第二百十九話【退路】
馬車の外では、雨音さえかき消してしまうくらいの激しい戦闘の音が聞こえる。
下調べの済んでいた地点まで到達し、帰還しようとしたその瞬間にゴートマンが襲ってきたのだ。
だが……
「大丈夫、姉さんもいる。こうして真正面から出てきたってことは、ゴートマンはまだあの魔術を使えないままってことだ。なら、あのふたりに任せて大丈夫だよ」
「……はい。そうなのです。その通りの筈で……」
ゴートマンはユーゴの力を知っている。
そして、かつて盗賊団との競り合いがあったからには、マリアノさんの実力もそれなりに把握している筈だ。
にもかかわらず、真正面から攻めてきた。
それがどれだけ無謀なことかを理解しているからこそ、その行動の裏付けがなんなのか不安でたまらない。
「姉さん! ユーゴ! 絶対に隊の中腹に噛み付かせないで! 分断されると危ない!」
「そいつは絶対に押し返して、姉さんはそのまま後ろに付いて! ユーゴは終わったらさっさと前来い!」
分かってる! と、マリアノさんの声が少しだけ遠くで聞こえた。
部隊は縦長に連なって進行しているから、私達が立ち止まると後方の皆が危険地帯に留まらなければならなくなる。
進むも戻るも、停止という選択肢はほとんど無い。
だから、ゴートマンと交戦中のふたりを置いて、私達の乗った馬車はぐんぐんと進路を進み続ける。
「さて、そんじゃあ俺が前に出るしかないよね。おい! 騎馬隊! こっちにひとり来い! 交代だ!」
「っ。ジャンセンさん、無理はなさらないでください。既に掃討した道とはいえ、どこから魔獣が出るかも分かりません」
「ゴートマンが……魔人の集いが現れた以上、また別の危険な敵が現れる可能性もあります」
こんなこと、私に言われるまでもないだろうが、それでもジャンセンさんは笑って頷いてくれた。
そして騎馬隊のひとりと交代する形で馬車から飛び出して、先ほどまでユーゴとマリアノさんが務めていた先頭を駆け始める。
「女王陛下、ここからは俺がお守りします! 姉さんも後ろに下がっちまいましたからご不安でしょうが、命に代えてもダーンフールまで送り届けてみせます!」
「命には代えないでください、貴方も生きて帰るのです」
「万が一があれば先頭の私達が減速し、部隊を出来る限り密集させます。防御を固め、時間が掛かっても可能な限り安全に帰還しましょう」
そう、何かあればまずは防御を固めることを考えるべきだ。
ユーゴもマリアノさんも、それにジャンセンさんも失うわけにはいかない。
誰ならば失っていいという話ではなく、この三人だけは何があっても無事でいて貰わなければ次が無いのだから。
となれば、ユーゴの合流がしばらく望めない状況で、進行方向に危険な敵が現れた場合。
その時にはとにかく守りに徹し、何がなんでもジャンセンさんを無事に守り抜く必要があるだろう。
「……それに、あのゴートマンはどうやら私を狙って攻めてきているようですから」
「ユーゴのような身体能力はありませんから、あそこからこの馬車に追い付く手段など無い……と、そう思いたいところですが……」
だが、ゴートマンにはあの瞬間移動の魔術がある。
相変わらず原理も制約も分かってはいないが、とにかくユーゴですらも取り逃してしまうくらいの厄介な移動能力だ。
あのふたりとの戦闘の最中に安々と使えるとは思えないが、しかしここがいつ襲われるかも分からないとは覚悟しておかないと。
「そういうことなら、ユーゴだけでも先頭に同行させるべきだったでしょうか……? いえ、しかし……」
ゴートマンの攻撃力は未知数だ。
とにかく、他者を操るという能力が危険極まりないものだったから、それに対する警戒と対策ばかりを講じてきた。
故に、あの魔術師本人の戦闘能力についてはあまり調べられていない。
カストル・アポリアでの交戦を思い返せば、ユーゴとマリアノさんを打倒するほどの攻撃力などは備えていないと思うが……
ジャンセンさんが先頭を走り始めてからしばらく経って、ユーゴとマリアノさんの声ももうすっかり聞こえなくなってしまった。
馬のひづめの音と車輪の音と、そして雨が天井を叩く音ばかりだ。
「――頭! 後方から信号あり! 全部隊の反転が完了したようです!」
「おう! 分かった! てーのに、まだユーゴが合流してないってことは……」
ジャンセンさんと交代して私の警護をしてくれていた隊員が、後方から上がった信号弾を煙を伝えた。
しかし、それでもまだユーゴは前に来ない。
ということは、まだゴートマンとの戦闘は続いているのだろう。
だろう……が……
「……っ。すみません、私にも少しスペースを……。ジャンセンさん! 様子がおかしいです!」
「ユーゴにマリアノさんまでいてまだ戦闘が続いているということは、ゴートマンには攻撃以外にも目的があるように思えます!」
「一度減速し、部隊を出来る限り小さくまとめて防御を固めましょう!」
そんなことがあり得るだろうか。
ユーゴとマリアノさんを相手に、果たしてどれだけの手練れならばこれだけ戦闘を長引かせられる。
それに、ユーゴは相手の強さを見てから進化出来るのだ。
その為にもと頭を休めたままここまで来たのだし、どれだけの相手にも苦戦などする筈が無い。
そう、戦闘という形になっているのならば。
「――ああ、そういうこと。フィリアちゃん! 忠告ありがとう!」
「でも、だったらむしろもっと飛ばそう! 後ろには姉さんが付いてるし、何よりフィリアちゃんの安全が最優先だ!」
「先頭だけでも砦の中に帰還させるつもりで逃げるよ!」
今現在にもまだユーゴとマリアノさんが釘付けになっているのだとしたら、それはゴートマンが逃げに徹しているからではないだろうか。
あの瞬間移動を繰り返し使って、とにかくふたりがこちらへ合流するのを妨害しているとか。
そうすることで何が起こるのかはまだ分からないが、本命となる目的が別に存在するのならば、十分考えられる策だろう。
部隊全体の安全よりも、私の帰還を優先する。と、ジャンセンさんはその言葉の通り馬を更に速く走らせる。
それに合わせて馬車も加速し、後方の部隊も順々に加速を始める。
だが、雨も降っているし足下もぬかるんでいる。
悪い視界に気を取られれば滑ってしまいかねないし、しかしそちらに注意し過ぎていても魔獣の接近に気付けない。
もしかしたら、これもまたゴートマンの策だろうか。
「ユーゴは……ユーゴはまだ来ないのですか……っ。まだ……まだゴートマンは……」
ゴートマンの出現からまだどれだけも経っていないだろうが、しかし心はどうしても急いてしまう。
やはり、ユーゴをあの場に留めることが目的であるように思えてならない。
だってゴートマンはユーゴの強さを知っている。
そして……人間を相手には、その力の大半を制限してしまうことも。
「っ。今、どのあたりまで戻ったのでしょうか。すみません、地図を貸してください。ゴートマンと接触した地点にも目印を打っておかないと」
「は、はい。すぐに」
地図を受け取って、そして冷静になってゆっくりと計算をしてみれば、まだ来た道を半分も戻っていなかった。
いいや。それどころか、四分の一をようやく過ぎる頃だ。
半日掛けて来た道を、まだもう半日進まなければ帰れない。
ジャンセンさんが急いでくれているから、そう単純な話でもないかもしれないが……しかし……
「……すみません。貴方から見て、何かを仕掛けるとしたら……というポイントはありますか?」
「罠を仕掛けるのでも、奇襲を仕掛けるのでも、なんでも」
「とにかく、縦に並んだ部隊を攻撃するのにうってつけなポイントは、ここからダーンフールまでの区間にあるでしょうか」
「え……ええと……女王陛下、それを聞いてどうなさるおつもりでしょうか……?」
どうもしませんよ、私は。
ただ……私以外には、どうにかしたいと考えているものがいるように思えてならない。
それが杞憂なら、私がひとりでくたびれておしまいだ。
が、そうでなかったら危険に過ぎる。
「先ほど襲ってきたゴートマンという人物に仲間がいたならば、どこで攻めて来るかを考えておきたいのです」
「こういったことは私よりもジャンセンさんの方が得意でしょうが、しかしあの視界と足下ではそれを考える余裕など生まれないでしょう。私達で彼の代わりを務めなければ」
「な、なるほど。でしたら……ええと……ここはどうでしょうか。近くに川が通ってて物資を運び込みやすいですし、それにここからは登りこう配です」
「どうしても減速しますし、ここでどん詰まりになったら、後ろもごちゃごちゃになりそうです」
ふむ。彼の進言はあまりにも納得のものだった。
流石に場慣れしているし、ジャンセンさんにも鍛えられているのだろう。
さて……そんな彼が睨んだ危険なポイントは、当然魔人の集いも理解している筈。
なんとか対策を立てたいが、問題があるとすれば……
「……っ。近過ぎる……すぐに信号弾を上げてください! ユーゴに合流して貰わないと、ジャンセンさんが危ない!」
「は、はい!」
地図上のポイントは、ここまでの計算が正しいとすれば、もう目と鼻の先だった。
もしも何か特別な戦力が――ゴートマンのような魔人が現れたとすれば、やはりユーゴの力は欠かせない。
彼の合流だって、今からでは間に合うか……いや、そもそもこの信号の意味を彼が理解出来るかどうかも分からない。
それでも私達は急いで信号弾を打ち上げて、ジャンセンさんにも声を掛け――――
「――――ジャンセンさん――――っ!」
――――ゴゴウ――――と、大きな音がして、それからすぐに私達は前のめりに馬車の内壁に叩き付けられた。
音の正体は目に見えた。
ジャンセンさんの――私達の行く手を阻むように、横から鉄砲水が押し寄せたのだ。
地図と照らし合わせたならば、きっとここがあのポイントだろう。
川から近く、そして坂の一番下に当たるあの地点。
急ぎ身体を起こして窓から前を見れば、ジャンセンさんは間一髪で流れに飲み込まれずに済んでくれたみたいだった。
けれど……彼の目の前を濁流が横切り、予定していた進路はもうどこにも通じていなかった。




