第二百三十話【縋る他に無く】
「――姉さん――ッッ!」
暗い林の真ん中で、ジャンセンさんの悲痛な叫びが響いた。
あまりに理不尽、あまりに理解不能な現象が起こってしまった。
マリアノさんの腕が、彼女の手にしていた剣が――それがあった空間が、初めから何も無かったかのように丸く切り取られてしまっている。
けれど、そこには確かにマリアノさんがいた。
雨粒に混じって血の雫が皆の頬に降り注げば、誰もがこの現実を受け入れざるを得ない。
「――っ――クソがァア――ッッ!」
この存在は、マリアノさんよりも強い。
この魔女という存在は、マリアノさんを以ってしても敵わない。
この無貌の魔女を前には、ただ殺されるのを待つ他に無いのだ――と。
足がすくんだ。
身体が震えた。
そして涙さえ流れ出た。
恐怖と絶望感だけで、もう心は潰れそうだった。
「――――非常に、面白い、個体が、ありますね」
「貴女は、今、何が、起こるか、分かって、いなかった」
「けれど、貴女は、それを、予測し、理解し、そして、幼体を、守った。非情に、面白い、個体が、ありますね」
「――っ! ほざきやがれ――このクソったれがぁあ――ッ!」
マリアノさんは利き腕を失い、武器を失い、それでも獰猛な視線を魔女へと向け続ける。
しかし……っ。
彼女に出来ることは、泥を蹴り上げたり、石つぶてを投げつけることくらい。
ユーゴの剣が切り取られて消されてしまったように、殴りかかれば彼女の残された左腕をも失いかねない。
いいや……腕だけで済む保証すら……
「――――クソ――クソ――クソクソクソ――クソがァア――っ!」
蹴り上げられた泥も、魔女へ届く前に消えて無くなった。
石つぶても、投げた先から消えて無くなった。
次第にマリアノさんは攻撃の――悪あがきの手段すらも失って、ただ魔女の周囲を走り回るだけ……逃げ回るだけになってしまった。
「――面白い、個体が、ありますね。貴女、見えて、いるのですか。非情に、面白い、興味深い、個体が、ありますね」
面白い。と、そればかりを繰り返しながら、魔女はマリアノさんへと視線を向け続ける。
と言っても、呼んだ通り無貌なのだ。
それが本当に目を向けているのか、それともただそう見えるだけなのかは分からない。
いいや……分かったところで、何か意味があるわけでもない。
魔女はただ佇んでいただけだった。
私達に見つかっても、何もせずにただぼうっと立って待っているだけだった。
それが、今は興味深そうに――身を乗り出すように、マリアノさんのいる方を追い掛けようとしている。
それでも、彼女ほど速くは動けないらしいから、首を伸ばして、一歩だけ踏み出して、少しでもマリアノさんを観察しやすい姿勢を探しているだけだった。
「っ。ジャンセン――ッ!」
そんな魔女を見てか、マリアノさんは大声でジャンセンさんへ指示を出した。
けれど、振り返ってみても、そこには何の準備も無い、途方に暮れたジャンセンさんと部隊員達の姿があるだけだ。
まさか――もうどうしようもないから、このままでは皆殺しにされてしまうから、と。
何か策は無いのかと、縋る思いだけで彼を呼んだのでは――
「――この――バケモンがぁああ――ッッ‼」
指示を出したからには何かがある。そう思ったのは、どうやら私だけではなかったらしい。
そう、私達だけでは。
ガィン! と、金属音がしたと思えば、私の視界の端を鈍く光る鉄塊が横切った。
それは、先ほど破壊されたマリアノさんの大剣の、切り残された刀身だった。
彼女はそれを、魔女の意識を別の方へ向かせてから、たった一度の隙を見計らって蹴り飛ばしたのだ。
しかし……
「――っ。ふざけんなよ……コイツ……っ。どうなってやがる……」
鉄塊が魔女に触れることは無く、泥や石と変わらぬように消えて無くなってしまった。
何も――どんな攻撃も、攻撃ですら無いものすらも、この魔女には届きすらしない。
まるで見せつけられているかのようにも思えるのに、この無貌ではその意図すらも掴めない。
「不思議な、ことを、しますね。貴女は、面白い、個体ですが、しかし、理解の、難しい、個体でも、あります」
「どうして、殺そうと、するのでしょう」
魔女の言葉は挑発ではなかった。
ただ本心から不思議でならないのだ。
どうして、殺せもしない存在を殺そうとするのか、と。
こちらからの干渉は受け付けない。
けれど、こちらへはまるで未知の力によって攻撃を仕掛けてくる。
文字通り別の世界に生きていて、そこからただ姿だけを見せているとしか思えない。
こんなもの、いったいどうすれば……
「――面白い、個体でした。けれど、もう、見るところは、無いようです」
「っ。もう終わりってか……そりゃあテメエが決めることじゃ――――ッ」
ミシ――と、嫌な音がして、それを聞いてから私はマリアノさんが回避行動を取ったことに気付いた。
それはやはり、魔女からの攻撃だった。
音も無く、前兆も見せずに、魔女はまたマリアノさんがいた空間を丸く切り取った。
音の正体は、彼女の後ろに生えていた樹木が、抉られて倒れようとしている音だった。
「面白い、個体です。本当に、興味深い、ことを、しています」
「けれど、それが、意味を、持つことは、ありません」
「不思議な、ことを、しますね。どうして、殺されないのでしょう」
魔女の言葉に、マリアノさんは苛立つ様子も見せず、淡々と次の一手を模索している感じがした。
いや、苛立っている暇も無いのだ。
魔女の言葉の通り、今マリアノさんが無事に逃げ回れていることは奇跡に近い。
少なくとも私からでは、あの攻撃の予兆などは感じられないのだから。
「誰が――黙って殺されてやるかよ――ッ! こんなモン――っ」
マリアノさんは魔女を半ば挑発するように、近付いたりすれ違ったりしながら――先ほどまでよりもずっと肉薄しながら逃げ回る。
しかし、それに効果があるようには思えない。
魔女が感情的になっている様子も無ければ、自信を喪失する気配もまるで見られない。
ただ、興味深い、面白い。と、そればかりを繰り返していて……
「――――ジャンセン――――ッ‼」
何度も何度も魔女の周囲を跳び回り、それからマリアノさんはまたジャンセンさんに指示を出した。
けれどそれは既に一度使った策で、それに今度は武器になるものなどどこにも落ちて……
「――面白い、ことを、していました。ですが、同じこと、ばかりでは――」
「――同じことばっかはテメエの方だろ――このすっからかんが――ッ!」
――パァン――っ! と、火薬の爆ぜる音がした。マリアノさんの指示があって、けれど誰もそちらへ気を向けなかったその直後のことだった。
その音がしてから慌てて振り向けば、そこには短銃を構えたジャンセンさんの姿があって、その銃口からは雨の中にもはっきりと煙が上がっているのが見えた。
「……面白い、個体です。本当に、興味深く、前例の無い、個体です」
けれど、眼では追えない弾丸は、どうやら魔女の身体には到達していなかったらしい。
魔女がゆっくりとこちらを――ジャンセンさんの方を振り向いた時、その身体には出血の様子は見られない。
「……おいおい、完全に死角から撃たれたよな……っ。どうなってんの、コイツ……まさかとは思うけど、また幻像……」
「ぼさっとすんな! クソボケ! これは幻じゃねえ! オレの血が付いてんだろうが! さっさと散れ! このアホども!」
攻撃は通用していなかった。
そんな現実に立ち尽くすジャンセンさんと部隊員に、マリアノさんは怒号を飛ばした。
それからすぐに皆散り散りに走り出して、すると魔女は、また興味をマリアノさんだけに向け直す。
こちらは取るに足らない有象無象だと認識されているのか。
「非常に、興味深い、ことを、しますね。個体として、貴女は、他の、成体よりも、優秀である、ように、見えます」
「けれど、貴女は、他の、個体の、生存を、優先している、ように、見えます」
「ボケたこと抜かしてんな、クソったれ。オレはただ、テメエを殺す為に必要な準備を整えて――っ」
魔女とマリアノさんの睨み合いは少しの間だけ続いた。
しかし、それの終わりはあまりにもいきなりやって来てしまった。
マリアノさんの身体がぐらりと傾いて、そのまま膝を突いてしまった。
失血量が遂に限界を迎えようとしているのだ。
「――っ。クソ……」
魔女はそんなマリアノさんに、ゆっくりと近付いて行く。
それもまた罠かもしれないと疑っている……のだったら、どれだけ良かっただろう。
きっとそれは、最後の瞬間を間近で観察しようというだけなのだ。
ゆっくりとした足取りなのに、どこにも躊躇が無い。
ただそういうのんびりとした生き物だから、それ以上速く動かないというだけ。
それなのに、もうマリアノさんはそれから逃げることも――
「――――遅えぞ――クソガキ――――」
「――? どうして、貴女は――――」
また、火薬の爆ぜるような音がした。
けれどそれは、ジャンセンさんによる銃撃ではなかった。
乾いた破裂音の正体は、何ものかに蹴散らされた草葉が砕ける音だった。
とても素早い――生き物とは思えない速度の物体が、足下の背の高い草を蹴飛ばした音が――――
「――――面白い、個体が、こちらにも、ありましたね。この、幼体は、本当に、興味深い」
音の後には何も起こらなかったように見えた。
ただ、魔女の向きがゆっくりと変わったのは見て分かった。
何かがあったらしくて、それに魔女が興味を向けたという結果だけが、私に理解出来た情報だった。
「――フィリア、予備の剣準備しとけ。剣が折られるなら、それより前にぶった切る」
声が聞こえて、けれど姿は見当たらなかった。
少なくとも、私が見ている方にはその声の主はいなかった――ように見えたから。
けれど――
一瞬だけ空間に白い光が見えて、それから魔女の身体がゆったりと――けれど、これまでに無いくらい大きくのけぞった。
違う、何かを避けた。避けなければならなかったのか。
「――倒すイメージはもう出来た。だったら――俺はお前を倒せる」
よろけた魔女がふらふらと後退して、そこへもう一度光の筋が襲い掛かる。
その正体は、巨大な魔獣を倒していた時よりも更に速い――更に強く進化したユーゴだった。
彼の手には予備の剣が握られていて、それにはまだ切り取られた形跡はどこにも見当たらなかった。




