第二百二十一話【暗礁】
 
ゴートマンに襲われ、帰路を断たれ、それでも部隊は前へと進み続ける。
人為的に作られた濁流に沿って東へ――本来戻るべきダーンフールからは遠ざかる方角へと。
ユーゴはまだ合流しない。
つまり、ゴートマンか、或いはそれに準ずるような脅威がまだ隊の後方を襲っているのだ。
マリアノさんひとりに任せられないような脅威が、彼のすぐ近くに迫っている。
「――ジャンセンさん! もう少し流れから離れてください! 増水しています、そのままでは飲み込まれてしまいかねません!」
目に見えないところへの不安と恐怖もだが、目の前にある違和感と懸念も、どちらも捨て置けない問題だった。
ここから後方、西にある筈の川をただ決壊させただけならば、この水量は計算が合わない。
そもそもがこんなにも激しい流れの川ではない筈だ。
いくら雨が降っているとはいえ、この程度の降雨量ではこんなにも暴れるなんてあり得ない。
意図があることは当然として、なんらかの不自然な手段を用いて私達を攻撃しているものがある。
「部隊をもう少し左へ寄せてください! これは川ではありません、決まった流れなど存在しないのです!」
「どこでこちらへと波が押し寄せるか分かりませんから、少しでも距離を取って、安全を優先してください!」
ジャンセンさんは前方で、騎馬隊に指示を出しながら魔獣と戦っている。
隊への指示がおろそかになれば、魔獣はこの部隊を縦に飲み込んでしまうだろう。
だから、彼は後方への指示を出せない状況にある。
ならば、私がやるしかない。
私はまず、部隊を出来るだけ濁流から離れるようにと指示を出した。
これは川ではないから、これだけの川幅を流れるといった決まりが無い。
氾濫という言葉もふさわしくない、いつどこから横方向へ水があふれだすかも分からない状態だ。
もしも部隊の側面を水に襲われ失ってしまったならば、今はなんとか対処出来ている魔獣を相手するにも問題が出てしまいかねない。
「もっと! もっと左へ! 水辺から離れてください! 後方からの波には馬も車も耐えられません!」
だが、私の指示にも部隊はなかなか濁流から離れてくれない。
いいや、そんな余裕など無いのだ。
水の無い反対側からは魔獣が攻めて来る。
魔獣は水中に住めないし、この流れの速さではそこに潜むことも出来ない。
だから、襲ってくるのは当然のように反対側からだけ。
そちらからの攻撃があるから、部隊も自然と水のある方へと押し込まれてしまう。
もしやとは思うが、魔獣をけしかけて部隊をこの濁流に飲み込ませてしまおうだなんて策があるのだろうか。
「女王陛下、中へ入ってください! あまり身を乗り出すと危険です! 指示は俺が出しますので!」
「そういうわけにも……っ。いえ、お願いします」
「とにかく部隊を水辺から離れさせてください。川からこれだけ離れても勢いが衰えないということは、雨と川の水以外にもここへ流れ込んでいるものがあるということ」
「となれば、それの機嫌次第では、簡単に部隊を飲み込むほどの大きさの波が来かねません」
ジャンセンさんと交代して馬車の中で私を警護してくれている隊員に、指示を伝えて号令の役を交代する。
私よりも彼の方が声が大きいから、流れの音と雨の音にかき消される心配は無いだろう。だが……
この状況、考えられる最悪の展開は、どこまでひどいものになるのか。
まずは部隊が濁流に飲まれて壊滅してしまうこと。これは絶対に避けなければならない。
だから、とにかく離れることが先決。
次に、魔獣の攻撃によって部隊の一部が欠け、そこから連鎖的に崩されてしまうことか。
しかし、これに対しては明確な打開策が無い。
各個人の力量以上に、戦況の複雑化が進めば進むだけリスクが高まってしまう。
これを解決出来るとしたら……
「……っ。ユーゴ……早く来てください……っ」
ひとりで十以上の魔獣を一手に引き受けられる、あのふたりの到着以外に希望は無い。
そうだ、ユーゴさえ自由に動けるようになれば――こちらへと合流してくれれば、今浮かんでいる問題のほとんどが解決する。
部隊を左から襲う魔獣の全てを彼が蹴散らしてくれれば、隊列を濁流から離れた場所に再編成出来る。
彼が前方に加わってくれれば、ジャンセンさんはまた安全な馬車の中に戻って指揮を執れる。
ユーゴさえ……ユーゴさえ来てくれれば……
「――女王陛下! 前方が――頭達が林に突っ込んでいきます!」
「隊列を細くしないと、このままじゃ進めなくなっちまいますよ!」
「っ。い、急ぎ伝令を! この先に道が無い、と」
「部隊を縦に展開し直し、林を抜けるまでは濁流よりも魔獣への警戒を強めるようにと!」
隊員から報告されてすぐ、私も覗き窓から前方を確認した。
ジャンセンさんの――私達の進む先には、木々が密集して進路を塞いでいる。
もしかしたら、大型の馬車は通れないところがあるかもしれない。
ジャンセンさんもそこを気に掛けながら進路を選んでくれるとは思うが、しかし魔獣を捌きながらでは限度がある。
「部隊の中で最も大きい馬車の幅でも通れるように道を選んでください」
「ジャンセンさんと少し距離が開いてしまうかもしれませんが、後方を全て置き去りにするよりはマシです」
「この馬車を目印に、後方部隊全てを引っ張るのです」
「了解しました! 聞いてたか、ジャッカル! 進路は俺が指示する! 頭の動向を窺いつつ、こっちにも耳貸せ!」
隊員と馭者との間で少しのやり取りが行われて、それからは彼らによって部隊の進む道が決定されていった。
もしやとは思うが、これも狙いのひとつなのだろうか。
こちらの情報を取得し、弱点を――潰すべき長所を把握する。
最も強大な戦力であるユーゴとマリアノさんを部隊から引き離し、もっとも優れた指揮官であるジャンセンさんを孤立させる。
この濁流を引き起こした何かは、そんな目論見を立ててこちらを攻撃しているのか。
だとしたら……
「……無茶を承知でお願いします。絶対に……絶対にジャンセンさんと離れ過ぎないように」
「もしもこれが罠……策謀だとするのならば、あちらの狙いは、私よりもジャンセンさんである可能性が高い」
「彼を失えば、部隊の機能は半分も引き出せなくなってしまいます。なんとしても彼の孤立だけは避けてください」
こんなこと、私に言われなくても皆そう考えるだろうし、そう願うだろう。
ジャンセンさんはこの部隊の全員にとっての恩人で、リーダーなのだ。
かつて盗賊団として活動していた頃からのまとめ役、皆に信望されるものだ。
そんな彼を失いたくないなどと、今更私が頼むまでもないだろう……が、それでも念押しをしなくては気が済まない。
それだけの不穏な空気がここにはある。
そんな私の不安や恐怖も、しばらくの時間が経つ頃には薄れてくれた。
部隊がすぐに林を抜けたのだ。
地図の上で確認しても、確かにそう広いものではない。
しかしそれを確認するのと同時に、ダーンフールから想像以上に離れてしまっていることも思い知らされる。
一刻も早く進路を南へと取りたい……が……
「――だぁ! クソ! まだ――林を通り抜けたのに、なんだってまだ勢いが弱まらねえんだよ!」
「おいお前ら! まだ気を抜くんじゃねえぞ! もしかしたら、この濁流はどっかの川に繋げられてんのかもしれねえ!」
「最悪袋小路に追い込まれるぞ! ちょっと無茶でも渡れそうなとこ全力で探せ!」
私が考えを口にする前に、ジャンセンさんの怒号が響いた。
それはきっと、私達よりも後ろの部隊にまで聞こえていたことだろう。
馬車の中をびりびりと揺らすほどの返事が聞こえてきた。
ジャンセンさんが少しいらだった様子で指示を出した通り、濁流の勢いは未だに収まってくれていなかった。
もう大本の川からずっと遠くにまで来ているのに、どうしてこうも水かさが減らない。
「ジャンセンさん! このまま流れに沿って進むのは危険な気がします!」
「どう考えてもこれには意図がある! 誰かが人為的に準備しなければ、こんなにも強い流れがここまで長く続く筈がありません!」
「うん! 分かってる! 分かってるけど!」
けど。と、その後ろにジャンセンさんは何も付け足さない。付け足せない。
分かっているけどなんとも出来ない。なんてそんな弱音を彼が口にすれば、部隊の士気に差し障る。
しかし、このまま無策で進むのも危険極まりない。
この流れは私達の退路を断ち、部隊を混乱させ、魔獣によって壊滅させよう……というものではないのかもしれない。
いいや、もちろんそれも目的のひとつだろう。
しかし、それだけではないと思えてきた。
私達は今、この水の流れによって、進路を操作されているのではないだろうか、と。
あまりに不自然な現象を前に、もはや思考は堂々巡りを続けるばかり。
疑心が自分の導き出した解をすべて否定してしまう。
「……でも、立ち止まるのが一番ヤバい! このまま進みながら、どっかでここを超える! ユーゴがまだ来てない以上、今は特別なことは出来ない!」
ジャンセンさんはそう言うと、また馬に鞭を入れた。
それに引っ張られて部隊全体が速度を上げる。
ジャンセンさんも私と同じように、どうしようもない違和感と不自然に悩まされているようだ。
ユーゴが来るまでは……と、ジャンセンさんはそう言ったが、果たしてそれは本心だろうか。
ユーゴが来たとしても……と、そんな弱気が私の中に芽生え始める。
まだ彼の姿が見えないから、彼の勝利が報告されないから。
だから、早く来てこの鬱屈とした不安を吹き飛ばしてくれ。と、私はユーゴに願う。
それでも、彼は一向に合流しない。
そしてそのまま、部隊はまた木々の茂る地帯へと――今度は簡単には終わらない、深い深い樹林へと踏み込んで行く。
 




