第二百十五話【煽動】
「――フィリア、起きろ。もう朝だぞ」
ユーゴの声が聞こえて、私の意識はパッと覚醒した。
昨晩は不安のあまりすぐには寝付けなかったが、しかし寝坊する事態は避けられたようだ。
まだユーゴの声に苛立ちや焦りを感じない。
「おはようございます、ユーゴ。今朝もありがとうございます」
「なんか最近、俺が目覚まし係になってないか? 別にいいけど」
別に頼んだ覚えも無いが、しかしこれで一度も寝坊せずに済んでいるのだから感謝もしておこう。
ユーゴに礼を言ってベッドから起き上がれば、窓の外の景色に目が行った。
朝日はまだ射し込んでいない……いいや。今日はずっとこのままかな。
「雨、ちょっとうざいな。視界悪くなるし、足下も滑る。俺はいいけど、馬車は危ないから」
「貴方だって危険なのですが……そうですね、貴方よりも私達の心配をすべきです」
「雨脚が強まるようなら、馬車隊はあまり速度も出せません。その分、後ろから襲われる可能性も上がってしまいますから」
窓の外には明るい空が無くて、代わりに黒い雨が窓を叩いていた。
しかし、風は弱そうだ。ならば、嵐になることは考慮しなくても良いのかな。
「どうせ予定は変わんないだろうけど、マリアノに天気聞いとけば良かったな。別に、聞いてても何も準備出来ないけど」
「気分は変わりますからね。不測の事態というのは、心身に影響を及ぼしますから」
雨くらいなら平気だけどな。と、ユーゴはどうしてもそこを譲ろうとしない。
今こうして気にしている時点で、心の方には影響が出ているだろう。
戦いになる頃には気にならなくなっているかもしれないが、準備の工程をひとつ飛ばしてしまう可能性もある。
彼に限って……なんて過信はいけない。
「再度荷物の確認をしておきましょうか。見直しているうちに何か欲しいもの……雨の備えになるものが思い付くかもしれませんし」
「ええ、今更またやるのか。いいけど……別に……」
露骨にめんどくさがらないでください。
几帳面ではあるけれど、自分の企図した予定と変わることには渋い顔をする。
私の発案だから気に食わない……というのでなければ、自分のルーティンを荒らされたくないのだろうな。
もっとも、意義があると思えば文句を言いながらもその通りにするのだけれど。
「今までを思えば、降雨によって貴方の感知範囲が狭まるということは無いのでしょう」
「しかし、相手が人間であれば……魔人であれば話は変わってきます」
「ゴートマンの気配はなんとなく把握しているでしょうが、それ以外にもきっと危険な能力を持つ魔人が潜んでいる筈です」
ユーゴは攻撃性を向けられなければその存在を感知出来ない。
正しくは、感知したとしてもそれがなんであるかを把握出来ない。
ただの動物なのか、迷い込んだ一般市民なのか、それとも敵意ある魔人なのか。
それを見分けられない可能性がある以上、やはり付け入られる危険性はある。
「またアイツみたいに遠くからでも攻撃出来る奴なら厄介だけど、もしそんなのがいるならとっくに出て来ててもおかしくないよな?」
「だって、こっちはゴートマンの顔も能力も知って、一回は追い返してるんだ。いや、一回は捕まえられそうなチャンスがあった」
「それでも何もされてないってことは、アイツみたいな魔術は使えないんだろ」
「断定するのは危険ですが、状況を鑑みればその通りですね」
「ですが、こちらは隊で行動します。視界の悪さによる感知の難しさは、こちらに比べて小さくなるでしょう」
行軍の足音、戦闘の音。それに後方から接近されれば、ユーゴが気付くよりも先にこちらへ迫られてしまいかねない。
良い方にも悪い方にも条件はあるが、総合すればどちらからも仕掛けにくい状況であるのは間違いない。
「こっちの行動はバレるだろうから、不利だと思われたら逃げられるかな。なら、ちょっと手を緩めておびき出すか?」
「いえ、それはあまりにも危険です」
「それに、現在の目的は魔獣の掃討。ゴートマンをはじめとした厄介な敵が出てこないのならば、アルドイブラにまで繋がる道を掃除し切ってしまいたいですから」
そっか。と、ユーゴは少しだけがっかりして、けれど納得して首を縦に振った。
強い相手と、魔獣とは違う脅威と戦いたい、か。
それはもうこの際咎めないが、彼は自覚しているのだろうか。
先日ゴートマンと接触した際、彼は攻撃の手を緩めてしまっているように見えた。
それはやはり、人間を相手には全力を振るえないという証拠だ。
彼はそれを、無意識による自制なのだと理解出来ているのだろうか。
「……魔人が出現した際には、貴方よりもマリアノさんが戦う方が良いかもしれませんね。対人での戦闘は経験がほとんどありませんから、どうしても苦戦を強いられるでしょう」
「貴方の力の特性を思えば、人間が相手では進化の望みはほとんど無いのですし」
「む……まあ、人間相手にもっと強くなろうとは考えらんないけどさ。でも、現状でももう負けないだろ」
「ゴートマン相手にだって、次はあのワープする魔術より早く動けるようにすればいい。強さ自体は魔獣の方が上なんだから、それで勝てる」
だから、その勝利の意味を理解出来ているのだろうか……と、それは問えなかった。
そんなもの、分かっていて欲しくない。
そんな覚悟を彼には背負わせたくない。
人を殺める覚悟など、こんな少年には持って欲しくない。
最大の準備が必要だと分かっていても、それだけは譲れない。
それからしばらく荷物の再確認をして、雨足が少し弱まった頃にジャンセンさんの声が聞こえた。
そろそろ出発するから準備してね、と。それに対してユーゴは……
「うるさい。もう全部終わってる。遅い、このクズ」
「うお、お前もいたのか。しっかし、本当に勤勉な奴だな。それが緊張の所為じゃないなら文句は無いけどさ」
緊張なんてするか。と、ユーゴはジャンセンさんを睨み付ける。
そうだな、緊張している様子は見られない。
彼にとっては、今までと何も変わらない……変わらない筈は無いのだけれど、それでも入れ込むほどのものは無いのだろう。
部隊の一番前を走るのだって、国軍と共に遠征していた頃には当たり前にやっていたのだし。
「んじゃ、さっさと飯食いに来い。最後の晩餐になるやつもいるだろうからな、それなりに豪華だぜ。っと、晩じゃねえか」
「お前、本当にクズだよな。誰か死ぬ前提で行かせるんだから」
ユーゴの言葉に、ジャンセンさんはふむと考え込んでしまった。
腕を組んで顔を伏せて、しばらく声も出さずに目を瞑る。
そんな沈黙が終わると、なんとも幼い表情のジャンセンさんが、目を丸くしてユーゴを見つめていた。
「……それもそうだな。しまったな、全員生き残らせれば、あんなに馬鹿みたいに金掛けて飯準備しなくて良かった。そっちの方が安上がりだし、こりゃまたうっかりした」
「っ⁈ な、なんだよそれ。誰か死ぬのは避けられないって、だから命の保証は無いってわざわざ昨日……」
それはそうなんだけど。と、ジャンセンさんは困った顔で笑った。
なんだろうか、もしや策でも思い付いたのか。
もしも誰も死なせない作戦があるのならば、今すぐにでもそれに乗り換えるべきだ。
そんな都合の良いものがあるとは思えないが、ジャンセンさんならもしかしたら……と、勝手な思いを押し付けそうになる。
「いや、ほら。お前と姉さんが魔獣全部蹴散らせばいいだけだから」
「前から来るのも、後ろから来るのも。横からも、こっちから突っ込んでった魔獣の群れも。全部」
「……なんだそれ。お前、クズなだけじゃなくてアホにもなったのか。はあ……もう救いようが無いな」
ユーゴはジャンセンさんの言葉に呆れかえってしまって、ため息をつくともう彼に興味を失ってしまったみたいだった。
これ以上突っかかるつもりも起こらない、だろうか。
けれど、そんなユーゴにもジャンセンさんはまだ用事があると言いたげな顔だ。
「いや、本気で信じてるぜ、俺は」
「だって、お前の力は望んだだけ進化するってものなんだろ? なら、そういう望みをお前が持ってればなんとかなる可能性はあるわけだ」
「あとはお前がそれを思い込めるかどうかだけ。っと……なら……ふむ。よし、こうしよう」
誰か死んだら、それは全部お前の所為な。と、ジャンセンさんは無邪気に笑ってユーゴにそう突き付けた。
もう部屋を出て行こうとまでしていたユーゴだったが、そんな暴論を耳にしては反応せずにはいられない。
慌ててジャンセンさんの方を振り返って、ふざけるなと言わんばかりの剣幕で詰め寄る。だが……
「ふざけてねえよ。誰か死んだら、守ってやらなかったお前と姉さんと、クソみたいな指揮執った俺とフィリアちゃんの責任だ」
「なんだ、そんな覚悟も無かったのか。一番前を走るってことは――姉さんと同じもん背負うってことは、全員の命を預かるってことだぜ?」
「っ。別に、俺は誰も死なせるつもりなんて無い。だけど、それでも誰かは死ぬってお前が……」
少し言いよどんでしまったユーゴに向かって、ジャンセンさんはまた更に鋭い言葉を突き付ける。
勝手に俺ひとりの所為にするなよ、と。
にこにこ笑って、普段見せる気さくな姿のまま、彼はまるでいつか対峙した時のような冷たさと理解しがたさをかもしていた。
「まあいいや、これ以上言ってビビらせると全員が困るからな。そういうとこは姉さんが頼りになるから、そっちに色々任せるよ」
「そんじゃ、お前も足引っ張んないように頑張れよ」
「あっ……おい! ふざけんな! お前が足引っ張んな! バカ! アホ! クズ! ゴミムシ! カス!」
わ、悪口のレパートリーがまだ増えるのか……
しかし、ジャンセンさんの狙いが見えない。
これでユーゴに奮起させよう……というのならば、むしろ逆効果だ。
先ほどまででも既にユーゴはしっかり集中出来ていた。
それを、むしろかき回して動揺させてしまったようにしか見えない。
「フィリア! 飯行くぞ! 早くしろ! ったく」
「あ、は、はいっ」
ピリピリと苛立って私にまで強く当たり始める姿は、とても先ほどまでと比べて良い状態とは思えない。
これから死地に赴こうというのに、どうして彼はこんなことを……
私の中にあった信頼と僅かな安心は、ユーゴのイライラによって簡単に覆ってしまった。
それでも時間は待ってはくれない。
少し急足なユーゴの後を慌てて追って、私も英気を養う為に朝食を……た、食べられるだけの心の余裕が無いのですが……




