第二百二十九話【届きもせず】
上空に浮かんで見えたものは、生き物の枠組みを遥かに凌駕した巨大な魔獣の頭部だった。
あり得ない、あり得てはいけない。
あんなもの、存在していい筈が無い。
そんな憤りに似た感情なんて飲み込んで、私達は揃って林の中へと駆け出した。
アレが本当になってしまうよりも前に、無貌の魔女の本体を叩く。ただその為に。
「――ユーゴ、何か気配のようなものは感じられませんか。悪意や敵意――攻撃の意思があった以上、貴方ならば何か……」
「……いや、何も無い。魔獣の気配はちらちらあるけど、どこからも変な感じはしない」
っ。では……では、今までのあの惨劇は、殺戮は、魔女にとって特別な攻撃意思ではなかった……とでもいうのか。
なんということだ、そこまで常識が違うのか。
私の常識知らずとは違う、根本的なところで生き物としてすれ違っている。
一度は対話を試みたことが馬鹿らしくなるくらい、無貌の魔女は私達と相容れない存在だったらしい。
「お前ら、落ち着いて探せ。見た感じ、まだ時間に猶予はあった」
「林は広いが、しかし隠れられる場所には限りがある。この雨の中で風に吹かれないような場所――茂みが濃いところか、或いは巨木の影。洞窟とかもあったら徹底的に調べろ」
「同じとこ二回は探せねえ、見落としは絶対にするな」
ジャンセンさんは部隊にそう指示を出すが……それはやはり難しい注文だろう。
あると決まっているものを探すのならばいざ知らず、本当にそこにあるかも分からないものを見落とすなというのは不可能に近い。
それに、幻像によってそこに居るように見せた以上、居ないように見せかけることも可能な筈。
「ユーゴ、この瞬間だけは私を守ることは忘れてください。私ひとりに気を取られて、全員を守れないなんて結果だけは避けなければ」
「……分かった。ならその代わり、出来るだけ近くにいろ。目の届くところに」
ユーゴは少しだけ心配そうな顔で私にそう言った。
ことここに至って、私ひとりを死守するという考えは彼も捨てているだろう。
もしもあんなものが現実になってしまえば、被害はこの特別隊だけでは済まない。
近隣の街……カストル・アポリアやダーンフール、或いはヨロクにまで及んでしまうかも。
危機感は焦りとなり、焦りは不安となり、不安はネガティブな未来ばかりをイメージさせる。
もしも、このまま間に合わなかったならば。
ユーゴの力があったとして、果たしてあそこまで巨大な魔獣を彼ひとりで解決出来るのだろうか。
マリアノさんもいてくれるが、彼女の力は人間の限界値の外へは飛び出さない。
先ほど少し苦戦を強いられたように、大きさが違い過ぎれば、培った彼女の技も、鍛え上げた肉体も意味を成さないだろう。
「……それに……」
「……? フィリア? どうかしたか?」
それに、もしも魔女が魔術によって身を隠していたならば。
以前にもその話をジャンセンさんとしたことがあったが、彼は魔術に対してまったく知識を持たない。
それと同時に、魔術による隠ぺいや攻撃に対しても、感知能力が機能しないということが分かっている。
「……いえ。見付けることが難しいのならば、出て来てから対処する策も考えねばならないな……と」
「この瞬間は私達も自由に動ける……逃げ出せるのですから」
私のそんな弱音に、ユーゴは何も言わなかった。
それもひとつの手段だろうと、彼も理解してくれたらしい。
彼があの巨大過ぎる魔獣を倒すまでの時間を稼ぐ――周辺の街へ避難指示を出す。
指針転換をするなら早い方が良い、と。
「……ユーゴ、私は貴方のそばから離れません。けれど、ジャンセンさんとも相談したい。彼を近くへ呼んでも構いませんか?」
「……なんでそんなこといちいち許可取るんだ。この間抜け、アホ」
だ、だって、貴方がずっと不機嫌そうにしているから……
しかし、これは事実上の許可だろう。
もう今は喧嘩をしている場合ではない――それを優先して行動を制限している暇など僅かすらも存在しないのだ。
ユーゴの力を以ってしても見付けるのが難しいなら、どちらにせよ出てきた魔獣には対処しなければならないのだから」
「ジャンセンさん。すみません、少しよろしいですか」
「え? あ、うん。どうしたの、なんか見付かった?」
いえ。と、私が首を横に振ると、ジャンセンさんは不思議そうな顔でこちらへ走って来た。
何も無いのに呼び付けたりはしない、それに報告だけならば呼び付ける必要も無い。
そういう前提を彼も理解してくれているからこその疑問があるのだろう。
「……出来れば、隊の皆には内密にしたいことなのですが」
「このままでは、とても無貌の魔女を発見出来るとは思えません。ならば、私達が考えるべきは……」
「……出てきちゃったあのデカいのをどうにかする方法……か。なるほど、確かにこんなことデカい声では言って欲しくないね」
それはつまり、今のこの捜索に意味は無いと明言するようなものだから。
ジャンセンさんは苦笑いを浮かべたが、しかし納得もしてくれた様子だ。
先ほどの広場の方を一度だけ睨み付けると、すぐに視線をユーゴへと向けた。
「ぶっちゃけ、コイツの力に頼るしかないってのが現実だよね。それでも、倒すのにはそれなりに時間が掛かる筈」
「となったら……今から伝令部隊を出して、ダーンフールとカストル・アポリア、それにフーリスへ避難指示を出すべきかもしれない。でもそれは……」
「……私達の行軍を、最悪の結果を招いた愚策だったと流布するようなもの……ですね」
「ヴェロウからの信頼は地に落ちるでしょうし、もしかしたらダーンフールとフーリスの合併の件も白紙に戻ってしまうかもしれません。それでも……」
私達の作戦のすべてがとん挫したとしても、それで民が護られるのならばやる価値は大いにある。
むしろ、避難指示を出さずに都市やカストル・アポリアを失う方が痛手になるだろう。
ネガティブな言葉ばかりが交わされた割には、意見はすぐにまとまった。
急ぎカストル・アポリアへ使者を送ろう、と。
「ただ、問題も結構あるよ。今現在、部隊はかなり規模を小さくしてる。そんでもって捜索の手を緩めるわけにもいかない」
「理想はフィリアちゃんが直接出向くこと――フィリアちゃんを安全圏に逃がしつつ、近隣に指示を出せること……だけど、ユーゴは絶対にここへ残さなきゃならない。姉さんについても同様だ」
そうなった時、護衛を任せられる戦力が足りていない。と、ジャンセンさんは険しい顔をする。
彼の言う通り、あの魔獣が現れてしまった時にユーゴがいないのであれば、それを倒すどころか、押しとどめることも出来ない。
きっと国中を破壊されてしまうだろう。それでは避難をさせた意味が無い。
マリアノさんについても、部隊全体の能力が下がり過ぎれば、ユーゴの足を引っ張ってしまうだけになるから、同じようにこの場に残って貰わなければならない。
「そうなると、まだ罠がある可能性や、ここからカストル・アポリアまでの距離を鑑みて、かなり戦力を割かないといけなくなる」
「でも、そっちにはユーゴや姉さんの防御が無いから、もしも標的にされたら全滅は目に見えてる」
「最悪の場合、避難指示を各地に伝えることも出来ず、ただいたずらに戦力を分散し、失うだけになってしまう……というわけですね」
うっ……そうなると、状況はますます悪くなってしまう。
となれば、今は全戦力をここに集め、攻撃を食い止めることを優先すべきか。
魔女を発見し、捕縛する。
それでも巨大魔獣が出現するのならば、ユーゴが食い止めてくれている間に伝令を送る。
都合の良い方にばかり考えた策にも思えるし、その上で後手を引き続ける羽目にもなるが、もっとも裏目が少ないのはこれか。
「ちょっと遠くへ来過ぎたね、その辺も想定してここまで誘導されたんだろうけど」
「こうなったら、ユーゴが俺達の想像をはるかに超えて進化してくれることを祈るしか――」
祈るしかない。と、ジャンセンさんがそう言うのと同時に、部隊の一部から声が聞こえてきた。
それは、悲鳴でも敵襲を報せる警告でもない。
“見付けた”という、もっとも嬉しい報告であった。
「――見付けた――って――どこだ! そっちか!」
そんな報告を受けては、私もジャンセンさんももう次善策などに気を割いている暇は無かった。
ここで魔女を退治し、すべてを解決する。
それで全部終わりとしてしまえればそれよりも良いことは無い。
こっちですと呼ぶ声の方へジャンセンさんが走り出して、それを追って私も――
「バカ――っ! お前は俺のちょっと後ろから付いて来い! このアホ! バカ! 間抜け! デブ! お前がやられたらダメだって言ってるだろ!」
「いたいっ。わ、分かっています! 貴方ならば私くらい追い抜いて行けるでしょう! 叩かないでください!」
ご、ごめん。と、ユーゴはちょっとだけ怯んで、それでもすぐに私の前を走り始めた。
強く出られると案外引くのだな、この子は。ではなくて。
「――ユーゴ。もしも魔女を倒せたとして、それでもあの魔獣が止まるとは限りません。細心の注意を払ってください」
「分かってる。そもそも、あの魔女がどんだけ強いのかも分かってないからな、お前こそ気を抜くな」
「まだ、あの魔獣なんて気にしてる場合じゃないかもしれないぞ」
なんとも恐ろしい話をしてくれるものだ。
しかし、ユーゴがいて倒せない個体などあり得ない。
そう確信してしまえるくらい、今の彼は飛び抜けていた。
それこそ、あの山より大きな魔獣でさえ、倒せるという前提で話をしてしまうくらいに。
それから私達は声のありかに辿り着いて、それからその存在を発見した。
逃げるでも隠れるでも、ましてや反撃をするでも無く、それはゆうゆうと佇んでいるだけだった。
「――今度も偽物――なんてことは無いよな。だったら――」
一発で――と、ユーゴは剣を握り締め、誰をも置き去りにして飛び掛かった。
魔獣が出現する気配は無い。
彼の攻撃を遮ろうとするものは何も無いのだ。
剣は大きく振りかぶられて、降りしきる雨粒もろともに無貌の魔女の肉体を両断せんと――――
「――――不思議な――ことを――しますね。どうして、殺そうと、するのでしょう」
「――何言って――」
命乞い――ではなかった。
刹那の瞬間に聞こえた声は、確かに先ほど広場で聞いた魔女のものと同じだった。
しかし、剣を振り下ろされる直前の言葉としてはひどく不自然なものに思えた。
それがどうして奇妙なのかと、私達はすぐに理解した。
見逃して欲しいとせがむ言葉ではなかったから――違う。
自らに向けられる攻撃意思に憤っていなかったから――違う。
その場において不自然だったからではない。
その場が――この現実が、思い描いていた当然とかけ離れていたから――
「――――な――んで――――っ」
ユーゴの放った一撃は、何にも遮られることなく振り抜かれた。
そう、何にも。
魔獣にも、魔女による防御にも。
そして――魔女の肉体にも触れず――空を切り裂くことすら――――
「――どうして、殺せると、思ったのでしょう。不思議な、ことを、しますね」
ユーゴが握り締めていた剣には、刀身が残っていなかった。
折れて落としてしまったのではない。
もう、どこにもその刃は見当たらなかった。
彼が握り締めている柄よりも先には何も存在せず、それを私達が理解したのと同時に絶望感が湧き上がる。
まさか――まさかこの魔女は、魔獣だけでなく、望んだものすべてをどこか違うところへ――――
「――――退がれクソガキ――――ッッ!」
怒号が響いて、それから血飛沫が舞った。
ユーゴの身体が宙を舞って、目の前の事象に理解が遅れて追い付いた。
ユーゴが立っていた場所にはマリアノさんがいて、そして巨大な大剣が――剣の刀身だけが地面に落下する。
それを握り締めていた彼女の右腕が、握られていた柄が――すべてが丸く切り抜かれ、私達の視界から消え去ってしまっていた。




