第百七十五話【上手くいかない】
ゴートマンの気配を感じる。
明朝にユーゴから聞かされたその言葉は、私の意識を睡魔から思い切り引き剥がした。
朝食も、アルバさんへのお礼も、この後の予定決めも何もかも投げ出して、私達は馬車を目指して家を飛び出した。
決して、この街を巻き込んではならない。
「エリー。着いたらすぐに縄を外して、マルマルを馬車のところまで連れて行ってください。焦らなくても良いですが、出来るだけ急いで」
「急ぐの? 分かった! でも、マルマル動くかなぁ。朝はのんびりなんだよね」
馬の機嫌に左右されてしまうほど余裕の無い状況に、もうどうしようもないくらい頭が痛くなる。
最悪でも街からは出ておきたい。
マルマルが不機嫌で言うことを聞かなかったとしても、せめてそこまでは……
「フィリア、一応顔隠しとけ。望遠鏡とか使って探してるかもしれないし、いるって分かれば足止めの為にあの魔術使ってくるかもしれない」
「それならユーゴも同じです。貴方もこれを被ってください」
少しでも顔が隠れるように、私とユーゴは大きめの帽子を深く被る。
それを見て羨ましそうな顔をするエリーには、残念ながら被らせてあげられるものが無い。
私は身分を隠す必要があるかもしれないからと準備してきて、その予備をユーゴに貸しているだけなのだ。
だから……そ、そんな残念そうな顔をしないでください……
「マルマル、起きてる? 元気? よしよーし」
そんなこんなで私達は、マルマルを繋いでおいた広場に到着した。
いけない、エリーの笑顔に引っ張られて、少しずつ緊張感が減っていっている気がする。
けれど、そういう時にもちゃんと警戒してくれるのがユーゴだ。
今も私を冷たく睨みながら、それでも周囲の様子に気を配っている。
「エリー、マルマルはどうですか? 走ってくれそうでしょうか」
「たぶん大丈夫だと思うけど……やっぱり、知らないところにひとりぼっちだったからかなぁ。あんまり元気じゃない」
毎日面倒を見に来てはいたものの、寝床の違いも周囲の景色も、それに厩舎から離れた孤独感も、マルマルに小さくない影響を与えているようだ。
繋いでいた縄を解いて、エリーが手綱を握っても、普段より怯えた様子なのが私にも分かった。
「よしよし、大丈夫だよ。うーん……」
ダメかなぁ。と、エリーは小さな声で呟いた。
マルマルも、いきなり走り出すようなことはしないが、どこか落ち着きの無い様子で小刻みに足踏みを繰り返している。
エリーに会えて嬉しい……という前向きなものなら良かったのだが、きっとそうではないのだとは彼女の表情からも窺える。
「……フィリア。最悪、エリーをばあさんのとこに残して、俺達だけ街の外に出るぞ。おびき寄せてから戦えば、街には被害も出ないだろ」
「……そうですね。エリー、もう少しだけマルマルをなだめてみて、もしまだ不安そうなら、今日の出発はやめにしましょう」
「ここへ来るまで、マルマルにも大変な思いをさせていますから」
ユーゴが倒してくれるという前提の無い馬にとって、魔獣との遭遇は人間以上に強いストレスとなっている筈。
精神的に疲弊しているところへ魔獣が襲ってくれば、エリーを以ってしてもパニックになるのを抑えられないかもしれない。
そうなったら、調査はおろか帰ることもままならない。
その後もエリーはマルマルの様子を見続けたが、出された結論は、出発は不可能というものだった。
マルマルの中には大きな不安があって、それを取り除かないと私達も危険に晒されかねない。
それに、その後のことも問題になる。
無理に走らせて、たとえランデルへ帰ることが出来たとしても、マルマルが以前のように健康な生活を送れるか分からないのだ。
「こうなったら、やはり私達だけで外に出る他にありませんね」
「エリー、聞いてください。少しの間、私とユーゴは街の外に出ます。エリーは昨日までと同じように、アルバさんのお手伝いを続けてください」
「うん、分かった。でも、どこ行くの? ちゃんと帰ってくる?」
はい、約束します。と、私がそう言えば、エリーは笑顔を見せてくれた。
そしてすぐにマルマルを繋ぎ直して、大急ぎでアルバさんの家へと帰宅する。
この移動の間が一番危険だ。
もしも関わりを知られてしまったら、エリーにもアルバさんにもあのゴートマンの魔の手が迫りかねない。
「では、しっかりお手伝いをするんですよ。私達もすぐに戻ってお仕事しますから」
「うん、いってらっしゃい」
エリーに見送られ、私とユーゴは家を裏手から出て、街の外を目指して走りだした。
まず、住民を巻き込まないところまで逃げる。
それから、あのゴートマンをなんとかしておびき出さなければならない。
「それで、ユーゴ。街の外までゴートマンを誘導する作戦はあるのですか?」
「そんなのあるわけないだろ。街の中では見つかっちゃダメなんだから」
「出てくるまでは待つしかない、誘導するとしたらその後だ」
やはりそうなるか。となると……やや苦しいな。
食料や水は多少持っているが、しかし街の外――住民を巻き込まないほど離れるとなれば、当然魔獣の住処に近付くということになる。
ユーゴがいるから大丈夫……なんて安心は、残念ながら今回に限っては存在しない。
ゴートマンの攻撃によって意識が切れてしまえば、その時点で私達は文字通り魔獣の餌食となるだろう。
「しばらくは街の近くに身を潜めて、出てくるのを確認してから離れる……のでは、見つかってしまう危険性が高過ぎるでしょうか。ううん……」
「考えるのはあとにしろ。今見つかったら元も子もないぞ」
そう言うとユーゴは私の手を引いて、建物の裏――表通りから外れた、まだ舗装の済んでいない、道の無い道へと引っ張り込む。
ゴートマンが近付いている……というのか。
「……そうだ。見張りがいたらどうする、説明しちゃうのか? ここへ来た理由とか、フィリアの正体とか」
「ばあさんにはしたんだろ、話。なら、もう隠さなくてもいいのか?」
「それは……いえ、もう少し伏せましょう」
「もしもこの街がゴートマンと繋がっているのなら、彼らに私の素性がバレることは、つまりゴートマンに見つかったのと同義になります」
「外へ出る理由は……落とし物をしていることに気付いた、では不自然でしょうか」
不自然だし間抜けだしバカだと思われるだけだな。と、ユーゴは文句を言うが、しかし他の言い訳を考えろとは言わなかった。
もしや……それが通るくらいの間抜けに見えているのだろうか、私は。
息を殺し、周囲を見回しながら走って、私達はこのカストル・アポリアに入って来た時に通った関に到着した。
そしてそこには、予想通り見張りの男の姿があった。
この街に来て初めに出会ったあのふたりの男達の姿が。
「お、ちょっとぶりだな、姉ちゃん。こんなに早くからどうした。ばあさんに無茶なお使いでも頼まれたのか?」
「あ、いえ。その……ここへ来る時に落とし物をしてしまったようで」
「街の近くに落ちていないかと、魔獣が活発になる前に探しに行こうと思いまして……」
私の言葉に、男達はそれはそれは怪訝な顔をした。
当然過ぎる反応だが、しかし……どうやら疑われてはいなさそうだ。
どうしてだろうか、少しだけ……本当に少しだけ、遺憾だ。
「落とし物……って、そんなに大事な物を落としたのか?」
「いくらこの時間は魔獣が少ないからって言っても、危ないことには変わりないんだぞ」
「分かっています。ですが……ええと……その……ですね」
「実は、ユーゴは魔獣の接近を感じ取れるんです。視力が良いのと、耳が良いのと、それと妙に勘が良いので」
嘘は言っていない。何も嘘は言っていないが、どうしてかこのふたりを騙そうとしている気分になってしまう。
やはり男達は怪訝な顔を今度はユーゴに向けて、揃って首を傾げているが……
「……うーん、信じられないが……でも、たった三人でヨロクから逃げてこられたんだもんなぁ、姉ちゃん達」
「なら、本当に分かるのかね。だとしたら、そりゃ凄いことだ」
「ああ、俺達と代わって欲しいくらいだよ。俺達じゃあ、近付かれてからじゃないと気付かないからな」
私達が無事に到着出来ているという事実のおかげで、疑わしくとも信ぴょう性が伴ってしまう。
これもやはり、深く踏み込まれれば簡単にバレる嘘だろう。
ああ、いや。嘘ではないのだが。
しかし、彼らがそこまでして私達を疑う理由が無い。
どこからどう見ても、悪さなどしようもない子供の集団なのだから。
「……でも、危ないものは危ないからな、どうしても行くなら俺が一緒に行く」
「武器も持たない女子供だけじゃ……っと、弟の方は一丁前に剣なんて持ってたのか。でも、そんなおもちゃじゃな」
「い、いえ、そこまでしていただかなくても」
「本当に少し探すだけなのです。その……探したという言い訳が出来れば、失くしたことも諦められそうなので」
い、いけない。同行などされてしまっては、なんの為に街を出るのか分からなくなってしまう。
しかし、私が何を言おうと男のひとりは付いてくる気満々な様子で、ちょっとだけ不機嫌になったユーゴの肩を叩いたり、頭を撫でたりしながら笑っている。
本来ならば頼もしいが、今だけは……
「いらないって! 言ってんだろ! 魔獣なんて俺が倒すから! フィリアはアホだけど、俺が守れば問題無い!」
「おお、姉ちゃん思いなやつだな。気に入った!」
「ちょっと待ってろ、使い古しだけど防具が納屋にあった筈だ。それ着てれば見た目もそれっぽくなるだろ」
ああ……どんどん同行する方向で話が進んでしまう。
こうしている間にも、ゴートマンは私達に近付いているかもしれないのに。
結局、私達は男の同行を拒否しきれずに、街の外周をありもしない落とし物探しの為に歩くことになった。
魔獣に怯えながら、魔獣よりもずっとずっと厄介で危険な敵に警戒して。




