第二百三十二話【留まるところを知らず】
 
状況は、戦況は、とても私では見て理解など出来なかった。
ただ、魔女が攻撃の暇を見付けられないでいる。
先ほどからどこも切り取られていない以上、そう考えて良いのだろう。
だから、今はユーゴが優勢に立っている……筈だ。
「……いったいどうなっているのでしょうか。女王陛下、彼はいったい……」
不安であり、疑問であり、同時に確信でもある。そしてそれは、私だけのものではない。
隊員のひとりが言葉を漏らせば、それは全員に伝播して動揺を増幅させる。
ユーゴはいったいどこまで強くなるのだろうか、と。
どこまで――理解出来ないところにずっといたのに、さらに上までまだ進み続けるのか、と。
「……私にも、なにがなんだかさっぱり分かりません。見ての通り……いいえ、見えない通り、視覚で情報を得られないのですから」
「しかし……ひとつだけ確信していることがあります」
彼は私達の味方で、人間の味方で、国の未来を守る存在である。
私がそう言えば、動揺は少しだけ収まって、代わりに喜びの空気が場ににじみ出始めた。
ここまでに多くの犠牲を出した。
この遠征だけの話ではない。私が王になってから――そのずっと前から、この国は多大な犠牲を出して、ぎりぎりで踏みとどまって生きてきた。
それが遂に報われるのだ、と。皆がそれを確信したのが分かった。
「まだ、気を抜かないでください。彼が勝利する瞬間まで、足を引っ張って邪魔をするわけにはいきません」
「周辺への警戒と、魔女の動向にも目を凝らしてください」
私がそう言えば、部隊はきびきびと列を揃えて見張りを再開する。
誰にも硬さが無い……緊張や不安に取り込まれているものはいないようだ。
これが、ユーゴの見せる奇跡の力なのだな。
「――面白い、可能性が、あったのですね。人間の、幼体には、ここまでの、可能性が、あったのですね」
「個体の、限界値を、低く、見積もっていた、かもしれません」
無貌の魔女はそう言った。
人間の限界を、能力を甘く見ていた、と。
それに対して、もうユーゴは何も言わなかった。
姿も見えない、声も聞こえない、ただ剣を振るった軌跡だけが、白くちらついて残って見える。
会話をするつもりはもうどこにも無いのか、それとも……
面白い。興味深い。魔女は先ほどからそればかりを繰り返している。繰り返せている。
それは余裕だろうか。それとも、もうお手上げと言ってくれるのだろうか。
答えは……少なくとも、後者ではないとだけ理解出来た。
「――っ! ユーゴ!」
おおっ。と、歓声が上がった。
魔女の肉体が大きく仰け反ったと思えば、そのまま宙に打ち上げられたのだ。
それはきっと、自発的な跳躍ではない。
ユーゴによる攻撃が、遂に魔女の身体を捉え始めているのだ。
剣による一撃ではなかったかもしれない、無警戒のところへ一撃入っただけ……それも、反撃を警戒しての軽い一撃だったかもしれない。
それでも、今まで見たことの無い状況がやってくれば、皆の期待は一気に膨れ上がった。
「――勝て――勝て! 勝ってくれ!」
誰かがそう叫んだ。
それを皮切りに、部隊のあちこちから――そしてすぐに全体から、ユーゴを励ます声援が鳴り響く。
雨の降る静かな林の中を、男達の叫び声が埋め尽くさんとしている。
希望の光が最大にまで大きくなって、皆もう我慢出来ないのだ。
喜びの瞬間を目前にして、今か今かと待ちわびて震えている。
「……不思議な、ことが、起こって、いますね」
「成体は、幼体を、守る為に、ある。それが、人間の、種としての、在り方だと、学びました」
「けれど、今は、それが、逆。幼体に、よって、守られる、ことを、成体が、望んでいる」
「不思議な、ことが――」
「――うるさい。もうそろそろ飽きてきた。喋るな、鬱陶しい」
そしてユーゴの声が聞こえて、それから魔女の肉体は地面に叩き伏せられた。
まだ浮き上がって地に足の着いていないその身体を、容赦無く叩き落した……のだろう。
あれならば身をよじっても回避など出来まい。
そして……魔女の肉体が生物のそれであるならば、今の一撃は確実に大きなダメージを与えた筈だ。
この瞬間を――
「――ジャンセンさん! 馬車を出してください!」
――ユーゴが作ってくれたこの瞬間を、決して見逃してはならない。
私は必至に声を張り上げて、ジャンセンさんへ――マリアノさんの乗る馬車へ指示を出した。
するとそれから数秒もせずに馬車は動き始める。
皆、あれからずっと――片時も緩むことなく気を張り続けてくれていたのだな。なんと頼もしい部隊か。
「――ユーゴ! もう少しだけ時間を稼いでください! マリアノさん達が無事に出発するまで、どうか!」
私の声は彼に届いただろうか。
まだその姿は見えない。まだ、魔女の反撃に備えて高速移動を繰り返しているままだ。
今どこにいて、何を見ているのかも分からないユーゴに、私はもう一度願いを口にする。
どうか、マリアノさんを守って欲しい、と。
「――何回も言わなくていい。それと――時間稼ぐだけでいいのか――?」
「っ! そのものを――魔女を打ち倒し、そして――勝利を我々にもたらしてください!」
分かった。と、すぐそばから声が聞こえた気がした。
けれど、振り返っても周りを見回しても、ユーゴの姿はどこにも見当たらない。
だが――今は彼の背中を見つける必要など無い。
だって、その瞬間が迫っているのだから。
「――面白い、個体が――――」
魔女がまた、何かを語ろうとしていた。
けれどそれは、幾重にも束ねられた光の筋に――剣筋によって妨げられる。
もしや、ユーゴはまだ強くなるのだろうか。
魔女はもうそれに反応出来ていないようだった。
身をひるがえしてゆらゆらと回避することもせず――出来ず、ついにその身体からは赤い血が噴き出した。
剣による一撃がついに届いた証だった。
勝てる――いいや、勝った。誰の中にもそんな確信があった。
魔女はもうユーゴの攻撃を追えていない。
そして、それを彼が理解すれば――警戒を残しつつも、僅かな半歩を強く踏み込むことが出来れば、それだけで魔女はあっけなく絶命する。
私の中にも、部隊の皆の中にも、勝利の形がはっきりと作り上げられているだろう。
そしてそれは、きっとユーゴの中にも――――
「――――え――ぐわぁああ――――っ!」
「――っ⁉ な――何が――っ!」
男の悲鳴が聞こえた。
けれどそれは、ユーゴのものではなかった。
私が見ていた景色には変わりなかった。
ユーゴと魔女の戦闘には何も変化が無かった。
そして、その声は後方から聞こえてきた気がした。
慌てて振り返った私を――私と、部隊の皆を待っていたのは、あの広場で散々私達を蹂躙してみせた巨大な魔獣の群れだった。
まさか――魔女はユーゴへの反撃を諦め、魔獣をこちらへ差し向ける準備を進めていたのか――っ。
「――――っ! 皆――防御の陣形を――っ! 勝利は目前です、この瞬間さえ耐え忍べばこんな魔獣など――――」
魔女さえ倒してくれたならば、そのままユーゴが魔獣の全てを蹴散らしてくれる。
先ほど広場で戦っていた時よりも更に強くなったユーゴならば、あの時よりも狭く展開している部隊を守るのは容易だろう。
私はそう考えて、皆に指示を出した。
そんな考えを――押し付けを、責任の放棄を、あまりにも当たり前のことだと思ってしまっていた。
魔獣の群れの中に一筋の光が見えた。
それはユーゴの剣が残した軌跡だった。
それが消えるのと同時に魔獣の肉体はバラバラに崩れ去って、そして部隊は脅威の真っ只中から救出される。
ああ、良かった。
ユーゴにはまだ余力がある。
魔女をもう倒したのか、それともけん制しつつ魔獣を相手出来たのか。
それがどちらかは分からないが、少なくとも私達を守る余裕は――
「――面白い、ことを、思い付きました。貴方は、どこまで、行くのでしょう。貴方は、どこまで、耐えられるでしょう――」
「――何を――」
ピィン。ピィンピィン。と、弦を弾く甲高い音が連続して聞こえた。
いけない、警戒すべきものを履き違えた。
私は大急ぎで振り返り、魔女の動向へと目を光らせる。しかし……
魔女はまた身体から血を噴き上げて倒れた。
魔獣を倒し、それからの一瞬でユーゴの攻撃がまた命中したのだろう。
ひとまず私はその光景を、ユーゴの無事と優勢の維持であると判断した。
いいや――誤認した。
「――なんだ――それ――っ! フィリア――っ!」
私達の頭上から再び魔獣が現れる。
いいや、上からだけではない。
後方から、側方から、前方から。
あらゆる場所に――狭い林の中に、巨大な魔獣が――魔獣の群れが、続々と出現し始めたのだ。
それらすべてを視認し終えるころ、私達の頭上からは血飛沫といくらかの肉片だけが降り注いだ。
上空に現れた魔獣がすべてバラバラになって、その残骸すらもが遠くへと吹き飛ばされていた。
私達がそれを理解した頃には、前方の魔獣の群れも壊滅して、側方や後方からもそれと同じ音が聞こえた。
前後左右、それに上方。五方向からの攻撃に対しても、ユーゴは完璧に私達を守り切って――――
「――――どこまで――耐えられるでしょう――――」
「――お前また――っ。くそ――」
ピィン。ピィン。ピィン。と、今度は断続的に音が響いた――響き続けた。
これはまさか、広場でやったのと同じことを再現しようと言うのか。
ユーゴが対処しきれなくなるまで魔獣を召喚し続け、彼ではなく部隊へと攻撃を繰り返す。
またあれと同じことを――
前方にも後方にも、そして当然側方にも、先ほどよりも圧倒的に多くの魔獣が出現したのが見えた。
魔女は理解しているのだ。ユーゴが私達を守らずにいられないことを。
私達を守っている限り、自分にとどめを刺す余裕は生まれないのだと。
そして――私達が全滅すれば、ユーゴひとりの勝利に意味など無いのだと――
 




