。
馬の上で、少しでもユーゴの身体を私の背中に隠すようにして、真っ暗闇の中でじっと目を凝らす。
するとそこには、黒い外套に身を包み、大きな仮面を被った人の姿があった。
「……貴方は……魔人の集い……ですか……? もう、こんなところまで……」
返事は無かった。
けれど、魔人の集いという言葉に、ユーゴの身体が震えたのが分かった。
分かってしまった。彼は今、戦うだけの心を残していない。
最強の戦士などではない、ただの幼い子供なのだ。
なら、私が彼を守らないと……
「……? あの……貴方はいったい……」
男……なのだろう。背も高いし、肩幅も広い。それに声も低かった。
だから、男性であるのは間違いないのだろう。
しかしその男は、私の問いに返事をすることも、かといって攻撃してくる気配も見せない。
ただじっとこちらを……私と、そしてユーゴを交互にじっと観察して……
「っ。ど、どこへ行くのですか。貴方は魔人ではないのですか」
「もしも違うのならば、どうしてこんな時間にこんな場所で。いったい何者ですか」
それが終わったと思えば、くるりと私達に背を向けて歩き出してしまった。
い、いったいなんなのだ、この男は。
このフーリスに関係する人物だろうか。そして同時に、私の名と顔を知っている者。
「……ハーデン族長……でしょうか。話には伺っています、このフーリスを治めている方ですね。あの……」
男は私の言葉に一切反応しない。
ゆっくり、ゆっくり。一歩一歩踏みしめるように歩いていたかと思えば、これまたゆっくりとこちらを振り返った。
けれどそれでも何かを言うわけではなく、またゆっくりと向こうを向いて……
「……付いて来い……と、そうおっしゃりたいのですか……?」
男は一歩だけ大きく踏み出して、それからまた顔だけをこちらへ向ける。
まだ疑問も不安も山積みだったが、そちらへと私が馬を進ませれば、男はまた前を向いて歩き始めた。
やはりどこかへ案内しようという意思があるのだ。
けれど、どういうわけか喋ってはくれなくて……
「……喋れない……わけではないのですよね。私の名を一度は呼んだわけですから」
「では……喋りたくない理由がある、喋るわけにはいかない都合がある、と。そう捉えて構いませんか?」
「ええと……もしもそうならば、足を止めて右を向いてください。違うのならば、反対を」
そんな問いを投げかけると、男はぴたりとその場で立ち止まってすぐに右を向いた。
どうやら意思疎通をするつもりはあるようだ。
しかし、なんらかの理由で会話は出来ない、と。だが……
まだ油断は出来ないが、彼はどうやら私達を味方してくれるつもりらしい。
事情も素性も何も分かったものではないが、ただそれだけでありがたかった。
このままでは道の真ん中で野宿をするハメになるところだったのだ。
ユーゴの体調を考えれば、こんなにもありがたい話は無い。
それから少し歩いて、私達は街の端にある古びた小屋へと案内された。
男はまた一度だけこちらを振り返ると、やはり何も言わずにその小屋のドアを開ける。
入れ。と、そう言いたかったのだろうか。
「すみません、お邪魔します。ええと……その……今晩、寝床を貸してくださる……ということでよろしいのですよね?」
私が問えば、男はすぐに左を……ああ、ええと。私から見て左を、彼からすれば右を向いた。
それは肯定の意で間違いないだろう。
そんな彼に私は深く頭を下げ、馬から降りようと……
「……ユーゴ。この方が一晩部屋を貸してくださるそうです。お礼を言ってください」
「今は苦しくて、難しいかもしれません。それでも、今お礼を言わなかったらきっと後悔します。貴方はそういう優しい子ですから」
ユーゴは私の背中にしがみついたままで、ただ身体を振るわせるばかりだった。
嗚咽すらももうしばらく聞いていない。
もう、今の彼には何かをするだけの気力など……
「……すみません。この子は今、とても参ってしまっているのです。とてもつらい思いをして、とても……とても悔しい思いをして……っ」
とてもではないが、この状態から立ち直れるとは考え難い。
もう、世界最強である戦士としてのユーゴは復活出来ないものと思うべきだ。
そう覚悟せざるを得ないくらい、彼の心はズタズタに引き裂かれてしまっている。
「……? あの……ええと、それは……」
それでも、彼を信じるしか今の私には出来ない。
だから、こんなとこで精魂尽き果てて死なせるわけにはいかない。
ゆっくりと彼の手を私の肩に回して、おぶるように担ぎ上げて馬から降りる。
すると、そんな私の前にはまた左を……ああ、ええっと。彼から見て右を向いたまま黙っている男の姿があった。
ユーゴがお礼を言えない状況であることに、構わないと言ってくれているのだろうか。
「……ありがとうございます。貴方はすごく優しい方なのですね」
私がそう言うと、男はもぞもぞと慌て始めて、そして急いで右を……ああもう、紛らわしい。
彼から見て左、否定の意を向いた。
優しくなんてない、か。ずいぶんと謙虚な人物なのだな。
そして私達が小屋へと入ると、男はすぐにベッドを準備し始めてくれて……ホコリまみれでぼろぼろで、とても立派とは呼べなかったけれど、腰を掛ければそのベッドメイキングに優しさが込められているのが分かった。
「何から何までありがとうございます……? あ、あの……どうなさったのでしょうか……?」
もてなされるままにベッドへと腰掛けると、男は私達に背を向けたまま、床にどっかりと座り込んだ。
その手にはこん棒のようなものも見えて、まるで……
「……見張りをしてくださる……のですか……? い、いけません、貴方も休まないと」
私の言葉に男は黙って左を向いた。
見張りをしてくれる……のは、正直に言って心強いばかりだ。
けれど……どうしても分からない。何故彼はここまでしてくれるのだろうか。
私達には面識があったのだろうか。
それも、これほど厚遇してくれるほどの縁が……
「……すみません。貴方がこれほどもてなしてくださっているのに、私は貴方の名前を思い出せないでいるのです」
「仮面を取るのは、きっと難しいことなのでしょう。ですがせめて、名前を……それが難しいのならば、これだけのことをしてくれる理由を教えてはいただけませんか……?」
もしも縁ある人物ならば、忘れてしまったままというのは心苦しい。
だから……と、本当にその一心で私はそう頼んだのだが……イエスとノー以外で答えにくい問いをするのは、その方法を提示した人間としては悪い行いだっただろう。
男はわたわたと慌て始めて、右を向いたり左を向いたりして……
「――夜――元気――ある――」
「……貴方は夜間でも元気がある……と……いえ。貴方は普段から夜に働いているから、問題は無いとおっしゃりたいのですか……?」
どうやら私の理解は正しかったようで、男は右を向いたまましきりに頷いていた。
なんと言うか……大柄で寡黙で、それに仮面まで被って奇妙な出で立ちであるにもかかわらず、ずいぶんと人間臭い人物なのだな。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
「明日になっても私が名を思い出していなければ、なんなりと対価をせびってください。それだけの恩が貴方にはあります」
男は私の言葉に、じっくりと時間を掛けてから右を向いた。
ふふ、なんだか愛嬌のある人物に思えてきたな。
そんな彼との一方的な会話は、短い間にも私の心を癒してくれた。
すべてを踏ん切れたわけではなかったが、ひとまず感謝と、この状況のありがたみを噛み締められるくらいには。
そして私は、ユーゴを抱き締めて眠りに就いた。
彼は……私にどれだけ子供扱いされても、怒ることすらしてくれなかった。
それだけはすごく寂しくて……つらくて……




