第二百三十四話【光明を見て】
ズン――と、また大きな地響きがした。
最も恐れていた展開が起こってしまっている。
山よりも高い場所から見下ろしていた魔獣の頭部――無貌の魔女が番号十四と呼んでいた、巨大というにもあまりに規格外な大きさの魔獣が、ついに動き始めてしまったのだ。
「クソ――っ!」
ユーゴはそれに向かって――はるか上空に向かって、石つぶてを投げつけた。
けれど、それがどれだけの勢いであろうとも、地面を抉るだけの力があったとしても、しかし山ほどの魔獣を貫通するには至らない。
命中したのかどうか、そしてどの程度効果があったのかも、この距離からではとても視認出来なかったが、動きを止められていないのは理解出来た。
「流石にアレはこんなのじゃ無理か……っ。だったら――」
ユーゴはそれを見て、剣を握り直して思い切り跳躍する。しかし……っ。
「――くそっ」
「届かない……っ。ユーゴでもあの高さには……」
ユーゴが跳び上がれるのは、林の木々の少し上まで。
これでも、人間に出来る限界などはとっくに超えている。それでもまだ――まだまだ届かない。
「ユーゴ、脚を狙ってみてはどうでしょうか。まだ……まだ少し距離がありますが、アレがこちらに攻撃意思を持っているのならば……」
「そのうち近付いてくるから、それから倒せばいい……ってことか」
もっとも、あの巨体だ。たった一歩、大きく踏み出しただけでこちらを踏み潰せてしまうかもしれない。
しかし、この場からユーゴが離脱すれば、それこそ魔女の思うつぼだろう。
「それしかないか……うざ。なら、今のうちに……」
こっちを先に潰す。と、ユーゴは私にそう言い残すと、また視界から消えてしまった。
それから瞬きをする暇も無く白い筋が周囲に何本も走って、大きくよろめいた魔女の身体からはまた血が噴き上がった。
「――面白い、ことを、しますね。それに、貴方の、成長速度は、種の、限界を、超越して、しまっている。不思議な、ことが、ありますね」
けれど、それに対して魔女は声色も言葉も変えなかった。
ずっと同じようなことばかりを繰り返していて、しかしそこに思考能力の欠如を感じないことが不気味だ。
それしか言えないから繰り返しているのではなく、まだその言葉の――想定の段階を越えていないという意味なのではないかと勘繰ってしまう。
「ダメージはある筈なのに……どうして……っ」
その血が魔女のものでないとしたら、またこれが幻像――例えば魔獣の上から張り付けられた像であるのならば、この余裕にも多少の理解は出来る。
そしてその可能性は、完全には否定出来ないものだ。
だが、目の前の存在の違和感を、マリアノさんもユーゴも指摘していない。
少なくとも、魔獣の気配が分かるユーゴが気付けないのならば、これは魔獣ではないのだろう。
もっと別の何か……という可能性まで考慮し始めたなら、それはそもそもこの魔女というものの特性であるとさえ考えられる。
また、白い線が、私の視界の真ん中にある魔女の肉体の上に幾重にも連なった。
そしてすぐにその身体が舞い上がって、相当なダメージを与えたことを確認する。
それでもまだ……っ。
「しぶとい――っ。うざい、お前。いい加減倒れろ」
「不思議な、ことを、言いますね。殺そうと、しているのに、死なない、ことに、憤るとは。死ななければ、幾度でも、殺せるでしょう」
うざ。と、ユーゴの声がまた聞こえてすぐ、魔女の身体は更に高いところまで打ち上げられた。
そしてそれは、受け身を取ることもせずに地面へ叩き付けられる。
生き物としては――あの大きさ、質量の生物としては、今のは間違いなく致命傷になり得る筈だ。
だが、それでも……か。
「……ちっ。フィリア、もう一本剣くれ。あっちのがそろそろヤバいかも」
「は、はい。ユーゴ、貴方から見て、あの巨体はどうにかなるものだと思えますか?」
「その……もう、私には貴方の動きが目で追えませんし、同時に何か予想を立てることも困難です。ですので……」
なんとも情けない話だが、勝てるかどうかというのを、私はユーゴ本人に尋ねるしかなかった。
もしも自信が無いと、厳しいと思ったならば、あの魔獣からは距離を取って、魔女の対処を優先すべきかと考える必要もある。
「……分かんない。こんなデカいの初めてだからな」
「でも、ただデカいだけなら別に問題にならないとは思う。だって、そもそもさっきまでのだってデカいし、それでも困んなかったから」
「規模は違えど、強さの種類が近しいならば対処は似ているだろう……と、そういうことでしょうか」
炎とか吐かれたらめんどうだけど。と、そう付け足して、ユーゴは私の前に現れた。
息を切らした様子も無ければ、ケガをしている様子も無い。
先ほど広場で巨大な魔獣の群れと遭遇したばかりの時には、もう少し苦戦を強いられていた気がしたが、それからの短時間でいったいどれだけ進化したのだろう。
そんな余裕を見せる彼に、私はスペアの剣を手渡した。
「……あと何本持って来てるっけ。上手いことやってるから今はいいけど、アイツ平気で剣も壊してくるからな」
「俺に勝てないと分かって、武器を失くして時間稼ごうとされたらめんどくさい」
「予備はこの他にあと二本です。貴方が持ち込んだ二本と合わせて、合計五本あった筈ですから」
これだけあれば大丈夫という明確な指標も無いが、しかし今のユーゴならばあと四度武器を破壊されるよりも前に決着を付けられる……と、そう思いたい。
まだ魔女が実力のすべてを発揮しているとは言い難い以上、とても断定など出来っこないが。
「……どっちにしても、まずはデカいのを一回静かにしないとな」
ユーゴはそう言い残して、やはり私の視界から一瞬で消えてしまう。
動作の初めにタメを作ることすらせず、平坦な道を歩き始めるのとそう変わらないしぐさしか見えなかった。
やはり、単純に身体能力が向上しているだけではないのだな。
「……っ。女王陛下、あの巨大な魔獣に動きがありました。少しだけですが、頭の位置が後ろに……遠くに下がったように思えます」
「……後退……ではないのでしょうね。きっと、一歩を踏み出したから……足を上げたから、バランスを取る為に上体が倒れているのでしょう」
隊員の報告に視線を上へと……魔獣の頭部へと向ければ、そこには先ほどまで木々で見えなかった首から下が少しだけ見えるようになっていた。
動きがあったから……動き始める為に背筋を伸ばしたから、だろうか。
それは肩のように見えたが……なんということか。
これだけの巨体でありながら、どうやらアレは二足歩行を可能にしているらしい。
「……一歩踏み出すまでもなく、あの場で倒れ込まれるだけでこちらは全滅してしまいかねませんね」
「皆、緊急退避の準備をしてください。魔女から視線を切っても構いません、今はあの魔獣の動向に気を配ってください」
私の指示に、部隊からは少しだけの動揺が声となって漏れ始めた。
魔女への対処……警戒を緩めても構わないという言葉が不安なのだろう。
彼らからすれば、最も信頼していたマリアノさんですら敵わなかった存在なのだから、それも当然ではあるのだが。
「あの魔女は、現状でもユーゴひとりで抑え込めています。それに、あちらの攻撃は私達に感知出来るものではない」
「となれば、あちらの魔獣への警戒と、動向の観察に注力すべきです」
「見えている巨体ならば、魔女からの見えない攻撃よりもいくらか対処出来るでしょう」
「はっ、かしこまりました」
もっとも、見えたからと言って間に合う保証も無いが。
それでも、やれることを探すのに意味がある。
先ほどからユーゴひとりにすべてを任せてしまっている現状、部隊員から当事者意識が抜け始めていてもおかしくない。
そうなれば、いざという時に危険に晒されてしまう。
「――っ。女王陛下、また先ほどの白い線が……ユーゴの攻撃が見えました」
そんな私の意図とはきっと関係無いだろうが、皆に気を引き締めさせた直後にユーゴの攻撃があったようだ。
私からでは確認出来なかったが、そう遠くないところでまた白い線が……剣を振り抜いた残光が見えたらしい。そしてすぐ……
「……っ。あ、アイツ、動いたぞっ! 今、明らかに……」
「落ち着いてください。もしかしたら、ユーゴの攻撃が有効だったのかもしれません」
「もちろん、それで激昂して攻撃してくるという可能性もあります。どちらにせよ、退避準備を急いでください」
幸い……なのか、それともまた罠を仕掛けようとしているのか。魔女は新たに魔獣を召喚しようとしていない。
もしかしたら、あの巨大過ぎる魔獣は、魔女が自らの意思で操作しなければ活動出来ないのだろうか。
あるいは、この場所へ留めておくのに集中力を要する、とか。
「退避準備が出来たらそのまま様子を見て、もしも大きな隙があるようならマリアノさんをカストル・アポリアへ」
「状況は間違いなく優勢です。ここさえ踏み越えられれば、私達は魔人の集いの切り札をふたつ使わせた上で生存したという事実を得られます」
「それは、これからの解放作戦において主導権を握ることにもなる筈です」
この場所からではぐらりぐらりと揺れる魔獣の頭部しか確認出来ないが、ユーゴによる攻撃があったのは確かだ。
そして、今私達に対して攻撃が来ていないことも。
きっと、あの巨大な魔獣を退けた瞬間には、また魔女による新たな戦力の召喚がある。
もう弾切れだなどという希望論は捨てて、私はとにかく皆に準備をさせた。
あの魔獣が倒れ、そしてユーゴが戻って来るまでのわずかな時間に全滅してしまわないように。




