第二百三十五話【それを夢想と知って】
 
暗い林の中に、少しだけの静寂が訪れた。
魔女が魔獣の召喚をやめ、そして巨大な魔獣の接近が始まろうとしているこの瞬間だけに許された静けさだ。
「――ユーゴ――っ」
私には何かをしてあげられない。ただユーゴの勝利を願うしか出来ない。
悔しくてもどかしいが、今はそんな感情に振り回されるわけにもいかない。
魔女が攻撃の手を止めている今だからこそ、そちらへ最も注意を払わなければならないのかもしれない。
しかし、それが出来るのはユーゴだけ。
そのユーゴは、番号十四と呼ばれた巨大過ぎる魔獣の迎撃に当たらなければならない。
でなければ魔女が攻撃するよりも早く、簡単に私達は全滅してしまうから。
そして静寂は破られる。
ミシミシと林の木々が踏み倒される音が聞こえて、前方の景色が大きく変わり始めたのだ。
まるで道端の小枝でもへし折るようにあっけなく、魔獣は巨木すらをも踏みしめてこちらへ進行し始めた。
それと同時に――
「っ。足――でしょうか。私には壁にしか見えませんが、状況を鑑みるに……」
林の奥に、まるで岩壁のようなものが降りてきたのが見えた。
あれはきっと魔獣の足なのだろう。
困ったことに、横へ逃げれば躱せるといったものではなさそうだ。
必死にその終わりを探しても、同じように壁と、それに踏み潰された木々しか目に入ってこない。
「……頼みます、ユーゴ」
ズン。と、また地面が揺れて、その足が完全に着地したことを悟る。
そしてその瞬間は、同時に攻撃に転じる数少ない機会であるとも察しが付いた。
魔獣を攻撃したい。けれど、頭部にまでは届かない。
ならば、まずは足を攻撃せざるを得ない。
そうなったとき、避けなければならないことは、攻撃によって転倒した際にこちらへ倒れ込まれてしまうことだ。
そうであるなら、不安定な状態で軸足へ攻撃するのはまず避けるべきだろう。
次点で、こちら側にある足を狙うのも危険だ。
両足がしっかりと地面に着地していて、かつ蹴り出す側の足を狙う。
この巨体だ、歩幅も尋常でないだろう。
となれば、この機会を見逃す理由は無い。
「――っ」
少し遠くでユーゴの声がした。
それからすぐ、魔獣は――林の上に見えている魔獣の頭部は、やや後方に向けて……私達から遠ざかるように、ゆっくりと、そしてわずかにだが倒れ始めたように見えた。
狙い通り、足への攻撃に成功したのだろうか。
「――魔獣、また更に体勢を崩していきます! 馬車隊、退避準備! 倒れるかもしれないぞ!」
部隊の中からそんな声が上がれば、皆が慌ただしく動き始めた。
そうだ、まず私達は備えなければならない。
ユーゴの成功を信じながらも、失敗や万が一に備えて防御と退避に専念するべきだ。
それは分かっている……が……
「……いえ、皆落ち着いてください。まだ――まだ、もう少し猶予があるようです」
万が一だとか、こちらの機敏な対処に任せるだとか、今の彼がそんな状況を許す筈が無い。
半ば確信めいたそんな考えは、すぐに正しかったと証明される。
「――っだぁあああ!」
ぐらりと壁が動いて、それが向こう側に向けて倒れ始めるのが見えた。
それよりもほんのわずか後にまた声が聞こえて、そして視界を覆い尽くす勢いで白い線が――ユーゴの斬撃の跡が林の中を駆け巡る。
先ほど踏み出した足が、こちらへ近い方の足が切り刻まれて――
「――っ。皆、もう一度隊列を組み直してください! 周囲への警戒を!」
壁は突如バラバラに切り刻まれて、まるで門を開けるようにゆっくり持ち上げられる。
そして上空に見えていた頭部は、私達から遠ざかるように倒れて行って、そのまま林の陰に隠れてしまっ――
「――――きゃぁっ。み、皆、無事ですか!?」
「は、はい! なんとか!」
身体が地面から弾き飛ばされてしまうかと錯覚するほど大きな縦揺れが起こって、それが魔獣の転倒をここにいる全員に示してくれた。
ユーゴはやったのだな。
ひとまず、あの魔獣の侵攻を完全に停止させられたのだ。
となれば、この直後には――
「――面白い、ことが、起こっていますね」
「番号、十四は、現存する、動物では、その、行動に、介入する、ことが、出来ない、個体で、あったのですが」
「っ。ユーゴ!」
ピン――と、甲高い音が聞こえて、私の予想……嫌な予感がまったくその通りになって実現する。
ユーゴが番号十四と呼ばれた魔獣への対処に追われ、その為に体力を消費した直後に、私達の頭上と、それから周囲にまた大きな魔獣の群れが出現した。
「――全員頭下げろ――っ!」
魔獣の出現を確認するとすぐ、ユーゴの声が――指示が聞こえた。
けれど、それに反応出来たのはほんのわずかだけだっただろう。
皆が指示通りに体勢を低くするよりも前に、頭上の魔獣はすべて切り刻まれて遠く遠くへと吹き飛ばされた。
「――アホ! バカ! 間抜け! のろま! 頭下げろって言っただろ! このアホ!」
「む、無茶を言わないでくださいっ。言われてから何秒と経っているのならいざ知らず……」
アホ! アホ! 間抜け! と、声だけを残して彼は姿を現さない。
代わりに彼の所在を示してくれたのは、白い線となって残る斬撃の道筋と、それから切り刻まれて倒される魔獣の群れだった。
「――面白い、個体が、ありますね。回数を、重ねるごとに、種として、あり得ない、領域に、踏み込んで、いきます。不思議な、ことを、していま――」
「――うるさ。もういい加減倒れろ、お前」
そんな様子に魔女が言葉を漏らしたと思えば、白い線は私達の周囲から魔女の周囲へと移動した。
そしてまた魔女の身体が切り裂かれて、少し遠くにいた魔獣は、方角を問わず一斉に倒れ始める。
近くの魔獣を剣で攻撃し、遠くの魔獣を投擲で倒し、そして魔女との間合いを一気に詰める。
彼が見せてくれたのは、この状況を完璧に解決する為の第一歩に思えた。
それでも魔女は攻撃を繰り返す。
弦の音が聞こえて、また魔獣の群れが現れる。
そしてそれらが行動を開始するよりも前に、魔獣は切り刻まれ、撃ち抜かれて、そして魔女は手傷を負う。
反撃を考慮して深追いせず、確実に一歩一歩状況を好転させている。
「これならば……っ。マリアノさん達の乗っている馬車に連絡を。すぐに出発の準備を整え、合図があり次第カストル・アポリアへ向かうようにと」
このままいけば勝てる。
巨大な魔獣に対してもユーゴは正確に対処してみせた。
それが全滅をもたらしかねない脅威であることは変わりないが、しかし確実に対処出来るのだと証明してくれた。
群れの魔獣に対しても、そして魔女本体に対しても、秘策だったのであろう巨大魔獣に対しても、ユーゴは明確に解答を提示する。
その結果が示すものは、状況の優勢と勝利への確信だ。
このまま――けれど、万が一を警戒し、油断無く、一瞬の隙を見逃さぬよう気を張り続ければ、私達は確実に勝利を手にすることが――――
「――どこまで、行くのでしょう。貴方は、どこまで――」
「――? お前、まだそんなこと――」
ズン――ッッ! と、また大きな揺れが――これまでで一番強い揺れが起こって、部隊は一瞬だけ混乱に陥った。
しかし、それはあの巨大な魔獣の行動再開を意味するものだ、もう未明の不安ではない。
だから、部隊はすぐにその魔獣がいた方へ――上空と、そして林のその奥へと注意を向けて――
「――な――そ、そんな馬鹿な――っ。だってあの魔獣はさきほど――」
上空に見つけたのは、またしてもあの魔獣の頭部だった。
だ、だがおかしい。あれは先ほど完全に転倒していた筈だ。
それがどうしてもう起き上がっている――立ち上がっている時と同じ高さに見えている。
まさか、先ほどの強い揺れは、あれが飛び起きた衝撃だとでも――
「どこまで――貴方は――強く――なれるのでしょうか――」
「――こいつ――っ。フィリア――っ!」
ピン。ピン。ピン。と、また断続的に弦の音が聞こえて、そしてすぐに魔獣の群れが私達の頭上に現れる。
音の回数に比例してなのか、その数はこれまでで最も多いように見えた。
けれどそれもまた、ユーゴによってあっさりと――
「――どこまで――どこまで――どこまで――行くのでしょうか――」
「っ。まさか――お前、これまで手抜きして――」
ピン。ピン。ピン。ピン。と、まるでヴァイオリンのピッツィカートのように、小刻みにリズム良く鳴らされた弦の音が、また更に多くの魔獣の群れを召喚してみせる。
まだ――まだユーゴが攻撃を終えて間も無い――休む時間も体勢を整える時間も、周囲を確認する時間も取れていないうちに――
「――どこまでなら――耐えられるでしょう――」
頭上に現れた魔獣の群れは、ユーゴによって蹴散らされた。
けれど、周囲に現れた魔獣の掃討よりも前に、また弦の音が林の中に響き始める。
ピン。と、一度鳴る度に魔獣の数が増えて、その度にユーゴは私達のそばへ帰ってこなければならなくて――――
「――――どこまで――――来られますか――――」
「――――お前――――っっ」
ひゅう――と、弦の音に混じって、風を切るような高い音が聞こえた。
しかしそれは、ユーゴの剣が魔獣を切り裂く音ではなかった。
私のすぐそば――後方で聞こえて、そして――
「――――そんな――――」
――部隊から血飛沫が舞った。
どうやら、私達の想定は――これまでにいくつも考えてきた、魔女の行動に掛けられている制約は、なにもかも見当違いだったらしい。
部隊の一部に――馬車に、馬に、人に――丸く切り取られた空間が出来て、そこにいたものがひとつ残らず絶命するのが見えた。
巨大な魔獣は動き始めようとしている。
召喚される魔獣は数を増やし続ける。
そして――魔女はユーゴの反撃などに警戒心を抱くこと無く、無力な私達へと攻撃の手を差し向ける。
優勢だと思っていた状況は、ただ魔女の気まぐれによって見せられていただけの甘い幻だったらしい――
 




