第二百三十一話【算段も立たず】
その変化には、魔女も少しだけ動揺しているように見えた。
もちろん、相変わらず表情などは存在しない。
だから、そんなものは私の勝手な思い込みかもしれないだろう。
それでも、そうであるに足る変化が起こっていた。
「――フィリア。マリアノの手当て急げ。まだ文句があるんだ、こんなとこで死なせるな」
「っ。は、はい!」
ユーゴはこちらを振り返らずにそう言った。
魔女への警戒心を解くことは無く、それでも周囲が見えている。高い集中状態の証だろう。
それでも問題がすべて解決したというわけでもない。
その筆頭がマリアノさんだ。
彼女は腕を一本失っている。
その上であんなにも激しく動き回ったのだ、もはやすぐにでも失血死してもおかしくない。
「マリアノさん、馬車の中へ。すぐに止血します。皆も手伝ってください。街に戻り次第輸血が出来るよう、彼女と血液型の同じ者は補給と休息を」
私が指示を出せば、皆はすぐに従ってくれた。そこに躊躇や動揺は見られない。
理解したのだ。ユーゴの進化が、あの魔女の異常さに肉薄しているのだと。
彼ならばこの状況をなんとかしてくれると――また、彼ならば何かを成し遂げてくれるのだと、皆が希望を見出している。
「あとは貴女の体力にすべてを賭けるだけです。どうか死なないでください、マリアノさん」
「……ァア? 誰にモノ言ってんだ、このバカ女。それよりテメエはクソガキの心配してろ」
正直、今こうして当たり前に会話が出来ているのが不思議でならない。
もしかしたら、あの攻撃はただ物理的に空間を切断しているだけではないのだろうか。
でなければ、肘から先を失い、多量の出血があってなおここまで元気ではいられない筈だ。
あるいは、マリアノさんの体力が人間離れしているだけ……という可能性もあるのだろうか。
しかし、彼女の小柄さを思えば、血液の総量は多くない筈だし……
「……おい、デカ女。冗談でもなく、オレよりアイツの心配してやれ」
「アイツはオレとは違う、あの攻撃を察知出来てるわけじゃねえ。祈る暇があるなら、オレのことよりアイツの無事を祈りやがれ」
「……そうです。マリアノさん、あの魔女はいったい何をしていたのですか。そして、どうして貴女にはそれが察知出来ていたのでしょうか」
「もしもそれが伝えられるものであるならば……」
そうだ。と、思い出したのは、先ほどまでのマリアノさんの、暴挙にも思える奮闘だった。
あの魔女は、どういう理屈か空間を切り取ってどこかへやってしまえるらしい。
もっとも、まだこれは推測の域を出ない。
それによって別の場所へ物や人を移動させていると考えれば、今までのゴートマンの撤退や、先ほどの魔獣の大群の出現に説明が付くというだけ。
根拠らしい根拠は無い。
「オレにも何やってんのかは分かんねえよ」
「ただアレは、意図して空間を切り取る必要があった。自分に接近するもの全てを切り飛ばすような、設置出来る罠か鎧みたいなもんではなかった」
「それについては、オレが散々確認した通りだ」
「確認……まさか貴女は、ユーゴの為に魔女の能力を暴こうと……」
マリアノさんは私の言葉に嫌な顔をして、弱々しく私の脇腹を殴った。
ユーゴの為にという言葉が気に食わなかった……わけではあるまい。
きっとこれは、話を遮るなと怒っているのだ。
「推測される条件は、眼に見えるもの、範囲であること。固体であること。そして、それなりに準備をして発動しなきゃならねえことだろう」
「もっとも、アイツにツラがねえ以上、何を狙っていつ準備を始めたのかなんて分かんねえけどな」
「眼に見える……例えば、焦点を合わせ続けておかなければならない……ということでしょうか」
「そして、固体……というのは……貴女の血液が切り取られず、魔女の服に付着していたから……ですね。それから……」
マリアノさんの挙げた条件というものを、ひとつひとつ確認していく。
なるほど、確かに。
眼で見えていなければならないというのであれば、彼女が回避した直後に、そのすぐ後ろにあった樹木が抉られたことにも納得がいく。
気体、液体についての移動が難しいというのは、攻撃の後に風が起こっていないことや、彼女の血液を浴びていることから推測出来るだろう。
だが……
「何分、何秒と明確な制限が分かったわけじゃねえ。ただ、それなりに集中してなきゃ使えねえもんなんだろう。条件無しで連発出来るんなら、首回しながらそこら中ボコボコ穴開けりゃ済む話だ」
「そうしてねえってことは、あの攻撃にはそれなりに制約があるってことだろうよ」
なるほど。と、納得している場合ではない。
彼女の予想が的中しているのならば、そんなものどうやって防げば良いと言うのだ。
ユーゴやマリアノさんならばいざ知らず……いいや、そのマリアノさんとて、もう素早く動き回ることは出来ない。
それに、逃げようと思えば距離が開く。
そうなれば、魔女はこちらを視界に収めやすくなってしまう。
「だから言ってんだろ、クソガキの心配をしてろって。アイツがアレを殺さねえ限り、俺達はどうあがいても全滅だ。祈れよ、本気で」
「っ。はい、覚悟しておきます」
マリアノさんは少しだけ笑顔を見せると、無事だった左腕を下にして寝ころんだ。
少しでも血流を抑制しようとしているのだろう。
一刻も早くダーンフールへ……いいや、あの場所にはまだ十分な医療設備が整っていない。
カストル・アポリアへ搬送し、急ぎ輸血をしなければ。
「皆、いつでも出発出来るように準備してください。ユーゴが隙を作ってくれたならば、その間にマリアノさんをカストル・アポリアへ」
「ジャンセンさん、その際には指揮を執ってください」
「……そうだね。ユーゴと少数部隊だけを残すのは心配だけど、こんなとこで姉さんを失うわけにはいかない。あとのことを考えると、ここはリスクを負うべきだ」
ジャンセンさんは少し考えてからそう返事をしてくれた。
そうだ、今は賭けに出る必要がある。
マリアノさんの体力、生命力に。ユーゴの能力の底の知れなさに。
そして、ジャンセンさんの率いる部隊が無事に帰還出来るかどうかに。
すべてを確実に成功させる方法など存在しないのだから、そうであるなら決断は早い方が良いだろう。
皆に覚悟を決めさせる時間を設けないと。
「……では、ここに残る部隊は共に来てください。出来る限りでユーゴのバックアップを……周辺の警戒をします」
「彼と魔女との力が拮抗しているのならば、他の魔獣へ気を回す余裕は無いでしょうから」
それに、もしも圧倒出来るだけの力があったとしても、僅かな隙すらも作らせてはならないと肝に銘じるべきだ。
そして……もしも今のユーゴを前に、魔女が私達へと攻撃を向ける余裕があったならば……っ。
その時は、もはや誰ひとりとして助かるまい。
「……頼みます、ユーゴ」
私は馬車を出て、そしてその小さな背中に――私の目には見えない、あまりに速過ぎる戦士の背中に祈りを捧げる。
どうか勝利を。そして、アンスーリァの平穏を。
もしもこの魔女を打倒することが出来たならば、その暁には叶う筈だ。
すべての民に希望を見せるだけの、奇跡の存在になることが。
「女王陛下、あまり前へ出過ぎないでください。出来るだけ我々の後ろに」
「はい、わきまえています。私がもっとも足を引っ張りかねない存在ですから」
「それでも……やはり、少しでも彼の雄姿をこの目に焼き付けたい」
しかし、私の目ではユーゴの姿を捉えられないのは、皮肉というか、なんだかがっかりしてしまうというか。
けれど、それに翻弄される魔女の姿ははっきりと見えている。
先ほどまでゆうゆうとした態度で立っていたそれが、ゆらゆらと揺れながらよろめいている姿が。
「――不思議な、ことが、起こっています」
「この、幼体は、短時間で、とても、能力を、向上させました。面白い、個体が、ありますね」
そればっかだな。と、どこかから声が聞こえたと思えば、魔女の身体は大きく仰け反ってそのまま地面にへたり込んでしまった。
どうやらユーゴの攻撃が命中したのか、あるいは命中しそうになって大袈裟な回避を要されたのだろう。
それでも、まだその身体には傷が見当たらない。
ユーゴは魔女の目からではとても追えないだけの速さで動いている。
それでも、致命の一撃を加えるだけの余裕はまだ無いのだ。
もしもあちらの読みがハマってしまえば、その瞬間にユーゴの命は無い。
故に、彼は機を窺い続ける。
「――面白い、ことを、しています。どうして、殺そうと、して、いるのに、殺さない、のですか」
魔女がこちらへ意識を向けたならば、あるいは集中力を切らしたならば。その瞬間に決着するだろう。
けれどそれは、逆のことも言えるのだ。
ほんのわずかでもユーゴの気持ちが緩めば、疲労から心が揺れれば、その瞬間が私達全員の死を意味してしまう。
だから、その光景はまだ続くだろう。
魔女にはまだ余力があると考えるべきで、ユーゴもジャンセンさんの策のおかげで多少は精神力を温存出来ている。
だから――と、私はそう考えた。
それの意味を理解せぬまま。




