第二百十四話【やっとここまで来た】
明日、このダーンフールを出発し、北を目指す。
安全を捨て、自ら危険地帯へと乗り込む。
そんな決定を下したのは、まだ数時間前のこと。
けれど、その時の熱狂はもうどこか遠くへ行ってしまったかのように、砦の中は静かだった。
「……はあ」
窓の外には月が出ていて、新しい部屋の中にうっすらと光を落としている。
そうだ、明日は危険な遠征に出なければならない。
これまでとは比較にならないのだと、覚悟の上での話ではなく、事実としてそう決まってしまっている。
誰が死ぬかも分からないという前提を頭に入れろと、マリアノさんがそう言ったのだから。
「…………はあ」
ため息ばかりがこぼれて、ひとり言の愚痴は出てこなかった。
誰にも内緒の悪口すら思い浮かばないのだ。
ただ、不安と恐怖と、そして強い虚脱感に見舞われるだけ。
まだ何も成し遂げていない。
けれど、明日を思うとここでもう終わってしまいたいと考えてしまう。
こんなことは初めてだ。
私は父の死を悼まない。
それが必然であったと、そう考えるから。
民の期待を裏切ってしまったが為に、過剰な攻撃性ではあると思うものの、しかし正当な理由で暗殺されてしまったのだから。
だから、私はその死を悔やまない。
そう決めて、間違っていると分かっていても、それを貫く覚悟もした。
なのに……今は、まだ名も覚えていない誰かの死を怖がっている。
ユーゴはもう休んだだろうか。休んでいる筈だ。
あの子は責任感が強い。明日は初めてマリアノさんと並んで隊の先頭を走ると決まったが、それに高揚して寝付けないなんてことはあり得ない。
だって、それでは万全にならないから。
全員の命を守る立場に指名された以上、彼は必ず万全を期す。
では、その彼を指名したマリアノさんはどうだろう。
いつ眠っているのかも曖昧な姿をたまに目にしたが、それでも今晩は話が違う。
単身で数日掛けて下見を行ったのだから、そもそも疲労の度合いが私達とは違う。
だから、彼女も備えるだろう。
ユーゴを隣に呼び付けてまで警戒しているというのに、自分が不調になる要因などを残す筈が無い。
では……では……と、私はひとりひとり顔を思い浮かべながら部屋を後にした。
静まり返った廊下には私の足音だけが反響して、それの所為で誰かを起こしてしまわないかと不安にもなる。
けれど……歩みを止められない。
どうしてもこの不安に決着を付けたい。
だから、なんでもいいから気分の変わるものが見たくて、まだ何も無い部屋から出て来てしまった。
そして……
「……ジャンセンさん。まだお休みになられていなかったのですね」
「あれ、フィリアちゃんこそどうしたの。良い子はもう寝る時間だよ」
砦の最上階にある見張り台で、星でも見て落ち着こう。
そう考えて実行に移した私を待っていたのは、空を見上げて仰向けに寝転んでいたジャンセンさんだった。
もしやとは思うが、同じことを考えていた……なんてことがあるだろうか。
「ごめんね。姉さんがあんなこと言うから、眠れなくなっちゃったんでしょ。そういうとこ微妙に気が利かないんだよね」
「理詰めばっかりでさ、他人の感情にはあんまり配慮したがらない。出来ないわけじゃないのにさ」
「いえ、その、マリアノさんの所為では…………ない……と、否定するのは難しいですね。おっしゃる通りです」
「マリアノさんの言葉と、それを受けた隊員達の反応が、私にはどうしても恐ろしく感じられて……」
ふーん。と、ジャンセンさんはのんびりと相槌を打って、そして隣に来るようにと手招きをした。
それに従って彼のそばまで行くと、今度は寝転がって空を見上げてみろと指を差される。
今更拒む理由も無いから、私はそれにも従って……それで……
「……空はどこでも変わりませんね。いえ、少しだけ広いでしょうか」
「ここらじゃ一番高いとこにいるからね。遮るものが無い以上、空は最大まで広く見える筈だよ」
「そういうのじゃない、ロマンチックな意味だったら……ごめん、俺も他人の感情に配慮出来てなかったね……」
いえ、そういう物理的な事情を鑑みての発言でした。と、私がそう答えれば、ジャンセンさんは何故か悲しそうな顔でため息をついた。
ど、どうして……?
「フィリアちゃんはなんというか……微妙に論理的な思考をするよね」
「致命的なところが脱線してるけど、向いてる方向だけは合ってる……みたいな」
「っ⁈ そ、それは……それは……どういう意味でしょうか……」
どうもこうも、論理の破綻した異常者だと言われている以外にあるのだろうか。
ジャンセンさんは私がそんな風に考えているのだとすぐに見抜いたらしくて、大慌てで起き上がって頭を下げた。
バカにしたんじゃないよ、と。
「珍しいタイプなんだよね、フィリアちゃんみたいな子って」
「普通さ、頭が切れれば、それなりに筋を通した考え方に寄るもんだよ。それは良い意味じゃなくてね」
「どうしてもそればっかりに偏るんだ。理屈ではこうだから、筋が通っているのはこっちだから、って」
「私にはその傾向が無い……或いは、薄いとおっしゃりたいのでしょうか。それは……やはり、私に高い知性が備わっていないからでは……」
違くて。と、ジャンセンさんはもう呆れてしまっていた。
では、どういう意味があるというのか。
私の言動、行動には論理的な筋道が通っていない。それは今までに嫌というほど自覚した。
私としては通しているつもりだったが、しかし世間とのズレが存在してしまったのだ。
だから私の行動は、ユーゴやマリアノさんによく呆れられてしまっているのだし。
「フィリアちゃんは筋を通す論理的な答えを持っていながら、そうじゃない方を選べるんだよ」
「いや……実際のところはどうか分かんないよ。いつか前王の暗殺について話してくれたけど、そういう背景があったなら、強迫観念で思考を無理矢理偏らせているって可能性もあるから」
「だけど、俺はそうじゃないと信じたい」
「え、ええと……論理的な答えとは違うものを選べる……選んでしまう、ではなくてですか?」
「それではまるで、はずれを選ぶことに優位性があるように聞こえるのですが……」
私の問いに、ジャンセンさんはまた小さくため息をついた。
今度は、普段ユーゴに見せるような感情がこもっているような気がした。
呆れている……のだけれど、まるで子供を相手にして教鞭を取っているような表情だ。
「一番合理的で論理的な答えが、一番正しいとは限らないんだよ。人間だからね、言葉を発するのは」
「そして、それを聞くのも人間だ。人間には感情がある。感情のある人間が、感情のある人間に何かを伝える」
「その時に、理論や筋道ばかりが優先されることは、とても論理的とは呼び難い」
「だって、発信にも受信にも感情が入り込むんだ。そこを計算しないのはナンセンスでしょ」
「ええと……そう、ですね。それはその通りだと思います。思うのですが……ええっと……」
ええと……? と、私は彼の言いたいことを理解しきれず、首を傾げてしまった。
どうやらジャンセンさんとしては、それも想定内だったらしい。
呆れるでもあざ笑うでもなく、どこか期待した目を私に向けていた。
では、この混乱に自分で決着を付けろ……と?
不格好でも答えを出せと言いたいのだろうか。
「……私自身には自覚が無いのですが、論理的なものとは離れていても、ある種正解に近い答えを選べている……と、そうおっしゃったのでしょうか」
「たとえ偶然であっても、遠からず正しい道を見つけて来られた……と」
「うーん……ちょっと惜しいかな。大体合ってるけど、根本的なとこの認識が間違ってる」
不格好な私の結論に、ジャンセンさんは首を横に振った。
根本的な認識が間違っているとまで言われてしまうと、惜しいという言葉がふさわしくないように思えるのだが……
「フィリアちゃんは偶然なんかに頼ってここまでやって来てない。論理的な思考でも、計算尽くでもない」
「でも、しっかりと自分の意志で、正しいと思った選択をしてきてる……ように、俺の目からは見えるよ」
「なんでも分かったような口利いてごめんね。でも、俺にはそう見えたからさ」
ジャンセンさんはそう言って、また大きくため息をついた。
それからごろんと仰向けに寝転び直して、じっと空を……星を見つめ始める。
私もそれに倣って空を見上げるのだが……この綺麗な景色に、彼は何を思うのだろう。
「フィリアちゃんは自分の意志で、俺達を仲間にするって言ってくれた」
「論理的に考えたら、犯罪者なんか味方にしない。それも、一度は騙されて裏切られて、試すような真似してきた相手なんだから」
「でも、フィリアちゃんはひとつの筋を、周りから見たら全然意味分かんないような理屈を通して、俺をここまで連れて来てくれた」
「……ジャンセンさん……?」
もうちょっとなんだ。と、ジャンセンさんは手を空に伸ばしてそう言った。
星を掴む……のは、いくらなんでも誇大な表現だろう。
けれど、彼は確かに何かを掴もうとしている。
目の前に見えている何かを――実体の無いものを取り逃さないように、意識を強く持つ為にと。
「――俺の目的は最初からひとつだった」
「国なんて作るつもりは無かったけど、俺達の居場所は欲しかった。でも、それはウェリズや他の街じゃない」
「俺は姉さんと一緒に、生まれ故郷に帰りたかったんだ。それが、もうすぐ目の前まで迫ってる」
ジャンセンさんはそう言うと、急いで飛び起きて私の前に膝を突いた。
彼の機敏な動きに私は反応が遅れてしまって、わたわたのたのたと慌てて彼の前に座り直す。
間抜けに見えただろうか? でも、彼は笑わなかった。
「ここまで導いてくれてありがとう、フィリアちゃん。この恩は勝利で返すよ」
「……はい……っ! 期待しています。今回も、その後も。ずっと後も」
特別隊が必要無くなるその時まで。
ジャンセンさんは私の言葉に目を瞑って、深く深く頭を下げた。
その表情は真剣なままだったが、どこか晴れやかささえも感じさせてくれた。




