第百七十八話【終止符を打つもの】
 
ヴェロウ。と、その男はそう呼ばれていた。
金の装飾で彩られた深緑色の儀礼服の上から、金属製のプレートを何枚か繋ぎ合わせた鎧を身に纏う姿は、国軍のそれと見比べても劣らないものに思えた。
そんな男の登場によって、一番変化があったのはハミルトンだった。
驚いている私やユーゴよりも、苛立っているゴートマンよりも。
彼を知っているのであろうハミルトンだけが、より際立った変化に見舞われている。
「ハミルトン、剣を降ろせ。何があったかは知らないが、今のお前は冷静ではない。通常の状態からはかけ離れている」
「たとえその行いが正しいものだとしても、そんな精神状態の人間には何も任せられない。さあ、剣を降ろせ、ハミルトン」
「うぅ……ヴェロウさん……俺は……」
先ほどまであった狂乱ぶりは、もうどこにも見当たらなかった。
大きな変化とは、変わり過ぎていた彼の様子が、突然元に戻ろうとしていることだった。
それは私にとっても不思議な光景だったが、一方でその術者であるゴートマンからすれば……
「――何を――何を何を――何をやっている――ッッ!」
「ハミルトン――ッ! ケルビン=ジャーツ=ハミルトン――ッッ! お前の悲願は目の前にあるのだぞ――ッ!」
「手を伸ばせ! 剣を振るえ! その先にお前の――お前の一族の悲願が――――ッ!」
「ハミルトンの知り合いか。だが、とても友人とは思えない。少なくとも、良い関係性は持っていなさそうだ」
ヴェロウという人物の登場によって、ハミルトンは正気を取り戻した。
それが意味するところは、ゴートマンの魔術による支配力よりも、この男の与える影響力の方が大きいということ。
私のように、焦がれる希望を忘れたから……ではない。
もっともっと大きな希望を、この男に抱いているから――絶望を塗り替えるというゴートマンの誘惑よりも大きな希望を、この男がハミルトンに魅せているから……だとでもいうのか。
「私はヴェロウ=カーンアッシュ。本来ならば女性に向ける言葉ではないが、状況が状況だ、許していただきたい」
「貴様、何者だ。ハミルトンとはどういう関係で、何を企てて彼に近付いた」
「――っ。あり得ない――あり得ない――あり得ないあり得ないあり得ないぃい――ッ!」
「ハミルトン――ッ! 殺せ――ッ! その女を――悪王フィリアを殺せ――ッ!」
「報われたくないのか――っ! 一族の無念を――祖父の尊厳を――お前の栄誉ある未来を――――っ」
ヴェロウの言葉に、ゴートマンは一切耳を貸さなかった。
錯乱した様子でハミルトンへの命令ばかりを繰り返し、しかしそれに反応しない彼への苛立ちをどんどん強めているように見えた。
そして……そんなゴートマンの姿に、ヴェロウは顔色ひとつ変えず、ゆっくりと剣を抜いて……
「――捕縛する」
「このカストル・アポリアの領土内において、風紀を乱す存在は許さん。痴話喧嘩ならば、もう少し穏やかなやり取りをするんだな」
「――っっ! ぐ――っ!」
「フィリア=ネイ――っ! 忘れるな! 私はお前の在り方を――その精神を許容しない――っ!」
「必ず討つ――そしてこの国を変える――っ!」
「人の国は人によってしか成し得ない――そのことを思い知らせてやる――ッッ!」
ゴゥン――と、また鐘の音が聞こえた。
それはやはり、あの瞬間移動の魔術が発動したことを意味していた。
ゴートマンは、剣を構えて睨み付けるヴェロウではなく、私に向けて苛烈な怒りを向けながら、その魔術によって攻撃と撤退を同時に――
「――逃がすか――このアホ――っっ!」
「――わ――っ⁈ ゆ、ユーゴ――っ!」
また――攻撃が来る――っ!
そう身構えた私の身体は、銅像の落下を目撃することなく宙を舞った。
またしてもユーゴに担ぎ上げられて、そのままゴートマンへと突進して行ったのだ。
ゴートマンの攻撃は先ほどまで私がいた地点に落下し、何も潰さずに土煙を巻き上げる。
そして――ユーゴの攻撃は――
「――っっ! このガキ――」
「――――っぁああ――――ッ!」
どんと鈍い音がして、ユーゴの拳がゴートマンの肩を撃ち抜いたのが見えた。
撤退の前にユーゴの攻撃が届いたのだ。
だが……同時に、やはり彼では人間を相手に致命傷を与えられないことも意味していた。
悪人だと、敵だと認識しているゴートマンであろうと、彼は急所への攻撃を避けてしまっていた。
ゴートマンはユーゴの攻撃によって大きくのけぞっていた。
その痛みに顔を歪めてもいた。
だが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべ、そして私達の前から姿を消した。
捕らえられなかった。
咄嗟の判断によって手の届くところまで迫りながら、ユーゴはゴートマンを取り逃してしまった。
「――っ。くそ……悪い、フィリア。捕まえらんなかった」
「いえ、貴方は何も悪くありません」
「むしろ、あの攻撃から私を守りながらでも攻勢に出られるのだと、あちらに強く印象付けられたでしょう」
「これで、ゴートマンも迂闊な攻撃は出来なくなった筈です」
私の言葉に、ユーゴはすぐにそっぽを向いてしまった。
そして、小さな声でごめんともう一度謝った。
私の嘘は、どうしてこんなにも簡単に見抜かれてしまうのだろうな。
きっと、ゴートマンは確信してしまっただろう。
ユーゴの特別な強さを。
そして、その特別な強さが自分に刃を向けないことを。
次からはそういう想定で、きっと今回以上に苛烈な攻撃を仕掛けてくる。
ユーゴもそれを理解してしまったみたいだった。
「そうだ……っ! ハミルトンさん! 大丈夫ですか!」
「っ! バカ! アホ! このまぬけ! お前は近付くな! さっきまで散々狙われてただろうが!」
そ、それはゴートマンによって操られていたから……だけでは……ないのだろうな。
ユーゴの小さな背中越しに見えたハミルトンの顔には、後悔と、そして同時に恐怖心が浮かんでいた。
そして……それが向いている先は、私だった。
「……フィリア……フィリア=ネイ……? 姉ちゃん……いや、貴女はまさか……」
「っ。はい。騙すような真似をしてすみませんでした」
「私の名は、フィリア=ネイ。現アンスーリァ国王、フィリア=ネイ=アンスーリァです」
私が名を名乗ると、バーテルと呼ばれたもうひとりの見張りの男は、慌てた様子で膝を突いた。
だが……ハミルトンはまだ、怯えた様子で私を見上げている。
ゴートマンによって増幅されるのは、現実に抱いた恐怖や嫌悪の感情だ。
ならば、彼の中には本当に私への――王政への悪感情がある。
そうなれば、先ほどまで共に探し物をしてくれていた時のような顔は向けてくれまい。
もう、心から笑う彼を、私は目に出来ないのだろう。
「――アンスーリァ王国、女王陛下であられましたか。これは失礼いたしました。すぐに歓迎の用意を致します」
「え……あ、いえ。私は何も、そういうつもりで……」
怯えるハミルトンにも、それを前に立ち尽くす私にも、その声は関心を示していないようだった。
声の主は、ヴェロウと呼ばれた騎士風の男だ。
彼は私を女王として――先ほどまで戦っていたものでも、ハミルトンに声を掛けたものでもなく、アンスーリァの王として扱う為の声掛けをした。
そして、その意図は簡単に理解出来るものであった。
「改まって、私も名乗らせていただきます」
「私の名はヴェロウ=カーンアッシュ。この“カストル・アポリアを治める者”です。お会い出来て光栄です、アンスーリァ王」
「……はじめまして。貴方がこの街を……この“国”を建てたのですね」
ここはアンスーリァ王国ではない。
女王は来賓であり、もてなされこそすれ、しかし自分と対等な関係である。
なるほど、納得だ。
この男もジャンセンさんと同等の――いいや、豪胆さについては彼以上のものを持っているかもしれない、集団の長たる能力を持つ優れた人間だ。
ただの挨拶の時点ではっきりと線を引いて来た。
このカストル・アポリアに踏み入る以上、王とてここの法に従って貰う、と。
「すみません、私がここへ来た経緯や目的は少し後に回させていただきます」
「それよりも、先の魔術師――ゴートマンと名乗った人物と、それからこの国を……アンスーリァと、そしてカストル・アポリアの両方を襲おうとしている脅威について、情報を共有しておきたいのです」
「……よろしいでしょう。それでは、私の家に案内いたします」
「あまり公にしてよい話とも思えませんし、そうして騒ぎを人々に伝えるわけにもいきませんので」
ヴェロウはそう言うと、バーテルとハミルトンにすぐに持ち場へ戻るよう命令した。
だが……ハミルトンはまだ、半ば放心状態にある。
いくら彼が大きな柱となり、彼らを支えているのだとしても、心の奥底に眠っていた傷はそう簡単には癒せは……
「――ハミルトン――っ! 顔を上げろ! お前はカストル・アポリアの守護者だろう! 俺は強い男に守備を任せた筈だぞ! ケール=ハミルトン!」
「――っ! ヴェロウさん……俺は……」
ばしん。と、ヴェロウに肩を叩かれると、ハミルトンの顔には次第に血の気と自信が取り戻されたように見えた。
ケール……?
彼は先ほど、ケルビン=ジャーツ=ハミルトンと呼ばれていた筈では……
「では、急ぎましょう。なにぶん私も仕事が多いものでして。民主主義とはいえ、取り纏める者が必要ですから」
「……民主主義……ですか」
ヴェロウはそう言うと、私達を連れて街を……いいや、この小さな国を案内し始めた。
王宮ではなく、彼の家へ――民の中のひとりであり、代表でもあるという彼の住まう家へ向かって。
 




