第二百二十四話【読み取れもせず】
その声には全く聞き覚えが無かった。
そして、そんなところから声が聞こえるとも思っていなかった。
ゆえに、私の反応が遅かったのは理解出来る。
だが――だが――――っ。
「――コイツ――っ! フィリアぁあ――っ!」
私の頬に熱いものが触れて、それが人の血だと――私を守ってくれていた隊員のものだと知って、頭の中がぐちゃぐちゃにかき回された気分になった。
その惨劇に――ではない。
そんな惨劇を引き起こしたその存在に、ユーゴが気付けなかった事実に――だ。
「――っぁ――ユーゴ――っ」
身体は動かなかった。
混乱が、動揺が、そして大き過ぎる恐怖が、私の肉体を完全に縛り付けていたのだ。
ユーゴがこちらへ駆けて来るのが見える。
だが、それに手を伸ばして、助けてと口にすることさえもままならない。
私の中にあったのは、絶望感ですらない。生への諦念だった。のに……
「――っ。フィリア! 大丈夫か! アイツ――どこから――っ」
私の身体はふわりと持ち上げられて、ユーゴによって崩れた陣形の真ん中から引きずり出された。
景色が変わってもまだ私の身体は指先さえ動かなくて、彼の顔に焦点を合わせるので精いっぱい……いいや、それすらもおぼろなままだった。
けれど、私は無事にこうして生きている。
殺されると諦めさえしたところから、まるで何ごとも無かったかのように生きて助け出されていた。
「面白い、ことを、しますね。攻撃、ではなく、保護を、優先した」
「非情に、非効率的で、無意味な、行動です。その、原理は、なんでしょうか。予想が、難しい」
しっかりしろ。と、ユーゴに身体を揺すられて、私はようやく意識を現実に引き戻すことが出来た。
たった今まで、仮想的な死を体感していたかのような時間だった。
けれど、こうして戻って来てみれば、私自身はまったくの無傷だ。
私には一切の攻撃を加えずに、その護衛だけを狙ったとでも言うのか。いったいなんの為に。
疑問はそれだけではない。
いいや、もっと根本的な……致命的な懐疑が存在する。
あれだけの惨事を――攻撃性を秘めておきながら、どうしてユーゴにそれを察知されなかった。
悪意や敵意は、彼の感覚に引っかかる筈。
それが魔獣のような本能的で原始的な欲求だったとしても、彼はこれまで全てを感知し、撃退してみせている。だというのに……っ。
「……アレ……魔獣……なのか……? 喋ってるけど……人間じゃない……よな……?」
「え……? ユーゴ、どうしたのですか……?」
「たどたどしい言葉遣いですが、しかし言語として成立している以上、人間以外には……っ!」
アレはなんだ。と、ユーゴがそう言ったから……なのか。私の中にもおぞましい違和感が湧き上がって来た。
アレは――あの存在はなんだ――
魔獣ではない――のかもしれない。
言語を操り、会話を試み、そして意思疎通を図ろうとしている……ように思える。
しかし……
人間でもない。
この部分については確信さえ持ってしまった。
そしてそれは、私だけのものではないらしい。
ジャンセンさんも、生き残った隊員も、次々に合流している隊員も皆、その違和感に顔をしかめている。
顔をしかめ、警戒し、不安と戦いながらその異物を観察している。
衣服を纏う出で立ちは人のようにも見えたが、しかし袖から伸びる腕は猛禽の脚ようだった。
長い裾を引きずっているものだから、下肢についてはまったく情報が得られない。
ただ――腕が奇妙なことを覗けば、そのシルエットは人のように見えた。
けれど――
「――顔が――っ。どうなってんだよ、アレ……」
「フィリア、あんなの今まで見たことあるか……?」
――顔が存在しなかった——
頭部はある、首も繋がっている。
人間の顎の輪郭も存在し、よく見れば小さいながらも鼻のような筋が通っている。
けれど、そこに鼻腔は存在せず、口も眼も見当たらず、縁だけを切り取っても耳に相当する部分が無い。
先ほどから喋っている筈なのに、その為の器官がどこにも見当たらない。
こんな存在に見覚えなどがあってたまるものか。
「ユーゴ、気を付けてください。アレがなんであれ、危険なことに変わりありません。少なくとも、先ほどまでいた巨大な魔獣よりも……っ」
「分かってる。フィリア、出来るだけ俺から離れるな」
ユーゴはそう言って私の前に一歩だけ躍り出た。
けれど、あの存在に近付こうとはしない。彼もかなり警戒心を強めているようだ。
いや、当然か。今までに経験したことの無い敵なのだから。
「――番号、三桁の、群体が、到着する。しかし、先の、様子を、見るに、この幼体には、早期解決の、手段が、備わって、いると、推測する」
「何言って……っ。そうだ、魔獣――っ。くそ……あんま目を離したくないのに……」
ユーゴは目の前の何かの発言に苛立って、半歩……いいや、そのもう半分だけ退いた。
私との距離を詰めて、出来るだけその背中に隠そうとしてくれているように思える。
その原因は、先ほど彼が感知した魔獣の接近だろう。
この用意された広場へと、また魔獣の群れがやってくる。
それを、今度は彼の感覚ではなく、あの謎の存在の言葉によって思い出した。
「っ。ジャンセンさん、部隊を率いて魔獣の迎撃を! アレがなんなのか分からない以上、ユーゴが注意を払う他にありません!」
「うん、分かってるよ。お前ら、陣形作り直せ。アイツにも警戒しながら、最低限の人数だけ俺に付いて来い。残りは姉さんの合流を待ってろ」
ジャンセンさんは私がお願いするよりも前に動き始めてくれていた。
彼については流石と言ったところだが……問題があるとすれば、それをこの謎の存在が許すかどうか、だ。
先ほどは攻撃がまったく見えなかった。
しかしそれは、死角を突かれたから……である筈。
ユーゴの意識の死角にすら潜り込めた事実はあまりに大き過ぎる脅威だが、しかしこうして面と向かい合っている以上、下手な動きなど出来よう筈も無い。
今のユーゴは、まるで風のように速く動けるのだから。
「――貴方は何者ですか。目的は――私を攻撃しなかった理由はなんですか。言葉が通じるというのであれば、私は対話を試みたい」
「っ。おい、フィリア。アホなこと言ってんな」
ジャンセンさんが魔獣を迎撃しに行ってくれた。
そして、ユーゴはこの存在を徹底的に警戒してくれている。
今現在、この場における脅威はどれも停止状態にあると見て良い。
ならば、するべきことはひとつ。
未知を解明し、対策を立てる。
ユーゴならばどんな相手にも負けることは無いが、しかし彼が勝つよりも前に出る被害は最小限に抑えたい。
そして……この存在と魔人の集いについて、可能な限り情報を集めたい。
そう目論んで、私はそれに声を掛けた。
「何者か、という、問いには、答え難い」
「個体としての、名称は、持たず。また、分類としての、名称も、持たず」
「けれど、私と、同種と、思しき、ものは、魔女、と、呼ばれ、また、そう、名乗って、いる」
「故に、呼称を、決めるのだと、すれば、魔女、と」
「――魔女――ですか。それが、貴方や貴方と似たものの総称であるとするならば、貴方個人を特定する呼称も必要でしょう」
「であるならば――短絡的で差別的に聞こえるかもしれませんが、便宜上貴方を――無貌の魔女――と、そう呼ばせていただきます」
魔……女……?
それは……魔人とは違う意味を持つのだろうか。
この無貌の魔女が指す同種の存在とは、ゴートマンや他にいると思しき魔人のことだろうか。
それともまた更に別の何かが控えているのだろうか。
とてもではないが、現在の情報量では推測など出来っこない、か。
「――無貌の、魔女――ですか。無貌……顔が、無い、魔女、と」
「確かに、先の、発言と、この、外見を、鑑みれば、的確な、呼称と、言える、でしょう。しかし……」
ふふ。と、無貌の魔女は初めて単語以外の音を口にした。
意味の無い音……笑い声を。
それが私にはひどく不気味に思えた。
感情があるようだ、と。
まるでその考えなど見通せそうにないから無貌だというのに、どうしてか喜びにも似た感情がこちらへ筒抜けになっている気がしてくる。
頭がおかしくなりそうだ。
「ありがとう、ございます。それでは、これからは、無貌の、魔女、と。ああ、いえ。無貌の魔女、と。そう、名乗り、また、呼ばせる、ように、しましょう」
「人から、贈り物を、いただいた、のは、初めて、です。とても、喜ばしい」
「……そう……ですか」
嬉しい。と、無貌の魔女は噛み締めるようにその言葉を繰り返した。
私に名を付けられたことが……ではないのだろう。
名を付けられた、贈り物をされた、そういった経験が喜ばしいと、嬉しいと。
そんな自己の確認こそが嬉しいのだと、私は直感的に理解した。
この無貌の魔女は、表情などひとつも読み取れないというのに、どうしても感情の全てがこちらの胸の奥へと押し付けられるような感じがしていけない。
先ほど部隊の皆を惨殺されているというのに、その無垢さに情が湧きそうになる。
「……では、もうひとつの問いにも答えていただきましょうか」
「無貌の魔女よ、貴方はどうして私達を攻撃したのですか」
「そして――攻撃しておいて、どうして私だけを殺さなかったのですか」
「たとえ私の正体を知らずとも、状況を見れば、私が部隊において権限を持っていることは理解出来た筈でしょう」
私は問いをもう一度繰り返した。目的は何か、と。
私達を襲った目的は、そうでありながら私を殺さなかった理由は何か、と。
ユーゴはきっと嫌な顔をしている。
背中しか見えないこの場所からでも、彼の苛立ちはよく分かった。
けれど、それを問わなければ、この魔女の本質を理解出来そうにない。
そう思ったから、躊躇などしていられなかった。
「目的、ですか。そう、ですね。強いて、挙げると、するのならば、頼まれた、から、でしょう」
「贈り物は、いただいた、ことが、ありませんが、親愛する、ものが、あるのです」
「故に、協力の、意思を、示し、ました」
頼まれた……? それは、やはり魔人の集いに、か?
この魔女は嘘をついていない……と、思う。
少なくとも、胸に届いてくる感情の中に、こちらを騙そうというものは存在しない。
あまりにも無垢で、あまりにも純粋な感情。
その親愛するものの為に、という清らかな思いだけが感ぜられて……っ。
後方から迫る馬の足音が聞こえる。
どうやら、ジャンセンさん達は魔獣を撃退したらしい。
部隊もどんどん合流していて、状況はどんどんこちらに優位なものとなっていく。
けれど……っ。
この無貌の魔女は、焦る様子も、怯える様子も見せない。
まっすぐに私と向き合って、好奇心をユーゴへと向けている。
それだけだと理解出来てしまうから、なおさら私の中の恐怖が大きくなっていくのが分かった。




