第百七十三話【嘘のつけない女王様】
カストル・アポリアでの滞在もまだ三日目だが、ユーゴから早期出発の提案がなされた。
この場所には危険な思想、行動は見当たらない。
少なくとも、あのゴートマンとの繋がりは見出せそうにない。
そして、これ以上アルバさんに無用な期待をさせてはならない、と。
「……はあ」
野菜を市場へと運び終えて、帰り道をひとりで歩いている最中。私はどうにもため息が止まなかった。
身分を明かして良いのならば、事情を打ち明けられるのならばどれだけ楽か。
私達は、アルバさんの中にある期待を潰えさせずにここを出発しなければならない。
彼女の家族もまた、私達のようにどこかへ逃げ延びて生活出来ているのだと、そういう甘い妄想を打ちのめすような行為は避けなければ。
「……かねてより連絡を試みていた親族が……は、無理ですね」
「こんなにも厳重な街で、手紙を誰にも頼らずに届けて貰う手段などありません。では……」
どうすればアルバさんに不審がられず済むだろう。
もうここへ来ることは無いのだから、残されたものを考えなくても良い。と、ユーゴはそう言った。
それもまた真実だろう。
けれど、恩を受けたのだから、あの方を無下にしたくない。
女王でも、特別隊の責任者でもなく、フィリアという個人として、そう思う。
なんのアイデアも浮かばないまま、私の足は家の前にまでやってきてしまった。
おばあさんがひとりで住むには大き過ぎる、立派で寂しい家に見えた。
「ただいま戻りました。アルバさん、売り上げを確認してください」
しかし、その前で立ち呆けていても解決しない。
私は売上金と領収書とをアルバさんに届けて、また別の仕事に取り掛かることに決めた。
動きながら言い訳を考えるのは得意ではないが、手を止めては怒られてしまう。
「……はい、確認したよ。それじゃあ、ちょっとばかしこっちを手伝って貰おうか」
「もうすぐ昼になるから、チビ達にケーキでも焼いてやろうと思ってね」
「はい、私に出来ることならば何でもお手伝いします。ですが……その、あまり無理にもてなしていただかなくても……」
なんだい、ケーキも出せないような貧乏人に見えるのかい。と、アルバさんは細い眼を更に鋭く尖らせてそう言った。
そ、そんなつもりは……と、私が慌てるのを見ると、彼女はにんまりと笑ってボウルに卵を割り入れた。
「分かってるよ、アンタにそんな嫌味を言うセンスは無いってね。本心から自分が良いもてなしを受けてると思ってんだろう」
「まったく、エリーと変わんないね。自分に向けられる好意には一切裏が無いと、清々しいくらい思い込みが激しい娘だよ」
「え、ええと……すみません。ですが、アルバさんがしてくださることに、とても悪意が混じっているとは思えなくて……」
そりゃあ、混ぜてないからね。と、アルバさんはボウルの中に小麦粉と香辛料を入れて、水を足しながら混ぜ合わせ始めた。
シナモンだろうか、甘くて良い香りが漂って来る。
「会って間もない相手に嫌がらせなんてするほど落ちぶれちゃいないよ」
「それに、小さい子もいるからね。アンタひとりでもそんな真似する気はないけど、エリーには身を切ってでも幸せになって貰いたいと思うもんだよ」
「少なくとも、一度でも子供を育てたことがあるならね」
身を切ってでも……か。
アルバさんはそう言うと、私にボウルを手渡そうとした。
しかし、そこで何かを思い出したように手を引っ込めて、アンタはこっちを手伝いなとキッチンを指差した。
そこにはまだ洗われていない、朝食の食器が積まれたままになっていた。
「……子供はね、みんなああなんだよ」
「どんなに貧乏でも、どんなに裕福でも、絶対にあんな時期を迎えるんだ。そこで何を経験したかで、その後が決まるんだよ」
「だから、今のエリーにはちゃんとした幸せを知って貰わないといけない。それが、大人の義務なんだよ」
「義務……ですか」
アルバさんは黙って頷いた。
見れば、もうボウルの中身は綺麗に混ぜ合わされているようだった。
彼女はそれを、慣れた手つきで型へと流し込む。
まだ私は半分もお皿を洗えていないのに、いつの間にか焼成の準備まで進んでいた。
「アンタも、あの子を預かってるならちゃんとしな」
「どういう関係かだなんて首を突っ込む気は無いけど、あの子に不幸があったら私は絶対に許さないよ」
「ユーゴにしてもそう。絶対に、悲しい思いだけを背負ったまま大人にさせちゃいけない」
「っ! あ、あの……いつから……」
見たらすぐに分かるよ。と、アルバさんはまた笑顔を見せてくれた。
そうか、私達が家族ではないと……三人の姉弟ではないと、初めから見抜かれていたのか。
いろいろなところで姉弟と……親子と間違われてきたが、その逆は今日が初めてだ。
「手が悪いのも嘘だね。でも、仕事が遅いのは本当。動かないフリしなくていいから、ちゃっちゃとやってしまいな」
「そ、そんなところまで見抜かれて……」
いいや、当然か。
手を怪我したこともない私では、障害を負った人間の真似など出来っこない。
門番の男達に突っ込まれなかったのは、その瞬間しか交流が無かったからだ。
それを疑っても仕方が無いから。
けれど、こうして触れ合う時間が延びれば延びるだけ、私の嘘などは簡単に見抜かれてしまうのだろう。
「……それで、ひとつでも本当のことはあるのかい」
「ここへ来た理由も、三人が仲良くしてるのも、こうして私を手伝ってるのも。全部、嘘なのかい」
「それじゃあ……ちょっとばかし寂しいねえ」
「……っ。それは……すみません」
全部全部、分かってるんだよ。そう言ってアルバさんは、オーブンのドアを開けた。
炎の赤に照らされた横顔には、まだ笑顔が残っていた。
でも……少しだけ、寂しそうに見えた。
「……逃げ延びてここへ辿り着いた……というのは、嘘です。私達は目的があって、北を目指していました」
「その途中で地図に無い街を発見して、調査の為に立ち寄ったのです」
そうかい。と、アルバさんは相槌を打つと、小さな椅子に腰かけて黙ってしまった。
もう、隠すことも誤魔化すことも必要無いのだな。
そう思ったら、私の心は少しだけ楽になった。
もう彼女に嘘をつかなくて良いのだと分かったから。
「……私達は家族ではありません。ですが、仲が良いのは本当です」
「ユーゴともエリーとも、まだ出会って日は浅いですが、ずっとずっと仲良くなったつもりです。いえ、エリーは初めからあの調子でしたが」
私の口はずいぶんと楽に回るようになった。
ユーゴとの出会い、エリーの本当の仕事については語れなくても、ふたりとの思い出はいくら喋っても尽きないから。
私はアルバさんの顔色を窺うのも忘れて、夢中で思い出話を浴びせ続けた。
そう望まれた気がしたから。
「それに、こうしてアルバさんのお手伝いをしているのも嘘ではありません。本心から、恩を返したくてしていることなのです」
「エリーはもちろん、ユーゴも本当に感謝していて、アルバさんのことが好きなんです」
それは当然、私もだ。
たった三日でも、受けた恩は忘れられよう筈もない。
素性の知れない私達など、冷たくあしらわれて当然だったのだ。
それを彼女は、温かく迎えて仕事まで与えてくれた。どうして嫌いになれようか。
「……初めに説明したことのほとんどは、全て虚偽のものでした。けれど、この三日間の生活は紛れもなく……」
「たった数日で何を言ってんだい。大袈裟だね、アンタは。いくらなんでも仰々しいってもんだよ」
そ、それは……そうかもしれないけれど……
しかし、気持ちとしてはそのくらいの恩を感じている。
調査の為に立ち寄った、身をひそめる必要があった。
そういう経緯は関係無く、彼女の人間性には助けられている。
この三日を、食事も寝床も満足に与えられないで過ごした可能性だってあったのだから。
「……それで、そういう話をしても良くなった理由があるんだろうね」
「まさかうっかり打ち明けただけ……なんてバカなこともありゃしないだろう」
「……はい。この街には、探していたものはありませんでした。なので、私達はまた更に北へ調査に向かいます」
「急がなければならない問題があるのです。明日にでも、出発しなければならないほど」
明日……かい。と、アルバさんはため息交じりにそう言った。
カンカンとトングでオーブンのドアの持ち手を叩いて、何度かそれを繰り返す。
はあ。ふう。と、何かをこらえるように。
「……ひとつだけ、聞いていいかい。アンタの名前だよ。本当の名前」
「偽名を使ってたんじゃないかい、そういう理由があるならさ」
「名前……ですか? いえ、フィリアという名は本名で……ああ、いえ」
本名で間違いない。そう答えようとした私に、アルバさんはまた笑顔を向けた。
そんなにも私の心は読み取りやすいのだろうか。
そんなにも嘘のつけない、まぬけな人間なのだろうか。
そういう悩みも浮かんだが、今はそれもあとに回そう。
「……私の名前はフィリアです。アンスーリァ王国、現国王。フィリア=ネイ=アンスーリァです」
「……そうだったかい。そりゃあ、育ちの良い娘だと思うわけだよ」
それから少しの沈黙があって、アルバさんはその後にオーブンのドアを開けた。
中からシナモンの甘い香りが噴き出て、どこからともなくエリーの声が聞こえてきた。
きっとこれが最後になる、暖かな団らんの始まりを告げるように。




