第百七十七話【記憶を巡る】
心の傷を掘り返し、弱みに付け込み、そして精神を隷属させる魔術。
話には聞いていた。そして、自ら経験もした。
けれど――
「――っ。ハミルトンさん! しっかりしてください!」
「その人物の言いなりになったとて、貴方の心が救われる保証はどこにも無いのです!」
「何言ったって無駄だよ――ッ! お前には分からないんだろうね!」
「人の心なんてどこにも残ってないお前には――この苦しみが分かる筈ないんだ!」
それが敵として襲って来る本当の恐怖を、私はきちんと理解出来ていなかった。
目の前で苦しみながら剣を振るっているのは、さっきまで優しさを向けてくれていたハミルトンで間違いない。
私の拙い嘘を信じて、放っておけないと探し物の手伝いを買って出てくれた誠実な男だ。
それが……っ。
「フィリア――っ! ぼけっとすんな! もうちょっと守られようとしろ!」
「っ。すみません」
後悔と混乱とに思考がかき乱される。
もっと強く拒んでおけば。
もっと早い時間に、見張りに見つからないように街を出ていれば。
そんな雑念ばかりが浮かんできて、今考えるべきこと――この状況を打破する手段を考えられない。
そんな私にげきを飛ばしたユーゴもまた、現状にかなり苦戦していた。
いいや、当然……むしろ、ずっとずっと危惧していたことでもあった。
彼は人間を相手に戦った経験がほとんど無い。
戦闘らしい戦闘は、マリアノさんとの初対面だけだっただろうか。
ジャンセンさんを相手に取っ組み合いをするのも、彼からすればじゃれるのと変わらない筈だ。
「――っ! この――おっさん! だから邪魔だって言ったんだ! このバカ!」
ユーゴはハミルトンの振るう剣を、受けるでも弾くでもなくすべて躱していた。
理由は……きっと単純なものだ。
彼は剣を抜いていない。
先ほどゴートマンに斬りかかったというのに、わざわざ鞘に納め直して戦っている。
今更何かを問うまでもない。
彼は無辜の民を相手には武器を向けられないのだ。
「さあ――さあさあ――っ! 悪王フィリア!」
「殺されるぞ! お前達が過去に踏みにじったものに、このままでは殺されてしまうぞ!」
「さあ――っ! 殺せ! 殺されたくなければ――その男を殺せ――っ! 殺して――」
――外道の証をこの街に刻み込め――
ゴートマンはそう叫んで、そしてまた何かの言霊を唱え始める。
いけない。この状況で精神へ干渉を受ければ、ユーゴが危ない。
それに、他の住民まで操られてしまったら、もうどうしようもなくなってしまう。
攻撃出来ないユーゴが群衆を抜けてゴートマンを捕縛するなど、とても出来る道理が浮かばない。
「ッ! させません!」
「バカ――っ! フィリア! 余計なことすんな!」
このままではいけない、なんとしても覆す為の一手を。
その心ばかりが先走って、私はゴートマンに手近な石を投げつけた。
だが……投擲など、練習したことも無いから。
石はゴートマンからずっと手前に転がって、少しの砂をまき散らしただけに終わった。
そんな私を、ゴートマンは狂ったような笑みで睨み付ける。
「――石を――投げたな――ッ! 民を相手に石を投げた! 守ると謳ったその口で――撃破を命令したな――ッ!」
「悪王――暴君――独裁の証だ、これは――っっ!」
「――っ! フィリア――ッッ!」
そしてゴートマンは私の投げた石を拾い上げ、助走を付けてそれを私に投げ返した。
魔術師でありながら、軽やかな身のこなしで。
まるで訓練された兵士が放った槍のように、石は真っ直ぐに私へ飛んでくる。
だが、それはユーゴの手によって叩き落された。
「悪王――悪王悪王悪王――――虐殺の王――フィリア=ネイ――――ッッ‼」
「殺されろ――殺されろ殺されろ殺されろ――潰されて殺されろ――――ッ!」
ゴートマンがハミルトンにまた何かを命令したのか、それとも更なる悪夢を見せたのか。
ともかく、彼の様子がおかしいのだとすぐに気付いた。
剣を投げ捨て、地面に膝を突いて、両手で頭を抱えてその場にうずくまってしまったのだ。
だが……それはむしろ、こちらに都合が良い筈。
いったい何を――
「――チャンスだ――っ! おっさん! そのままじっとして――――」
「――――た――助けてくれ――――っ! 誰か――誰か助けてくれ――――ッ!」
うずくまったハミルトンのわきを抜けて、ユーゴはゴートマンへと一気に詰め寄ろうとした。
だが……その瞬間、さっきまで聞いたことの無いような大声で、ハミルトンは助けを呼んだ。
助けを呼ばなければならないほどの、誰かに縋らなければならないほどの悪夢を見せられた……?
いいや、違う。これはまさか――っ!
「――おーい! ハミルトンか! どうした――何があった!」
聞こえてきたのは、関を見張っていたもうひとりの男の声だった。
こちらが街の人々を攻撃出来ないと知って、大勢を操ってしまうつもりなのか。
それはまずい、この街だけは巻き込んではいけない。
このカストル・アポリアは、今現在はアンスーリァの統治下に無い。
国から見捨てられ、自分達の力だけで平和を維持してきたのだ。
それを私達の都合で乱すわけにはいかないのだ。
「っ! ユーゴ! 人が集まる前に! ゴートマンを!」
「言われなくても――分かってるよ――っ!」
ユーゴは私の言葉などを聞くよりも前に、剣を抜いてゴートマンへと飛び掛かっていた。
確かに私達の急所を突いた策ではあったが、こちらの力を見誤ったな。
ユーゴならば、人が集まるよりも前にこの魔術師を――――
「――っ⁉ いない――なんで――っ!」
ユーゴの剣は確かにゴートマンの身体を切り裂いた……ように見えた。
だが、振り抜かれた剣は、刃を表にしていなかった。
だというのに、その剣は何かにぶつかって止まることなく、ゴートマンの身体を切り裂いていた。
なのに……
「また消えた――っ! フィリア! 周り見てろ! アイツ――また消えやがった!」
切り裂かれた筈のゴートマンの身体は、まるで霧中の像のように消えてしまっていた。
まさか……とは思うが、あの移動の魔術は本当に連続使用が可能なのか……?
もしそうだとしたら、こちらからゴートマンを攻撃する手段は――
「――潰れろ――潰れ死ね――っ!」
「――きゃぁあ――っ⁉」
うろたえる私の頭上で、また鐘の音のような音が響く。
するとすぐに、ゴートマンの声と共にその身体が降って来た。
私はそれを避けることも出来ず、首を掴まれながら地面に叩き伏せられてしまった。
「フィリア! この――退け――っ!」
それを見て、ユーゴがすぐに駆け付けてくれた。
いいや、違う。
それを見てからしか動けなかったのだ。
いつも敵意や悪意を察知して先んじた行動をしてきたユーゴが、攻撃を見てからしか動けていない。
「けほっ……ありがとうございます、ユーゴ」
だが……ゴートマンはユーゴの攻撃を受け、すぐに私の上から退いた。
どうしてだ。どうして、ひと息に私を殺さなかった。
殺す、潰すと叫びながらも、ゴートマンは致命的な攻撃を仕掛けて来ていない。
今だって、手ではなくナイフで喉を抑えていれば、それだけで私は死んでいただろう。
だというのに、何故。
「ハミルトン――っ! おい! 大丈夫か!」
っ! いけない、時間を掛け過ぎてしまった。
まだうずくまったままでいるハミルトンに、もうひとりの見張りの男が駆け寄って声を掛けている。
そしてその心配そうな視線は、困惑を強めて私とゴートマンへ向けられた。
「お前達……何が……この女は誰なんだ。ハミルトンに何があった」
「説明してる時間とか無い! おっさん連れて早く逃げろ! そいつは――」
そいつは……敵だ、だろうか。
ともかく、危険な存在だ、と。そう伝えようとしていたであろうユーゴの言葉が遮られた。
私にではない。ゴートマンにでもない。
たった今まで震えていたハミルトンによって。
私達に向けられた、ハミルトンの震える指によって遮られたのだった。
「こ――こいつら――倒さなきゃ――っ! バーテル――こいつらを――捕まえないと――」
「ハミルトンさん――っ! 待ってください! 私達は――」
うわああ! と、ハミルトンは錯乱したように声を上げ、また剣を拾いなおして私達に突進する。
まさか……ゴートマンの狙いは、私達をこの街の敵に仕立て上げることだったのか――っ!
「ハミルトンさん――っ! 落ち着いて! 正気に戻ってください! 私達は敵では――っ!」
「うわぁああ――っ! 倒せ! 倒せ――っ! こいつらさえ倒せば――爺様は――っ!」
剣は私に向かって振り下ろされる。
だが、それが私の肉を切ることは無く、砂を撒いて地面を抉った。
私の身体はユーゴによって担ぎ上げられ、宙を舞ってその場から大きく後退する。
「ありがとうございます、ユーゴ」
「重い、このデブ。ぼけっとすんな。アイツ、なんかやりにくい」
で……こ、こんな時にまで罵倒しなくても……
ユーゴは私を投げ捨てて、また剣を納めて防御の姿勢を取る。
といっても、彼は徒手での戦いには慣れていない。
武術も学んでいないから、ただ警戒して身を低くしているだけだった。
「ハミルトン……っ。お前ら、なんなんだ。ヨロクから逃げてきたって、嘘だったのか。まさか、カストル・アポリアを狙って……」
「違います! 話を聞いてください! 私達は――っ」
話を――
私が声を上げようとすると、ハミルトンがそれを阻止しようとする。
様子を見るに、私の声がきっかけとなって、彼の精神が蝕まれているようにさえ思えた。
私の行動、言動が、彼の嫌な思い出と無理矢理紐付けられてしまったのか。
だとすると……このままでは、説得も何もあったものではない。
「さあ――ケルビン=ジャーツ=ハミルトン――侯爵の孫――っ! 恨みを晴らす時だ――っ!」
「その女を――悪王フィリア=ネイを打ち倒し、もう一度ハミルトンの名をこの世界に取り戻すのだ――っ!」
「うぐぅ……ぐ……王……悪王……爺様を……追放した――うわぁああ――っ!」
ゴートマンはまたハミルトンを煽り、それによって彼の表情はどんどん険しいものになっていく。
私を倒さねば、この先に希望は無い。
そういう類いの暗示を掛けられてしまっている。
ゴートマンをすぐに捕まえるのは、ユーゴを以ってしても不可能だった。
となれば、ハミルトンを抑えなければならない。
だが……その為には……
「――持ち場を離れて何をやっている、ハミルトン――」
「その剣は女子供に向ける為に持たせたものではないぞ」
「――っ! 誰だ――っ!」
無辜の民であるハミルトンを攻撃する他に無い。
そんな選択を、命令をユーゴに下さなければならないのかと腹を括ろうとしたその時、男の声が響いた。
厳格で、冷静な声色だった。
それにいち早く反応したのは、ユーゴではなくゴートマンだった。
「ハミルトン――っ。もう一度言うぞ。お前は何をやっているのだ」
「持ち場を離れ、女子供に剣を向けることが、カストル・アポリアを守護するお前の役割か」
「――ヴェロウさん――っ。うぅ……ぐ……ぐぅっ……」
ヴェロウ。と、その声の主はハミルトンにそう呼ばれていた。
そして、ゴートマンが視線を向けている先から、その姿はゆっくりと現れる。
まるで王族に仕える騎士のような立派な装いを身に纏った、若い偉丈夫がそこには立っていた。




